チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

怪奇・伝奇時代小説選集2

2004年09月17日 22時45分24秒 | 読書
志村有弘編『怪奇・伝奇時代小説選集2』(春陽文庫、99)

「伊右衛門夫婦」鈴木泉三郎(『伊右衛門夫婦』所収、大正14年)
 これは傑作。鈴木泉三郎という人は、本書を読むまで全然知らなかったのだが、後出の「生きている小平次」といい、実に良く出来ていて、才能のある作家だと思った。
 解説によると、明治26年(1893)生まれで大正13年(1924)没。つまり31歳で亡くなっており、長生きしていたら、きっと名を残したのではないか。
 さて本篇、四谷怪談を、幽霊を出さずに再話したもの。
 作者は善光寺尼僧で元文年間に83歳で大往生を遂げた澄永尼こそ、お岩ではないかと想定し、

 もしお岩が生き延びて八十幾つにしずかな大往生をとげたとすれば、あの有名な四谷怪談の怨霊は伊右衛門自身の心の中に棲んでいただけのことである。(21p-22p)

 とする。すなわち恐怖を心理的なものに求めて超自然を出さない所謂モダンホラーの手法で書かれているのだ。
 本篇の伊右衛門は全き悪ではない。むしろ不平不満を内向させてしまう性格に設定されている。かかる伊右衛門と、自律心にとみ、甘えることを潔しとしないお岩との間に生じたわずかな行き違いが、最後の悲劇に収束する展開は見事というほかない。

「実説・四谷怪談」大庭鉄太郎(特集人物往来、昭和31年8月)
 本篇のお岩は、幼い頃疱瘡をわずらい元々あばた顔で片目がつぶれている。伊左衛門(実説と銘打たれているように本篇では伊左衛門)は婿入りの時角隠しを取ったお岩を見て初めてその事実を知るという設定。
 伊左衛門に体よく追い出されたお岩は、後日伊左衛門が他の女と一緒になり子供までもうけたことを知り、我が家へ駆け戻るが、伊左衛門の子らに「お化け」と叫ばれ、自己嫌悪から逃げ出し、失踪する。その後伊右衛門の4人の子供が病死したり関係者に次々不幸が訪れることが記されるが、

 世間では、お岩の祟りだといったが、芝居のように化けて出た事実はない(31p)

 と述べている。お岩が原因ではないなら、何が不幸を招いたのかが説明されない。幽霊は出なかったけどお岩が祟るのは祟った、という意味か。
 いずれにしても鈴木作品に比べると小説としての完成度は落ちる。

「霊媒の巫女に殺されたお岩」八芳邦雄(現代読本臨時増刊、昭和32年7月)
 本篇では、お岩が伊右衛門に強姦されて所帯を持つことになる。タイトルは小説の内容と異なる。45pに一行記述があるのだが、前後関係が全く切れており、作者の不注意か、締め切り後構想が変わったのかも。

「隠亡堀」国枝史郎(大衆文藝、大正15年6月)
 これはまたポストモダンな(^^;、脱構築された四谷怪談の後日譚。あまり何度も化けて出るもんで、伊右衛門に怖がられなくなったお岩と小兵の幽霊が、それならばと濡れ衣をホントにするべく骨をきしませて、板戸隔てた二つの死骸がキッスをする・・

「大奥やもり奇談」大栗丹後(『徳川風雲録』平成10年所収の「怨念大奥秘話・幽月」を加筆改題)
 関ヶ原に破れた石田三成の愛を受け子を産んだ女が、徳川への復讐を女であることによって果たそうとする。子、孫三代にわたる怨念を、木下長嘯子勝俊を狂言役に描く。

「生きている小平次」鈴木泉三郎(『鈴木泉三郎戯曲全集』所収、大正14年)
 戯曲です。本篇も傑作。解説に「幽霊を出さずに心理的に恐怖感をもりあげていくという、近代的な手法のうちに人身の機微を見事に描き出した名作」と引用されているが、まさにそのとおりで付け加えることはない。
 ラストで太九郎夫婦の後を追うように歩いていくのが、生きている小平次なのか、全くの別人なのか、あるいは幽霊なのか、作者は解答を出さずに物語を締めてしまう。だからこそ、ぞくぞくする恐怖感に読者は戦慄せずにはいられない。

「聖母観音興廃」大泉黒石(『黒石怪奇物語集』、大正14年)
 俳優だった大泉洸は作者の子。話は長崎を舞台の隠れキリシタン物。伝奇的面白さを堪能できる。

「髑髏屋敷」和巻耿介(讀切特撰集、昭和39年3月)
 江戸に美女をさらう怪盗が出現。恋人をさらわれた主人公が怪盗の謎を解く。面白いがちと主人公の回りで話がうまく運びすぎ。

「南国魔笛城」月光洗三(新讀物、昭和24年3月)
 長崎志々岐湾が舞台。お家乗っ取り騒動に、漂流してインドにいたるも10年後インド奇術を体得して帰国した快男児が得意の蛇使いで主家の危機を救う。典型的明朗時代小説。

「啜り泣き変化」杉江唐一(別冊讀切雑誌、昭和45年2月)
 前作とは一変、本篇はスプラッタホラー。業病のため処女の脳髄を食べる雪姫。雪姫に仕える怪奇蜘蛛男。かれは雪姫に仕えるため背骨を折りすねの骨を削り歯を打ち砕いて蜘蛛男となった忠義の人だが、なぜわざわざ蜘蛛男と化さねばならなかったのかが全然わかりません(^^;

「一本足の女」岡本綺堂(剣豪列伝集、昭和33年2月)
 大滝庄兵衛夫妻が養女とした一本足の乞食の少女は、長ずるにつれ美しい娘となるが、女は怪異の者だった。妖気に触れ庄兵衛は次第に狂っていくが・・。本篇は怪奇小説の傑作。

 本集は心理モダンホラーにはじまり、スプラッタホラーなどを挟みながら、超自然的怪奇小説で締めくくられる。よく考えられた名アンソロジーといえるでしょう。
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ソーニャとクレーン・ヴェッスルマンとキティー (2)

2004年09月15日 21時25分53秒 | 読書
 ソーニャがクレーンと再会した日、クレーンが彼女を自宅に誘ったわけですが、

 その誘いはあきらかに彼女が自力で家までたどりつけるというのが前提だった。(310p)

 つまり(引きこもってしまった)クレーンは、迎えに行くことを嫌がったのです。一人で来れないんだったら来なくていいよ、というようなやりとりがあったかも知れません。そんな仕打ちをされても彼女はクレーンの家を訪れます。クレーンとソーニャの、お互いを思う気持ちにはかなり温度差があります。

 さて、やっとこさ彼女がたどり着いた家の庭は手入れがなされてなくて、彼女は薔薇が植えてあれば素敵だろうと想像をめぐらせます。

 正面の長い歩道を歩きながら、彼女はクレーン・ヴェッスルマンの死んだ妻が道沿いに立てさせたガス灯をローズピラーに変えていった。(311p)

 もちろん頭の中で、想像で変えていったわけです。ラノベならこういう書き方は許されません。先生そんな書き方じゃ読者が理解できませんよ、隠喩はダメと編集に朱を入れられてしまいます。

 正面の長い歩道を歩きながら、彼女はクレーン・ヴェッスルマンの死んだ妻が道沿いに立てさせたガス灯を、想像のなかでローズピラーに変えていった。

 話がそれました。つまりソーニャは、再会する前段階からクレーンの妻をどんどん消し去る作業に入っているのです。

 ところが、正面玄関に立った彼女は、

  C・ヴェッスルマン
  キティー


 と記された表札に気がつきます。

 それを見たとき、ソーニャにもわかった。(311p)

 何がわかったのでしょう? ヴェッスルマンが一人暮らしではないことが、です。しかも人間の女でないことも。おそらくキティーという名前でピンときたのでしょう。
 そこできびすを返して帰ってしまってもよかったのに、彼女は戻りません。

 ソーニャのような人は、芯がとても強いのだ。(311p)

 狙った獲物はちょっとやそっとでは諦めません(^^;ゞ
 ドアを開けたのはキティーで、ソーニャはもちろんそれがキティーとわかります。

 が、わたしやあなたにはわからないかもしれない。われわれならドアを開けたのはジェリー・ニューマーにそっくりの背が高い、裸の娘だったと言っただろう。

 説明は全然ありませんが、キティーはネコ(あるいはテナガザルか犬かも)から作り出された<人間そっくり>なのでしょう。そういうものが、既に作り出されている時代なのです。知能は低そうです。ソーニャはキティーのことを「それ」という代名詞を用いています。家政婦の能力がないことは、部屋が汚れていることでわかります。ではキティーはどんな役に立つのでしょう。すっ裸に、短いエプロンを後ろ前につけただけの「それ」は。・・

 一方、クレーンは「それ」なんて言いません。
 「彼女は素晴らしいだろう?」
 とソーニャに誇らしげに言います。

 それでもソーニャはそれから1年間にわたり、週に一度訪問を続けるのです(想像上のチャウチャウ犬を発明し、食べ残した肉を持ち帰る口実にします)。
 クレーンは「もし自分が死んだら、遺言執行人には、キティーにふさわしい<人間そっくり>のハンサムな若者(ソーニャの年収よりはるかに高い)を買ってやってもらいたい、あの娘が幸せになってほしいから」と意味深な目つきでソーニャに言います。
 ソーニャはおそらく自分が遺産相続人になるのだ、とそのとき思ったかも知れません。しかし次の週には、クレーンはそんなこと一切忘れてしまっているかのようにふるまうのです。

 そしてさらにその次の週、クレーンからの電話がなく、何日かして彼女が様子を見に行くと、クレーンは死んでおり、彼の左足は食べ物がなくなったキティーに囓られていた。

 キッチンで見つけた冷凍食品をキティーのために解凍してやりながら、ソーニャは、

 結局のところ、クレーン・ヴェッスルマンは自分に何がしかの遺産を残してくれたのだろうか、と考えていた。(314p)

 というなんとも心理的に複雑至極な話。主にソーニャの心理に従って読みましたが、クレーンの心理も一筋縄ではいきませんね。どちらも聖人君子からはほど遠い人物です。ある意味ものすごく「リアル」。何度でも読める秀作です。
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ソーニャとクレーン・ヴェッスルマンとキティー(1)

2004年09月14日 21時47分21秒 | 読書
ジーン・ウルフ「ソーニャとクレーン・ヴェッスルマンとキティー」柳下毅一郎訳(ジャック・ダン&ガードナー・ドゾワ編『魔法の猫』扶桑社文庫、98、所収)

 本篇はもはや純文学ですね。
 というのは追々として、まずは、例によって気がついたところを列挙します。

 もちろん、今は二人とも年寄りではない。今はソーニャはあなたくらいの年だし、クレーン・ヴェッスルマンはいくらか年上だ。だが、二人は知り合っていない。(307p)

 のっけからウルフ節全開!
 この小説は近未来が舞台です。この近未来のソーニャとクレーンは年齢は書いてませんが、かなり老齢と判断されます。したがって、この「今」というのは読者がこれを読んでいる「今」、すなわち初出がOrbit8ということで1970年当時ということになります。
 1970年当時、この二人はまだ若かったけどまだ知り合っていない、という一種のレトリックなんですね。その二人が老年になったとき、二人は出会い、物語は始まるわけです。
 つまりウルフは、「今は昔」の逆をやっているのです。いやー洒落てますねえ、テクニシャンの面目躍如たるものがあります。間違ってもラノベではお目にかかれない書きっぷりです(いや編集が書かせてくれないかも)。

 運転手はバスと呼んでいて、バス運転手の精神を持っていたし、それはヘリコプター・パイロットの精神とはまるで違うものだった。(310p)

 些末な部分ですが、この近未来社会のヘリコプター・パイロットは70年代アメリカのバス運転手並みのレベルだったということ。日本でいえば、バブル期の不良タクシードライバーのようなものか。
 だから、ソーニャが高齢者カードで半額料金で乗車することに「憤慨」するわけです。
 SFっぽさを出す演出ですが、SFM鼎談で柳下さんが言うように、無理矢理とってつけたような感じがしますな(^^; 

 さてソーニャは結婚してないらしく子供もないため、国から補助を受けられない「法の狭間」に住んでいます。したがってきわめて貧しい。
 男やもめのクレーンはどうやら資産家の一人暮らしらしい(一応)。

 クレーン(・・・)がソーニャと出会ったのは、まだ彼が、ときおり、家から出ていたころだ。(308p)

 分かりづらい表現(訳?)ですが、要は老齢の彼はかなり出不精になっていた(終いに引きこもってしまうのは小説の通り)、ということ。
 そういうある意味僥倖で、二人は出会い、意気投合します。
 しかしソーニャのほうには、一種の打算がほの見える(彼女の言動は、クレーン以外の他者には「はしっこい」と映り、作者も「お世辞の名人」と描写する)。

 新しい章の開幕、結婚式、花束、新しい名字、今のままではない死。(310p)
(つづく)
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怪奇・伝奇時代小説選集1

2004年09月12日 20時25分37秒 | 読書
志村有弘編『怪奇・伝奇時代小説選集1』(春陽文庫、99)

 99年出版と比較的新しい本ですが、載録されている作品は、ずいぶん前のものが多い。作家も殆ど知らない人ばかり。

「柞の鬼殿」生田直親(読切特選集、昭和33年3月)
 今昔物語集に材を求めた王朝怪異譚。室生犀星の王朝物に近い雰囲気があり、引き込まれる。作者はつまらないスキー小説の人とばかり思っていたけど、こんな秀作があったんだね。

「幻法ダビデの星」多岐流太郎(読切雑誌、昭和36年10月)
 島原の乱に材を取った山風ばりの伝奇小説。森宗意軒を大物バテレン魔術師として設定し、宗意軒によって天草四郎に注入され、四郎を四郎たらしめていたダビデの星が、原城落城に際して、由井正雪にかすめ取られる。

「幽霊と寝た浪人」郡順史(時代アクション剣豪小説、昭和47年3月)
 黒姫党と称する山賊集団に食い物にされる村の頼みで、浪人白紙銀四郎は用心棒を請け負う。典型的な時代小説で、幽霊はつけたし。

「天保怪異競」九鬼澹(読切雑誌、昭和26年2月)
 無惨人形の名手、泉目吉は、三顧の礼で両国の見世物小屋のひとつに得意の死人首や幽霊首を提供することになる。初日、出掛けた目吉は、隣に恋敵で人形師としてもライバルの菊岡仙吉の人形が小屋掛けされているのを見る・・。これも典型的な時代小説で一種名工ものといえるが、超自然的要素はない。

「水鬼」岡本綺堂(講談倶楽部、大正14年1月)
 いわば大正時代の夏休み小説といえる。夏休みと怪談というセットは、つねづね私に強い相関性を感じさせるのだけれど、本篇で、大正時代に遡ってもその相関性は有効なんだなあ、と意を強くする。夏休みに帰った郷里の川に繁茂する藻を、土地の人は幽霊藻と通称していた。その幽霊藻にまつわる奇怪な事件に主人公は巻き込まれる。

「水鬼続談 清水の井」岡本綺堂(講談倶楽部、大正14年2月)
 日本の怪奇小説ジャンルに燦然と輝く傑作中の傑作。菊池氏滅亡に際して、逃れてきた由井吉左衛門が、その地に家を構えたときには、その井戸は既に存在していた。その井戸の中に打ち捨てられていた2面の鏡が、天保年間の当主の娘である姉妹を惑わせる。調べてみるとその地は源平時代以来、菊池氏に滅ぼされるまで越智七郎左衛門という武士が住んでいたことが判る。そしてかの越智氏と、かれを頼って落ちてきた平家ゆかりの二人の女性との摩訶不思議な因縁が明らかになる。600年の時を超えて甦る超自然怪奇譚。

「死剣と生縄」江見水蔭(講談倶楽部、大正14年11月)
 掲載誌にふさわしく、いかにもな講談調がたのしいお話だが、それ以上のものではない。

「猫に踊らされた男」栗田信(時代アクション剣豪小説、昭和47年3月)
 これは物語が破綻している。

「妖異きず丹波」風巻絃一(剣豪列伝集、昭和33年2月)
  本篇も破綻しているが、それは短すぎて説明不足のため。与えられた紙幅がこの枚数だったんだろうけど、きっちりと紙幅を使えばもっとよくなったはず。

「生血曼陀羅」大澤逸足(講談雑誌、大正15年9月) 
 これはまた講談そのものの口調で語られていて、読むことの悦楽が味わえる。内容も乱歩を彷彿とさせる、無惨絵巻物といった印象。
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ネフィリム

2004年09月10日 21時34分33秒 | 読書
小林泰三『ネフィリム 超吸血幻想譚(角川書店、04)

 一気に読了。これは傑作。とはいえラストまで読んでも、全然物語は収束していません。どころか全体像すらまだつかめません。続編があるのでしょうか。
 しかもジーン・ウルフばりの謎めいた小説です。
 だいたい、本書の舞台はどこなのか。なまず街とかワーム地区という地名が出てきますが、どうも通常の空間ではないような感じがします。
 ラストで、主人公のヨブは、これから日本へ行こうか、と言うので、少なくとも日本ではないのかと思うのですが、ところが163pあたりで、シンゴとかトモヤとかいう名前のチンピラ暴走族が登場しているのです。
「アルファオメガ」で<太陽系>に仕掛けをした作者です。絶対に何か仕掛けがあるはず。

 名前と言えば、登場人物の名前も意味を持たされているようです。この辺もウルフに似ています。
 たとえば、ヨブは本文でも言及されていますが、あのヨブ記のヨブと同様「神に抗う者」であるようです。
 もう一人の主人公ランドルフは、当然ランドルフ・カーターでしょう。ランドルフを慕うドロシー・ゲイルは、まんま「オズの魔法使い」。ドロシーの同僚だったミナ・ハーカーはご存知「ドラキュラ」のジョナサン・ハーカーの妻。マッドサイエンティストの名前は、「ドクター・マル……」と途中で切れてしまい、この辺もウルフ的。ストーカーのJも不明。ひょっとしたら、「ストーカー」はブラム・……なのかも(^^;

 本書の設定では、この世界はもともと人類と吸血鬼とストーカーがいたらしい。吸血鬼のヨブが、なぜか全面的に庇護する少女ミカは、ルーシーというまだ登場しない双子の姉妹を持っており、この姉妹の血をもしヨブが吸血したら、大変なことになるようです。どういうふうに大変なのかもさっぱり判らない。Jとミカは知り合いのようですが、どういう関係なのかも不明。
 そういう設定すら、本書を読み終わった段階でも、まだなにも見えてきません。しかも、ラストでは火の鳥が誕生し(!)、人々が立ち去ったあとの瓦礫から何かが飛び出し、静かに宿主を探し始めます……
 うおー、いったいこの先どうなるのだ? ちゃんと収束するのだろうか?
 いずれにしてもこの小説、とてつもない物語になるのではないでしょうか。読み終わったとき、私は図らずも「妖星伝」を連想しました。帯に、<ハード・SF・アクション・ホラー・小林泰三ワールド>とありますが、ひとこと<伝奇小説>でよかった。
 まことに本書こそ平成に甦った、国枝史郎、半村良の衣鉢を継ぐ正統本流の由緒正しき「伝奇小説」ではないでしょうか。
 続編の可及的速やかなる刊行を希望します!
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名犬クランキー

2004年09月10日 19時44分05秒 | 読書
ロン・グーラート「名犬クランキー」浅倉久志訳(SFM04年10月号)

 ジーン・ウルフを読んだあとでは、どうしてもワリを食ってしまいますね。
 1998年の作品ながら、50年代風の非常にソフィスティケートされたユーモア未来社会SFです。出てくる人間がみな俗物(^^; そんな人間どもが、アイボの進化型のような知性を持ったロボット犬に、手玉に取られてしまうのが何ともおかしく、溜飲を下げられます。いかにも浅倉さん好みの小品。
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ショウガパンの館にて

2004年09月09日 21時24分18秒 | 読書
ジーン・ウルフ「ショウガパンの館にて」柳下毅一郎訳(SFM04年10月号)

 これはウルフらしい謎めいた話。「ヘンゼルとグレーテル」が下敷きにされている。
 童話に添って解釈するならば、登場人物のティナ・ハイムは、元ネタの、兄妹の義母と魔女の両方の役を兼ね備えた役回りといえるでしょう。

 ティナの夫は不審な病死をし、つづけて実子の2歳の赤ん坊が事故死する。保険会社が調査に乗り出し警部補のプライスがティナの家を訪ねる。ティナは夫の前妻の子供ヘンリーとゲイルと一緒に住んでいる。
 ティナの言動を見、プライスは彼女をシロと見当を付ける。実は保険会社にティナを殺人で告発したのはヘンリーとゲイルだった。とはいえ稚拙なタレ込みでそれは保険会社にも警察にもバレバレ。ともかくそういう次第でプライスがやってきたのだった。
 後日家を訪ねたプライスは(ティナは留守だった)ヘンリーとゲイルを諭して帰る。
 だが、そのときティナは両手両足を縛られて、電子レンジの前に転がされていたのだ。彼女はヘンリーとゲイルに、お菓子の家の魔女同様、電子レンジの中に頭をつっこまれて焼き殺されようとしていたのだが・・

 というのが外枠の話。

 ――ここからはわたしの一解釈です。

 ティナは魔女ではないのではないか。
 冒頭、家がやってくるプライスを目撃する。家は彼を「きこり」と認識します。つまり、

 どうやって森の中の道を迷わずに来たのだろう(231p)

 と考えるこの「家」は、まさにヘンゼルとグレーテルの物語の、森の中のお菓子の家(厳密にはお菓子の家の精)なのです(何故アメリカに、ということは考えないでおく(^^;)。
 そもそも、家(の精)は魔女の僕もしくは一心同体でなければなりません。ところが、ティナは、この家にそんなによいイメージを持っていません。

 「いい家なんかじゃない」とティナはつぶやいた。(・・・)それを聞いたのは家そのものだけだった。(238p)

 少なくとも家とティナの間に一心同体な感じはありません。描写されるティナの内面の声は、そのまま信じてよいように思われます。
 だが・・ティナは時々魔女に占拠されるのです。ゲイルは訴えます。

 「警部補さん、あの女がパパを殺したのよ。(・・・)警部補さんにはわからないのよ――ときどき、本物の魔女になるんだから」(241p)

 結局、夫の死、実子の死の真相は分からないままですが、ゲイルの言うとおりにティナが手を下したのだとしても、それは魔女に乗っ取られたティナの仕業だった?
 というか、魔女さえも実はいないのではないでしょうか。
 なぜなら魔女は、ヘンゼルとグレーテルに焼き殺されたのだから。

 結局、すべては家の精の仕組んだことなのだと思うのです。兄妹の行動も、義母の行動も。
 なぜかお菓子の家の精が、アメリカ(へやって来て)古い家に憑依していた。たまたまそこの住人となった家族が[ヘンゼル:グレーテル:魔女(義母)]と同構造の[ヘンリー:ゲイル:義母]というセットを含んでいたために、家の精が昔の出来事(ヘンゼルとグレーテルの物語)を思い出し、それを現在の(上述の)「材料」を用いて、<再現>しようとしたのではないか。
 ・・・ありえない解釈でしょうか(^^;ゞ。
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ラファイエット飛行中隊よ、きょうは休戦だ

2004年09月08日 21時24分52秒 | 読書
ジーン・ウルフ「ラファイエット飛行中隊よ、きょうは休戦だ」酒井昭伸訳(SFM2004年10月号)

 「アメリカの七夜」とはうって変わって、これは洒脱なショートショート。
 フォッカー三葉機マニアの主人公が、オリジナルと寸分変わらない複製機を自作する。ただしドープ塗料だけは本物の強燃性のではなく、不燃性のを使う。なぜなら、当時既に不燃性のそれが開発されていたならば、開発者のアントニー・フォッカーとラインホルト・プラッツも当然そっちを使ったに違いないからだ。
 そういうわけで、主人公は暇があれば(想像上の友軍機と共に)編隊飛行で大空を駆けめぐっている。
 ある日愛機の前に、カラフルな気球が出現する。それは南北戦争当時リッチモンドの淑女たちが自らの色とりどりのシルクのドレスを供出して縫い上げたという伝説の気球のように見えた。ゴンドラには娘が乗っていて、彼に向かって

