チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

方舟さくら丸

2009年02月24日 00時00分00秒 | 安部公房
安部公房『方舟さくら丸』(新潮純文学書下ろし特別作品84)

 途中で擱く能わず、夜更かしして一気に読了。面白かった!

 舞台は或る海辺の地方都市。山の斜面には新興住宅地がひろがっている。しかしそこはかつて建築石材の採石場があった場所だった。住宅地の地面の下は、採石の結果できた巨大な洞穴が縦横に広がっていた。しかも当時複数の採石会社が競争で無計画に地中を掘り進んだため、地下洞穴は入り組んだ迷路となってしまっており、詳しい坑道の地図は誰も把握していない。そんな無闇矢鱈な穴掘りのツケが回って、8年前に落盤による大事故が発生した。それがもとで採石会社は撤退、採石場は閉鎖され、地上が住宅地として分譲された次第。臭いものには蓋で、町では地下洞穴など存在しないことになっている。

 その無人の地下洞穴に、主人公が一人で住んでいました。この大洞穴、人が数千人は住める広大なもので、主人公はそこを巨大核シェルターとすべく、営々と整備してきたのです。核シェルターは、いわば現代の方舟ともいえる。少なくとも主人公はそう考えている。主人公はそこに選ばれた者たちを収容して未来に備えるべく、自らを方舟の船長と称し、共に生き残るものを求めてデパートにやって来ます。そこでユープケッチャという奇妙な昆虫を売っている男と、サクラを商売にしている男女のカップルと出会う……

 この巨大な洞穴が実に好いのです。乱歩の「大暗室」を髣髴とさせられます。同時にこの方舟は「箱男」の拡大版ともみなせる。巨大方舟は箱男の段ボール箱と同じ意味を担ってもいるわけです。
 そういうわけで主人公は救済の船長を自称しているが、実は「箱男」同様「ひきこもり」なんですね。上記3名を、主人公は最初の乗船者として連れてくるのですが、乗船させるや否や、早くも乗船させたことを後悔しています。

 核シェルターが喧伝されたのは60年代で、冷戦構造が緩んだ70年代には既に人々の意識の上では無用の長物と化していたように思われます。本篇は84年の書き下ろしで、当時としてもその設定はずいぶん時代錯誤感があったのではないでしょうか。いやシェルターを幻視する主人公自体が、そもそも社会を拒否したひきこもりなんですから、それは当然なのです。実際そんなものを信じているのは、作中人物でも主人公だけなのです。

 ところで核シェルターはいうまでもなくエコロジカルなシステムでなければ意味をなしません。それゆえここには70年代に意識され始めた「宇宙船地球号」的な観念も見出せる。ところが笑わせることに、大洞穴のエコロジーを担うのが巨大便器なのです。これはほとんど魔法の便器(笑)で、機構的には地下水の水圧差による自然水洗トイレという説明が一応なされますが、ほとんど「おーいでてこい」の「穴」と同じ。主人公は工場の有毒廃液を引き受けてこのトイレに流す商売もしている。小動物はもとより、人間の死体でも分割すれば流すことが出来るのです。理論的には海へ流れ出しているはずなんですが、海が汚れている気配はない、ということで、本篇はある意味安部公房版「おーいでてこい」なのです。

 興味深いのがくだんのユープケッチャという昆虫。動かないので脚が退化し胴体だけになっており、フンをしながら回転し24時間で一回転する。餌は自分のフン。ただし排泄24時間後に食べることになるので、その間にフンに有機物が発生して栄養的に問題はない。これまたエコロジーの鑑というべき昆虫で、主人公は気に入って方舟のシンボルに持ち帰る(実在の昆虫かどうかは明示されません。くだんの昆虫屋がハサミと接着剤をつかってでっちあげたものとの仄めかしが作中にありますが)。

 メリハリもなく作品の設定や要素を羅列していますが、ある意味そのような混沌とした作品で、主人公は主人公で何十年も非モテで女の子に接したことがなく生きてきて、生まれてはじめて、ちょっとイカした女(サクラの片割れ)が手に触れられるほど近い距離にいることでコーフンして足を滑らし、あろうことかくだんの便器に下半身はまって抜けられなくなってしまい……ここにいたってようやく、物語は動き出します(^^;

 寓意的物語ですが、そこに明確なアレゴリーはないと思います(笑)。「ひきこもり」小説であるのは間違いないですが……。基本的にファルスであり、ひきこもりが身の程をわきまえず妄想に突き動かされて救済に乗り出した結果の悲喜劇が、面白おかしくて、大いに楽しみました。
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カルメン・ドッグ

2009年02月15日 15時22分01秒 | 読書
キャロル・エムシュウィラー『カルメン・ドッグ』畔柳和代訳(河出書房08、原著88)

 構造論的人類学によれば、人間の<世界認識>は根源的に「ウチ-ソト」「文化-自然」といった二分法的思考の上にうち建てられている。これは人間の構造そのものに由来するものでありますから、これを離れた思考形態を人間は持つことができないようです。
 「人間」の概念においてもこの原理は例外ではなく、人間は生物学的にオトコとオンナに分かれていますが認識のレベルではこれが文化と自然に対応させられ、翻ってオトコが文化であることから人間とはオトコであるとなります(これはブラウンでしたか、「地球最後の人間(man)が座っているとドアにノックの音がして……」という有名なオチも英語が内包するところのかかる原理に拠っているわけです)。

 つまり人間の伝統的な思考の形式に則って(月のリズムに従う)オンナは自然の方に分類され、また(人間以外の)動物もまた、人間(文化)との対比において自然の側に配置されることから、結局人間(オトコ)に対してオンナは動物と共に自然の側の存在として無意識に措定されているわけです。(上記些か粗雑な要約の当否についてはレヴィ=ストロースやエドマンド・リーチの論考にてご確認ください)

 かかる文化人類学的知見が本書の背後にあるのは確実で(余談ながら、文化人類学の援用は70年代以降のポストニューウェーブの女性作家の共通項だと考えています)、ある日突然人間の女は動物化していき、動物の雌は人間の女化していくという現象は、まさに人類学的思考そのものが実体化した事態であるということができます。そもそも動物と女は同じ意味を担っていたのですから。

 このように「いま在る現実」の隠れた構造をSF的に変換することで顕在化した世界設定を、本篇は舞台にしているわけで、当然その原理により、動物は完全に人間(man)とはなりません。主人公のプーチはどんどん「進化」していきますが完全に「人間」となることはできない。人間の女は動物化(退化)して行きますが、これまた完全に「動物化」してしまうわけではなく、むしろローズマリーのように崇高さを発現していきもします(ところでこの進化退化という言葉を、実際著者は用いているわけですが、こういう言い方に私は著者の西欧的思考慣性から完全には自由になっていない点を見出さないではいられないのですが、このような非徹底性も著者の特質ではあります)。

 本篇は、オトコ(=社会)に対して女(=自然)をぶつけることによって、何かが見えてくるのではないか、それを一種シミュレーション(思考実験)的に描こうとしているようです。しかしそれは男と女は同じであり、それゆえ現在の差別構造を批判するといった体の、いわゆる男女同権論的なそれではなく、男と女の(身体性も含めた)差異を認めた上でのそれであるようです。プーチはそもそもセッター犬から「進化」したわけですが、やはりいつまでたってもその「本性」は変わらないようです。

 こうして書かれた本書の結末は、オトコたちの「目覚め」によって新たな世界がひらかれようとするところで終わっていていて非常にさわやかな読後感が残ります。現実的にはこんなにたやすく人間(man)社会は変化するとは思えないのですが、著者はそもそも本篇で社会変革をめざしているわけではなく、「隠れた次元」の顕在化によるカタルシスを目的として執筆されたと考えるべきでしょう。

 SF小説としてみた場合、本篇の魅力はその独特極まる世界設定(最近の言葉で「世界観」)にあり、その濃密な魅力はちょっと他では味わえません。似ているとすればコードウェイナー・スミスの小説世界あたりでしょうか(人間化した動物が出てくるといった表層的な類似ではなくて)。決して深い奥行きがある類の小説ではなく、むしろコミック的な、ある意味安っぽいギミックな世界設定なんですが(その点もスミス的といえます)、そういう「小説世界」を楽しむ「SF」であり、その手の数あるSFの名作群と比べても、けっして見劣りしないどころか、むしろそれらの作品群を睥睨する高みに達しているとさえいえるのではないか。

 若干翻訳に不用意な(文脈にそぐわない)訳語の選択がみられてがっかりしてしまう憾みがあるのですが(註)、それを差し引いても(原作自体に漲る力によって)十分以上に楽しめる傑作です。

 (註)本篇の形式は、明らかに物語である。つまり活字で組まれているけれどもエムシュがまわりに座った聞き手に対して語り聞かせている――という意味で物語(夜話、法螺話)なんですよね。当然話し言葉なのであり、生硬な漢語はそぐわないんです。
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ブレイクニーズの建てた家(らっぱ亭奇譚集ラファティ以外のお蔵出し総集編)

2009年02月11日 00時00分00秒 | らっぱ亭
らっぱ亭編訳『ブレイクニーズの建てた家(らっぱ亭奇譚集ラファティ以外のお蔵出し総集編)

 出版物ではなく、PDF作品集です。副題でわかるように、本集は去年上板、否、上網された『満漢絶席(らっぱ亭奇譚集ラファティ総集編)につづくもので、これでほぼ編訳者の「作品」は網羅されています。

 内容は、
 イドリス・シーブライト「ヒーロー登場」 (初出>「タッツェル蛇の卵」)
 アヴラム・デイヴィッドスン「ブレイクニーズの建てた家」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その弐」)
 ジーン・ウルフ「ゲイブリエル卿」 (初出>らっぱ亭mixi日記)
 クレイグ・ストレート「曾祖父ちゃんを訪ねる日曜」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その弐」)
 リサ・タトル「骨のフルート」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その壱」)
 アヴラム・デイヴィッドスン「最後の魔術師」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その壱」)
 キャロル・エムシュウィラー「妖精 ― ピアリ ―」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その壱」)
 ジェラルド・カーシュ「人じゃなく、犬でもなく」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その弐」)
 キャロル・エムシュウィラー「石環の図書館」 (初出>「らっぱ亭奇譚集その弐」)


 私はたぶん初出誌で全て読んでいるはずなのですが、実はかなり忘れていまして、タイトルをみただけでは甦ってこないものもありました。読み始めたら「ああこれか」と思いだすのだけれども、読み始めてもそうならず、そのまま読み終わってしまったのも一篇あった。ひょっとしたら読んでなかったのかも(^^;

 それが実に「骨のフルート」で、そう判断したのはこの作品、一度でも読んでいたならば、決して忘れるはずがない傑作だったからなのです。
 内容は、いわば文化人類学風味の音楽SF。ラストの、骨のフルートと作中人物であるベンが出会うシーンで、何となく結末は見えてくるのですが、逆にそれゆえにゾクゾクしてしまいました。そういう構成も見事。
 ムード派といいますか、ムーアとかブラケットを現代的に甦らせた感じがしました。嫋々たる余韻がいいのです。こういうの大好きです。
 ところがらっぱ亭さんのHPにおける紹介文では、著者は「何とも居心地と後味の悪いホラー短編を特徴」としていると記されており、本篇みたいなのは異色作品なのかもしれません。いやまて、本篇もそういえば「男女間の嫌な話」ではありますね(^^;

 「ヒーロー登場」の初読時の感想→http://wave.ap.teacup.com/kumagoro/133.html

 「ブレイクニーズの建てた家」は、異様な迫力があり本集のベストを争う作品です。さすがタイトルに冠されただけのことはあります。

 「ゲイブリエル卿」は、どっちの方向からも意味が通りますが、現代生活、夫婦生活に押し潰されそうな英雄が泣かせます(^^; ちなみに聖燭祭は2月2日。ハリー・アップルドルフはハリーアップ・ルドルフ(トナカイ)?

 「曾祖父ちゃんを訪ねる日曜」は、オチをまったく忘れていて面白かった(^^;。設定自体は「クロニカ」のそれと同じなのだが、それを趣向として謎にしておいてオチに持ってきているので楽しめる。

 「最後の魔術師」は、ブラウンっぽいともいえるけど、ちと違う。英語に不自由な移民が綴り(スペル)を聞きたかっただけなのに、なんでこんな魅力的な話になってしまうのか? まさに錬金術。

 「妖精 ― ピアリ ―」
 茶色の服しか着ない、持ってない、それが全てを言いあらわしている、そんな初老の男が、ひょんなことで(男とはまったく正反対な撥ねっ返りの)孫娘を預かることになる。僅か5週間だったが、孫娘の「毒気」にあてられた男は……
 燃え尽きる一歩手前の蝋燭の最後に大きく伸びて揺らめく、炎のようなラストが切ない逸品。

 「人じゃなく、犬でもなく」
 カーシュ十八番の海洋もの。人生の達観者がかつて一度だけかけがえのない友情を感じたのは……。皮肉且つ真摯、笑ったらよいのか涙すればよいのかよく判らん怪篇。

 「石環の図書館」
 これはもう10回は読んでいる。ボルヘス的雰囲気の傑作。憚りながら私も、今やずいぶんエムシュを読んできたからいえるのだが、ボルヘス的なエムシュって、実は異色なんですね。でもボルヘスはこんな主人公は配置しないから、やはりエムシュでしかありえない。

 ということで、いかにもらっぱ亭さん好みの奇妙な作品がセレクトされていて読み応え充分。逆にいえば非常に翻訳しづらい翻訳家泣かせの作品ばかりを並べたとも言い換えられます。
「ブレイクニーズの建てた家」 なんて、浅倉久志さんが「翻訳不可能」な作品だといわれたのではなかったかしらん(^^;

 けだし、このような作品群は、逐語訳では伝わりきらない部分があるように思うのです(大衆小説はこの限りではない。用いられている観念やセンチメントが既成のものだから)。実質「翻案」に近くなるかもしれませんが、翻訳者の「解釈」で訳していかなければどうしようもない部分が少なからずあるのではないでしょうか。なのでそれはいきおい「批評性」を含まないではおかず、その翻訳は翻訳でありながら不可避的に翻訳者の「オリジナル作品」の様相を呈してくる。
 らっぱ亭氏の訳業は、たしかに翻訳者名を隠して読まされても、あ、らっぱ亭訳だな、とただちに気づかせる独自の文体があるように感じられるのですが、それはまさに「翻訳」でありながら同時に「オリジナル」であることに因っているように思われます。その独自性の部分が、またセンスがあって素敵なんですよね(^^)
 読んでみたいなと思われた方は、当方にメールいただければ添付ファイルにてお送りします(編訳者了承済み)。
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大江戸神仙伝

2009年02月03日 00時00分00秒 | 読書
石川英輔『大江戸神仙伝』(評論社92、初出79)

 これって「火星のプリンセス」のパロディですよね! ちょっと意想外で、気づいたときはのけぞってしまいました(^^; と同時に<男の願望充足小説>でもある。いやまあ火星シリーズ自体が<男の願望充足小説>なので、よく考えればそれはある意味当然なんです。ただ本篇においては、ネタ元にさらに輪をかけてそれがあからさまで、私が気になったくらいですから、女性の読者はあるいは気分を害するかも知れません。でも作者にはおそらく挑発的な意図はない。いうなれば天然なんですね。そういう「態度」が基本設定に組み込まれている。指摘されてもおそらく「なぜだ?」と指摘の意味を理解できないでしょう。

 ストーリーは実に駘蕩としています。しかし駘蕩すぎて、次第にひねもすのたりのたりかなになってきて先行きすこし危ぶんだのでしたが、主人公が東京と江戸を自由に往来できる能力を授かってからは(ジョンカーターと同じ能力。この辺ちょっとご都合主義です)、俄然ストーリーは賑やかになります。両世界を往還することが可能となったことで、SFの契機の一つであるステレオグラムの効果が起動し、つまり江戸と現代を比較対照する視点が可能となり、結果として、現代文明のひずみ(と著者が考えるもの)が浮かび上がってきます。具体的には、江戸の社会が「循環型の経済社会」として措定され、その視点から現代が逆照射されるのです。

