藤野恵美『ゲームの魔法』(アリス館、05)
アトピー性皮膚炎で入院した6年生のきなこは、同じく入院している同い年の沙雪と知り合う。沙雪は病名は明らかにされないが重病らしくずっと学校に行かず入院しているらしい。きなこと沙雪はパソコンでメールのやりとりをはじめ、やがて<アドベンチャー・スター・オンライン>というネットゲームの中でそれぞれロボットとネコのアバターを被って一緒に遊ぶようになる。
沙雪がネットゲームに没頭するのは、現実の病気(現実の自分)から目を背けるためという面があった。病気に立ち向かわなければ治るものも治らないというきなこに反発した沙雪は、一時きなこを拒絶する。
小学生とはいえ、リアルな人間関係、社会関係をほとんど知らない沙雪は「無理であると思われた問題が案外簡単に解けたりする」現実というものの理屈を超えた摩訶不思議さ、玄妙さというものが理解できない。
クリスマスの夜、約束したゲーム内に現れない沙雪は、その時現実では容態が急変していたのだった。そして――
――現実なのか夢なのか、きなこはアドベンチャーゲームの世界内に、現実の自分がいるのを知る。そしてそこに現れたのは現実の姿の沙雪だった。ふたりは現実の姿のままゲームの世界で冒険するが、どうしても倒せない(プログラムミスのバグである)敵と対戦せざるを得なくなる。ところがそれを倒さなければもう道はないのだ。「そんなの不可能」「ぜったいに無理」という沙雪に、きなこは「最初から諦めちゃダメだよ」と、沙雪を残してたったひとりで立ち向かっていく。あわやというとき、助っ人が現れ、それは沙雪だった。ふたりは力を合わせ、バグであるはずの敵を倒し、その背後の扉を開く……
それは夢だったのか、とにかく目を覚ましたきなこは沙雪の病室へ駆け込む。そして点滴のチューブや機械に繋がれた沙雪が、自分と同じ体験を(夢の中で)したことを知る。
――少女たちが、一段上位の階梯へと遷移する瞬間をあざやかに切り取り捉えた成長小説の傑作ではないだろうか。
ネットゲームという現代的、先端的なアイテムを使って書き上げられた本篇は、しかし「現代的」という皮相な形容詞とは完全に対極的な小説なのだ。むしろ「根源的な」というべき深い感動を懐胎しており、言葉の正当な意味で「児童文学」と言い得る小説である。
追記。ひとつ書き忘れた。ゲームを介して一階梯上った少女たちは、「いつのまにか」当のそのネットゲームを「しなくなっていた」と作者は書く。つまりネットゲームが少女たちを救った、というお話ではないということ。それは短絡だ。大人への数ある曲がり角のそのひとつを、曲がりきるための「アイテム」として、ネットゲームが機能したことを作者は見逃していないのである。
アトピー性皮膚炎で入院した6年生のきなこは、同じく入院している同い年の沙雪と知り合う。沙雪は病名は明らかにされないが重病らしくずっと学校に行かず入院しているらしい。きなこと沙雪はパソコンでメールのやりとりをはじめ、やがて<アドベンチャー・スター・オンライン>というネットゲームの中でそれぞれロボットとネコのアバターを被って一緒に遊ぶようになる。
沙雪がネットゲームに没頭するのは、現実の病気(現実の自分)から目を背けるためという面があった。病気に立ち向かわなければ治るものも治らないというきなこに反発した沙雪は、一時きなこを拒絶する。
小学生とはいえ、リアルな人間関係、社会関係をほとんど知らない沙雪は「無理であると思われた問題が案外簡単に解けたりする」現実というものの理屈を超えた摩訶不思議さ、玄妙さというものが理解できない。
クリスマスの夜、約束したゲーム内に現れない沙雪は、その時現実では容態が急変していたのだった。そして――
――現実なのか夢なのか、きなこはアドベンチャーゲームの世界内に、現実の自分がいるのを知る。そしてそこに現れたのは現実の姿の沙雪だった。ふたりは現実の姿のままゲームの世界で冒険するが、どうしても倒せない(プログラムミスのバグである)敵と対戦せざるを得なくなる。ところがそれを倒さなければもう道はないのだ。「そんなの不可能」「ぜったいに無理」という沙雪に、きなこは「最初から諦めちゃダメだよ」と、沙雪を残してたったひとりで立ち向かっていく。あわやというとき、助っ人が現れ、それは沙雪だった。ふたりは力を合わせ、バグであるはずの敵を倒し、その背後の扉を開く……
それは夢だったのか、とにかく目を覚ましたきなこは沙雪の病室へ駆け込む。そして点滴のチューブや機械に繋がれた沙雪が、自分と同じ体験を(夢の中で)したことを知る。
――少女たちが、一段上位の階梯へと遷移する瞬間をあざやかに切り取り捉えた成長小説の傑作ではないだろうか。
ネットゲームという現代的、先端的なアイテムを使って書き上げられた本篇は、しかし「現代的」という皮相な形容詞とは完全に対極的な小説なのだ。むしろ「根源的な」というべき深い感動を懐胎しており、言葉の正当な意味で「児童文学」と言い得る小説である。
追記。ひとつ書き忘れた。ゲームを介して一階梯上った少女たちは、「いつのまにか」当のそのネットゲームを「しなくなっていた」と作者は書く。つまりネットゲームが少女たちを救った、というお話ではないということ。それは短絡だ。大人への数ある曲がり角のそのひとつを、曲がりきるための「アイテム」として、ネットゲームが機能したことを作者は見逃していないのである。