チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

炎の馬

2005年09月11日 09時50分00秒 | 読書
萱野茂『炎の馬 アイヌ民話集(すずさわ書店、77、98)

 アイヌとケルトは似ていると思う。
 ケルトは西へ西へ追い立てられて西涯の島、アイルランドに達した。アイヌも日本列島から追い立てられて東涯の島、北海道(樺太・千島)に達した。同じではないか。ケルト(アイルランド)民話があれほど面白いのだから、アイヌ民話も面白いのではないか。そう思って本書を手に取った。
 予想にたがわず、アイヌ民話は面白く、味わい深かったのだ。アイヌとケルトはぜったい似ている!

 とはいえ、アイルランドの民話が国家プロジェクトとして、「想像的」にケルトとみなされ、いわば「政治的」に採録された経緯は、先日読んだ『妖精のアイルランド』に詳しい。一方のアイヌ民話の蓄積は、金田一京助という先覚者があったとはいえ、あくまでも民学の有志によってなされた。狩猟民であるアイヌ人が農耕民であるゲール人に比べて(支配民族に対して)決定的に少数であったためだろう。

 アイヌ人の著者は、夫人から「道楽アイヌ」と呼ばれるように、そんな有志の一人で、実に半世紀にわたってアイヌのお婆さんたちの語るウェペケレやカムイユカラを採録し続けてきた第一人者らしい。

 本書は、著者が採録した、アイヌ語で語られたウェペケレ(昔ばなし)やカムイユカラ(神が自分のことを語った話)を、テープから起こして日本語に翻訳したもの(一部、金成まつさんが金田一京助のためにローマ字で筆録したウェペケレを含む)。
 ウェペケレといいカムイユカラといい、本書を読んだ限りではその違いは曖昧なようだ。基本的にウェペケレは主人公(話者)がアイヌなのだが、たとえば「オオカミを助けた白ギツネ」では――

  「私はアイヌの国に住んでいた白ギツネの神でありました」

 となっている。
 ふむ、そうするとウェペケレは、アイヌモシリ(地上)に住む人間や(動植物に宿る)神の物語で、カムイユカラは神の国に住まう神たちが語る物語なのかな、とも思ったのだが、カムイユカラである「白い熊神が自ら語った話」では、地上に住むクマ神とその妻が主人公なのだ(ただし活躍する舞台は天上)。
 この辺はもっと読んでみないと判断できません(カムイユカラは物語詩の形式であることが要件なのかも)。

 アイヌ民話の特徴は、日本の昔話のように「昔々あるところに……がおりました」といった客観叙述の形式ではなく、上に引用したように作中人物の一人称であること。余談だが丸山健二「千日の瑠璃」はこのようなアイヌ民話の形式に触発されたものではなかろうか。

 さて内容は、まさにアニミズムであり、草木一本一本に至るまで神が宿る世界のおはなし。
 クマ神やシカ神は、アイヌに肉を供するために現れて殺され、食われる。一方、そのことによって神は天上へ戻ることが出来る(逆にアイヌによって食されず変な死に方をしたら肉体から出られず神の国へ戻れない)。
 アイヌは、そのような自分たちアイヌに自らの肉を与えてくれた神様を、丁重にもてなしたうえで、いっぱいみやげ物を持たせて神の国へと送り返すのだ(神だからということで、無闇矢鱈と狩猟しない機制となっているのだろう)。

 この世界では夢が重要な交信手段であり、神は自分の気持ちやして欲しいことを夢でアイヌに伝える。
 たとえば「白い熊神が自ら語った話」のクマ神は(天上での)兄弟げんかで死にかける。しかしこのまま死んでは肉体から離れられない、と必死でアイヌモシリ(地上)に戻って、一人のアイヌに矢で殺してくれと頼むのだ(吐く息が人間の言葉のように聞こえる)。
 おかげで天上へ戻ることが出来た神は、アイヌの夢に現れてお礼を言い、終生あなたを守りましょう、と約束するのである。

 天上と地上に離れ分かたれた神の国とアイヌモシリが、動物、植物を介して実は直接に繋がり、交通しているのだ。このような世界観が律する物語群は、読み始めた最初は戸惑うが、慣れると実に気持ちよく、面白い。アイヌの民話、続けていろいろ読んでみたいと思った。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする