チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

ゲームの魔法

2005年12月18日 17時28分57秒 | 読書
藤野恵美『ゲームの魔法』(アリス館、05)

 アトピー性皮膚炎で入院した6年生のきなこは、同じく入院している同い年の沙雪と知り合う。沙雪は病名は明らかにされないが重病らしくずっと学校に行かず入院しているらしい。きなこと沙雪はパソコンでメールのやりとりをはじめ、やがて<アドベンチャー・スター・オンライン>というネットゲームの中でそれぞれロボットとネコのアバターを被って一緒に遊ぶようになる。

 沙雪がネットゲームに没頭するのは、現実の病気(現実の自分)から目を背けるためという面があった。病気に立ち向かわなければ治るものも治らないというきなこに反発した沙雪は、一時きなこを拒絶する。
 小学生とはいえ、リアルな人間関係、社会関係をほとんど知らない沙雪は「無理であると思われた問題が案外簡単に解けたりする」現実というものの理屈を超えた摩訶不思議さ、玄妙さというものが理解できない。

 クリスマスの夜、約束したゲーム内に現れない沙雪は、その時現実では容態が急変していたのだった。そして――

 ――現実なのか夢なのか、きなこはアドベンチャーゲームの世界内に、現実の自分がいるのを知る。そしてそこに現れたのは現実の姿の沙雪だった。ふたりは現実の姿のままゲームの世界で冒険するが、どうしても倒せない(プログラムミスのバグである)敵と対戦せざるを得なくなる。ところがそれを倒さなければもう道はないのだ。「そんなの不可能」「ぜったいに無理」という沙雪に、きなこは「最初から諦めちゃダメだよ」と、沙雪を残してたったひとりで立ち向かっていく。あわやというとき、助っ人が現れ、それは沙雪だった。ふたりは力を合わせ、バグであるはずの敵を倒し、その背後の扉を開く……

 それは夢だったのか、とにかく目を覚ましたきなこは沙雪の病室へ駆け込む。そして点滴のチューブや機械に繋がれた沙雪が、自分と同じ体験を(夢の中で)したことを知る。

 ――少女たちが、一段上位の階梯へと遷移する瞬間をあざやかに切り取り捉えた成長小説の傑作ではないだろうか。
 ネットゲームという現代的、先端的なアイテムを使って書き上げられた本篇は、しかし「現代的」という皮相な形容詞とは完全に対極的な小説なのだ。むしろ「根源的な」というべき深い感動を懐胎しており、言葉の正当な意味で「児童文学」と言い得る小説である。

 追記。ひとつ書き忘れた。ゲームを介して一階梯上った少女たちは、「いつのまにか」当のそのネットゲームを「しなくなっていた」と作者は書く。つまりネットゲームが少女たちを救った、というお話ではないということ。それは短絡だ。大人への数ある曲がり角のそのひとつを、曲がりきるための「アイテム」として、ネットゲームが機能したことを作者は見逃していないのである。
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あかね書房と少年少女世界SF文学全集

2005年12月18日 14時17分10秒 | 読書
 SFJapan連載の大橋博之日本ジュヴナイルSF 出版史③ 少年SFの系譜」を読む。
 今回(2005winter号)は「あかね書房と少年少女世界SF文学全集」。前回にもまして力作である。ページ数も増えたのではないだろうか。

 今回最大のサプライズは、昭和28年の「学校図書館法の制定」のくだり。なんとこの法律が、かつて40年代から50年代にかけてわが国に、英米に勝るとも劣らないSFが開花した、その礎石となったというのだ!