 現代と書きましたが、厳密には高度成長期のニッポンです。本書が刊行された1979年は、ちょうど高度成長のひずみが顕在化し始めていた時期なのですよね。カール・ポランニーが日本で脚光を浴びたのが70年代前半から半ば。玉野井芳郎「エコノミーとエコロジー」が1978年。そんな時代です。著者の想像した江戸は、この当時脚光を浴びたエコロジー経済学の影響があるに違いありません。

 そうはいっても、著者は江戸社会をまるごと賞賛しているわけでもありません。江戸と東京、どちらを取るかと二者選択を迫られる場面では、東京を選んだりと、かなり勝手なんですよね(^^;。江戸文化を称揚しつつも、現代文明の便利さを否定できない軟弱さは、まさに高度成長の恩恵で花開いた70年代的な態度ではないでしょうか。

 設定で面白かったのが、タイムスリップできるのは同じ月日でなければならないというところ。これってアトムに先例がありましたっけ。つまり空間移動はないので、別の月日に時間移動しちゃうと、そこに地球がなく、宇宙空間に出現してしまうという理屈です。太陽も惑星引き連れて銀河系の回転に組み込まれているのではないかと言うことはさておきましょう(笑)。そこまで突きつめればハードSFですがね(^^;

 「高度成長の20年かそこらで、まるで連鎖反応のように自然環境が荒廃したのを、便利さの代償というのは、一種のまやかしではあるまいか。本当の犯人は、10年使えるものでも、2年か3年で捨てて、新品に買換えさせないと成り立たないように作り上げてしまった社会組織そのものと、それを積極的にせよ消極的にせよ受け入れてきた私達なのだ。ああいう社会は、土地、資源、人口などが、無限に増加しない限り、早晩行き詰るに決まっているのに」(129p)
 はたして少子化と団塊世代引退で行き詰っちゃいました。

 「あの高度成長期というのは、まさに怒涛のような時代だったことがわかって来る。/その結果についての評価は、もとより私などのなし得る所ではないが、世界史上にかつて類を見なかったし、今後も二度と起こりそうにない、独特の強烈極まる平等革命だったのではないかという気がするのだ。(……)日本は、少なくとも世界でも有数の平等を達成してしまっている国だ」(184p)
 田中角栄政権(1972-1974)は実質社会主義政権だったと、先日読んだ『「小さな政府」を問いなおす』にも書いてありましたっけ。今は昔ですなあ。

 小さな政府といえば、江戸幕府は「驚異的な安上がり政府(チープガバーメント)」だったらしい。「都庁と警視庁と裁判所を兼ねたような町奉行所は、南と北が月番制であったが、正式職員は(……)僅か290人で万事取り仕切っていた。/現在の都庁職員22万人から考えると、単純計算で700~800分の1というところだ。行政範囲は広がっているが、今は、電話も自動車もある。一方、都民(庶民)の人口は、20倍程度に過ぎないのだから、驚くべき増加率ではないか」(194p)。「なぜこう安上がりに市中の治安を守れたかというと、実際の市政は、町(ちょう)役人という市民側の自治体に下請けをさせておいたからである」(195p)
 まさに今流行の「民間へのアウトソーシング」ですね(汗)。

 とまあ、ステレオグラム効果のおかげで、内容的にはむしろ70年代に萌芽した社会傾向の、究極進化型である今この時代にこそ読まれるほうがあざやかに伝わってくる部分があり、とても興味深く、面白く読まされました。
 しかし本篇は、だんぜん東京(江戸)の地理が頭に入っているほうが面白いはず。東京の人にはくっきりイメージできるであろうところが、関西在住の私にはいまひとつクリアな像が結べておらず、いささか歯がゆい小説でもありました。
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