 娘は(・・・)コルクで栓をした、変な形の茶色い瓶をとりだした。(・・・)瓶のボロボロになった黄色いラベルが見えた。ソフトドリンクが誕生した当時の、相当に古いしろものだ。オリジナルの瓶に違いない。(・・・)娘はコルクの栓を抜き、わたしに向かって何かを象徴するようにかかげて見せた。(228p)

 これはコカコーラではないでしょうか。コカコーラは南北戦争で負傷退役したJSペンパートンによって、ジョージア州アトランタではじめて世に出ますから・・。最初期のコーラは、コルク栓だったのでしょうか。

 ともあれ、そのとき燃料が切れ、主人公は泣く泣く飛行場へ引き返す。直ちに給油し再び出撃するも遂に気球は発見できず。主人公は思う。もしも唯一オリジナルと異なるドープ塗料をオリジナルどおりにしていたら・・・と。

 いやあウルフらしからぬいい話ですね。まるで70年代日本SFのような味わい。
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アメリカの七夜

2004年09月07日 20時02分36秒 | 読書
ジーン・ウルフ「アメリカの七夜」浅倉久志訳(SFM04年10月号)

 本篇は究極の「み~た~な~」小説です(^^;
 かつて世界の中心であったアメリカですが、この小説の時代は、自ら作り出した(決して干からびないパンや、害虫駆除用の無数の毒薬等)自然界に存在しない化学物質によって自己崩壊してから100年が経過している。アメリカ人は殆どが遺伝子損傷で奇形化しており、一種終末世界が現前しています。
 この当時、世界の中心はイスラム世界に移っているようです。イラン人の御曹司が、かかる奇形アメリカ人の跋扈する旧首都ワシントンにやって来、異様な(現実とも幻想とも判然としがたい)7日間を体験します。
 その意味で、本篇はゴシック小説である、ともいえると思います。著者は「ケルベロス」において、系外宇宙の双子惑星にゴシック世界を構築しましたが、本篇では、なんと科学と進歩の国・アメリカの栄えある首都を、奇形が徘徊するゴシック都市化してしまいました。
 これは明らかにウルフのアメリカに対するアレゴリーでありましょう。まさにNWの典型といえます。日本でいえば中井英夫とか、そういう立ち位置を占める作家ではないでしょうか。
 外枠は上述の通り、ゴシック小説であり「み~た~な~」小説、すなわち怪奇小説なのですが、単にそれで終わらないのは、小説をそのままストレートに描写しないその筆法にあります。その結果、小説世界は輪郭が曖昧になり、現実と幻想が分かちがたく融合し、その何とも知れぬ闇の蟠りのような内奥が、読むことの快楽を味わせてくれるのです。

 ところで特集解説で柳下さんが、「七夜」なのに実際には六夜しかない。一夜は省略されていると書かれています。
 私の解釈では、ちゃんと「七夜」あります。
 10pの「やっと到着!」で始まるパラグラフを第一日と捉えられたのだと思うのですが、実はその前日があるのです。
 主人公は、こう書きます。

 どこからこの日記を書きはじめるか。ぼくにとってのアメリカは、海の変色からはじまった。

 つまり主人公にとっての「アメリカ」は船中から始まるのです。上の文に続けて、

 きのうの朝、デッキに出てみると、海が緑色から真っ黄色に変わっていたのだ。

 とありますから、「やっと到着!」で始まるパラグラフは、実は第2日目の日記ということになります。
 ことさら「謎の一日はどこだ?」と思わせるような書き方をすることで読者を煙に巻いて、ウルフは面白がっているのです。
 そういう意味で、「ケルベロス」もそうですが、ウルフは「新本格的」(特集鼎談の大森さんの発言)というよりも、むしろ「邪馬台国論争的」という方が近いのではないでしょうか(^^;ゞ
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