 つまり「全ての学校は図書館を持たなければばらない」という学校図書館法の制定により、その時点でそこそこのヴォリュームがあったあかね書房のシリーズが新設の学校図書館に続々と入荷し、それらを学校図書館で読んだ昭和30年代生まれの(我々)子供たちが、それを読むことによって「SF」というものの「肝腎」を摑み「体得」することが出来たがゆえに、彼らは最初の「プロパー」SFファンたりえた。
 その下地があったればこそ、我々世代が中高生となった40年代、突如爆発的に日本SFは英米に匹敵するSF大国となりえたのだ!
 なるほど、そうだったのか~!!(註:そこまで過激なことは書かれていませんので為念)

 つぎに、「完訳主義」がSFを滅ぼした問題。
 本稿によれば、我々世代が熱狂的に支持したあかね書房に代表される少年SFの多くは、大人向きSFのリトールドやアブリッジやダイジェストだった。
 それは日本の当時の少年読者の読みの水準が、英米のそれよりもはるかに高かったため、英米の少年SFでは薄すぎて満足できず、圧倒的に大人向きのアブリッジに人気が集まったからだそうだ。

 ところが、リトールドやアブリッジやダイジェストは悪書である(全訳=完訳でなければならない)というのが当時の一般的な児童文学者の認識で、その無言の圧力でアブリッジ方式が下火になってしまった。
 これに対して福島正実は「全訳必ずしも完訳にあらず」として、たとえば外国の風習を克明に描いた部分を全訳しても吾国小国民にとって何ら益するところあらずとしてむしろアブリッジで読みやすいかたちにするほうが良心的だと反論する。

 私もこの意見には全面的に賛成で、子供は想像力があるからアブリッジでも十分に(大人が)全訳で読んだのと同じ感動を抱くことが出来るのだ。これについては、私は自分の経験に照らしてそう断言できる。
 また子供の頃読んだからといって、大人になって読み返して面白くないかといえば決してそんなことはなく、よい本は何度読み返しても面白いのだから、その意味でも全訳=完訳主義というのは木を見て森を見ない意見ではなかろうか。

 とにかく、かかる「全訳=完訳主義」が少年SFシリーズを衰退させたことにより、上記の反対の現象が起ったことは明らか。即ち小中学生の「素養」の中から「SFの肝腎」が消滅し、SFファン予備軍が形成されなくなったのだ。(註:そこまで過激なことは書かれていませんので為念)

 それが結局昨今のわが国における「SF冬の時代」の招来を結果したことは間違いないことと思われる。
 暴論かもしれないが、私は、「SFを楽しむ」という特殊な能力は、15歳までに完成するのではないだろうか、と考えている。それ以後にSFに出会っても、よほど感性的に適合しない限りなかなかその能力は身につかないような気がする。
 その意味で、一見迂遠にみえるかも知れないが、日本SFジャンルの再構築のためにも、(名作アブリッジを積極的に行った)ジュヴナイルSFの復活がなされることを強く望みたい。まずは下位より始めよというではないか(>違う)。
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ヴェネツィアの恋人

2005年12月12日 21時26分10秒 | 読書
 異形コレクション最新刊『アート偏愛』(光文社文庫、05)の冒頭に収められた高野史緒「ヴェネツィアの恋人」を読む。

 いやこれはよい小説を読みました。監修者が劈頭に配置したのも頷べなるかなの傑作幻想小説でした!
 本篇の舞台もまた、著者のこれまでの異形掲載作品同様、まさしく独断場の史緒ワールドいや史緒的欧羅巴である。

 ――瓦斯灯点る石畳の通りを、馬車が行き交うパリの夜のたたずまい……その逆エキゾチックな(?)描写にどっぷり浸っているうちに、ふと気づけば読者は、此の世界とは別の、いわば陰画の、とはいえお馴染みの史緒的世界に、するりと到着しているのである。

 そのポジからネガへの変相の瞬間の滑らかさは、これまでの著者の作品の中でもずばぬけており、著者の精進を感じさせられる。どうも著者は、本篇で(技術的に)なにか「突き抜けた」のではないか。そんな気がした(監修者が冒頭に配置したのも、それを感じ取ったからではないか)。

 かかる史緒ワールドであるが、しかもなお今回はひとところに留まってはいない。世界の異情緒を楽しむ暇もあらばこそ、(詳しくは書きませんが)パリの裏通りの占女の店を基点に、主役の男女に寄り添って、読者もまた水面を跳ねる石きり遊びの小石のように、此処から彼処へと慌ただしくどこまでも移ろって行くことになるのである。
 その変相のめくるめく急展開がもたらすセンス・オヴ・ワンダーに、読者はすっかり酔いしれるに違いない。
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