チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

忌中

2004年12月11日 22時51分27秒 | 読書
車谷長吉『忌中』(文藝春秋、03)

 純然たる《私小説》は、小説家みずからの置かれた状況そのものを小説化する形式であるからして、充足した境遇に居る作家が書く私小説は、もとより充足した円い作品とならざるを得ない。
 著者・車谷長吉は、周知のように苛烈な環境に身を投じた体験を描いて世に出た、いわば純然たる《私小説作家》であった。当然その《私小説》は、文字通り人を切った直後の抜き身を思わせる、一種ぎらぎらてらてらした途轍もない凄みを湛えた、円とは対極の尖ったものであったわけだが、そんな小説家であっても、文壇で地位を確立し「嫁はん」を貰ってしまえば、その状況は言うまでもなく「充足」したものとならざるを得ないのかもしれない。必然、彼が生み出す《私小説》が次第に円みを帯びてきはじめるのは《私小説》の「形式」からしてよく理解でき、納得できるのである。とはいえ、その作物が以前のような凄みを湛えないことまで理解してあげる必要は全くない。

 私小説である最初の3篇、「古墳の話」「神の花嫁」「「鹽壺の匙」補遺」を読み、そう思わないではいられなかった。とはいっても、もちろんそこは車谷である、そんじょそこらの充足的私小説ではない。併し、たとえば「古墳の話」のラスト、古墳の頂上で祝詞を読む場面からは、何ら私には伝わってくるものがなかった。むしろ作者の芝居気、見得を切っているような空疎さしか感じられなかった。

 残りの3篇「三笠山」「飾磨」「忌中」は、もとより下敷きにされた事実はあるのかも知れないが、少なくとも主人公は著者ではなく、《私小説》とはいえない。普通の小説である。
 これは凄い。
 「三笠山」の主人公の妻・葦江は、あまりの心労にまず味覚がなくなり、ついには色が感じられなくなって世界は無色透明と化すのだが、読者はそれを納得し受け入れ、共感しないではいられない。なまじ(充足した)著者が出てこないから、以前の「凄み」が再び作中に漲ったのである。

 おそらく今後もこの傾向は続くと思われる。著者の小説は、《私小説》は「武蔵丸」(『白痴群』)に顕著なように平凡化していくだろう。今後著者の作品で評価されるものが生まれるとしたら、それは私小説ではない、いわゆる「作った」小説から現れるに違いない。

 ところで車谷長吉と倉阪鬼一郎は資質的によく似ていると思った。が、ある一点において、両者は限りなく離れてしまう。 
 「三笠山」「飾磨」「忌中」の3篇は、すべてある「狂気」が描かれている。併しその狂気はすべて読者には納得でき了解できる。なぜそのような狂気に立ち至ったかが、その筋道が、はっきり読者には見える。おそらく車谷においては、狂気は正気のうちのある一形態に過ぎないと言うような認識がある。
 倉阪は違う。倉阪にとって狂気は、正気とは隔絶したもののようだ。正気から狂気への移行は遷移的ではなく、いわばワープ的に飛び越えてしまう。車谷では連続しているが、倉阪では断絶している。倉阪は狂気を正気とは別なものと思いたいようにみえる。狂気に対して強い恐怖があるのかも知れない。 
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願い星、叶い星(補足)

2004年12月03日 21時43分57秒 | 読書
 下の感想文、肝心なことを書き落としていることに気づいた。私の書くものはいつもこうなります(ーー;。
 それは、ベスターは「タッチ」を楽しむ作家だということ。
 タイムマシンで、レンブラントとゴッホとピカソをつれて来て、彼らにある静物、たとえば一輪挿しを描かせたとしよう。おそらくこれが同じ一輪挿しかと思うほど彼らの描いたもの異なっているはずだ、というのは容易に想像できるのではないだろうか。これが「タッチ」である。

 その過程を図式的に述べよう。彼らが目にしているのは「同じ現実」である。その「現実」を、それぞれの目が捉え、目はその捉えた映像をそれぞれの脳に送り込むわけだ。そこでその映像は、彼らの主観によって「変形」され、画布に表現される。そのように解すことができると思われる。
 つまり「タッチ」とは、ある「変形」である。あるいは「解釈」。

 私たちは、レンブラントのタッチ(解釈)を楽しみ、ゴッホのタッチ(解釈)を楽しみ、ピカソのタッチ(解釈)を楽しんでいる。絵画鑑賞の原理はこのように明快なところがある。

 小説の鑑賞は、このように明快には割り切れない多様な情報を含んでいるとはいえ、その多様な情報の中には絵画と同様の鑑賞ができる情報もある。
 上記3者は、とりわけ変形(解釈)の仕方に特徴を有する画家だけれども、一般に、というか原則的にいって「リアリズム」は変形の度合が低いものと定義できるだろう。

 話を小説に戻す。一般的にエンターテインメント小説は、「大衆」に受け入れられなければならないから、描写における「変形」はできるだけ避けなければならないだろう。

 ベスターは実にその部分で勝負に出た作家と言えるのではないか。ベスターの真骨頂は、表現されたものの「内容」(ストーリー、プロット、アイデア、オチなど)にあるのではない。「内容」自体は案外使い古されていたり凡庸であったりする場合が多い。「内容」はベスターにとって2の次だったのではないか。ある意味彼が小説で表現したかったのは、「表現」そのものだったと言えるかも知れない。

 ところで「表現」は自立的には存在し得ない。表現とは常に「何か」を、「或る内容」を表現することとしてしか存在し得ない。そういう意味で、「内容」は、彼の華麗な「表現」(タッチ)を存在させるための「土台」に過ぎないといえるだろう。
 「表現」とは、とりもなおさず、或る「解釈」である。しかもベスターのそれは、ありがちな「既に流通している」解釈ではない。「新しい」解釈だ。つまりベスターは「表現」そのものを表現したいと考える作家だったに違いない。

 このような作家を読むにはコツがいるのは明らかだろう。それゆえ、ライトノベルや恋愛小説のように、表現の「変形」が原則タブーであるジャンルの作品に慣れた読者には、お手上げ状態になる場合があるのではないかと想像される。

 ベスターの小説は、ゴッホやピカソやレンブラントを楽しむように読むべきなのだ。だがレンブラントは分かってもピカソとなると拒否反応を示す人も出てくる。ところがベスターの「表現」(解釈)はピカソどころか、ある意味カンディンスキー並みなのだ(わたし的にはクレーではなく、カンディンスキーなのだ(^^;)。
 ある種の読者にはそのコツを掴むのはなかなか大変なのかもしれない。とはいえそれにいったん気がつきさえすれば、あとは存外ずるずると没入していけるはずなのだ。そういう意味で本書は抽象絵画的小説集といってもそう的外れではないように思うのだが。
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願い星、叶い星

2004年12月01日 21時14分18秒 | 読書
アルフレッド・ベスター『願い星、叶い星』中村融編訳(奇想コレクション、04)

 編訳者によるあとがきを読むと、ベスターは短篇を40作足らずしか書いてないらしい。短篇集としても、実質的には『ピー・アイ・マン』(8篇)と『Starburst』(11篇)の2冊しかなく、本書はその『Starburst』から6篇、あと『ピー・アイ・マン』から1篇と短篇集未収録作品1篇がセレクトされている。
 その結果、本書は、当然ながらいかにも「奇コレ」テイストに溢れた作品集となったわけだけれども、その分『ピー・アイ・マン』よりも「実験性」、「過激さ」において、やや大人しめになったかもしれない。
 て言うか『ピー・アイ・マン』が凄すぎるのであって、本集も、そんじょそこらのSF作品集なんかより数段ぶっ飛んでいるのは勿論である。
 作品数が40に満たないのだったら、これはもう全作品を出版してほしいですね。それだけの価値は十分にある作家だと思います。

 「ごきげん目盛り」は、〈狂ったロボット〉テーマの作品だが、むしろ実験的な、アクロバティックな叙述に注目したい。小説の内容がこの叙述形式を要求し、ベスターはその「論理の要請」に十二分に応えている。

 「ジェットコースター」では、〈パッション〉のエネルギーを失った未来人が、それがまだ溢れんばかりに存在する〈原始的〉な「現代」へやって来てそれを貪り味わい尽くそうとするが……。

 『人間以上』や『呪われた村』が示すように、SFで書かれるアンファン・テリブルものは、ミュータントテーマとの合わせ技になりがちなのだが、「願い星、叶い星」は、この定型を踏みながら最終的に定型自体を相対化してしまう。ソフィスティケーテッドな佳品。

 「イヴのいないアダム」 主人公が開発したロケットの新燃料は、友人たちの心配どおり地球を壊滅させる。たったひとり生き残った主人公は、その死の直前、自分の体(有機物)と海から、新たな創造が始まることを夢見る。その目に映る「星々はまだ見慣れた星座を形作っていない」。つまり主人公は始原の(といっても一億年前の)地球に吹き飛ばされていたわけだ。終焉が始まりに連結し、円環するヴォークトばりの壮大なSF!

 〈時間テーマ〉SFは、人間の「ここより他の場所」幻想に根源的に支えられている。「選り好みなし」は、かかる〈時間テーマ〉のドグマを冷徹に暴いている。<擦れた不機嫌なベスター>の面目躍如たる小品。

 「昔を今になすよしもがな」は、『ピー・アイ・マン』から撰ばれた一篇。リーダビリティは本集中随一。
 「カップルを頭のいかれた人間にして、その狂った目を通して世界をながめれば面白いかもしれない」と作者は執筆の動機を語っているが、それは一種の煙幕だろう。世界にたった一人残された(と思い込んだ)人間が取る世界への態度にはどんなものが想像できるか。この男女の互いに対称的な振る舞いは、どちらも(一見)奇矯に見えて、実は切実なリアリティが表現されているのではないか。本篇は〈地球最後の人間〉テーマ(のSFに多く見られる硬直した観念論)を再考するベスターならではの傑作。

 「時と三番街と」は愛すべき時間テーマのちょっとした一齣。

 「地獄は永遠に」は、本書の3分の1を占める140pの中篇。ちょっと長すぎる憾みがあるのだが、読み終わった瞬間にその長さを忘れる。面白い!
 『宇宙の眼』のように、作中人物がそれぞれの主観世界を彷徨し、どの世界もそれぞれになかなか面白いのだけれども、最後のロバート・ピールの世界が不条理を極めていて凄い。そしてラストの仕掛けにあっと驚かされるのだ。 
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