チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

ミステリーの人間学

2009年07月23日 00時00分00秒 | 新書
廣野由美子『ミステリーの人間学英国古典探偵小説を読む(岩波新書09)

 まず著者はE・M・フォースターのストーリーとプロットの定義を引用し、「フォースターの区別によれば、ストーリーはたんに、次がどうなるかという原始的な好奇心のみを刺激するものであるのに対して、プロットは、新しい事実を「孤立したものとして見ると同時に、すでに読んだページに書かれていたことと関連づけて見る」ための知性と記憶力を、読者に要求する」(3~4p)として、かかるプロットは必然的に(一般名詞としての)《ミステリー》(原文は「」)を契機とするとします。

 もとより(時系列的な)ストーリーを、小説として成立させるのがプロットなので、元来ストーリーとプロットは別のものではありません。
 著者も「物語に対する人間の心の作用を「それから?」と「なぜ?」とに振り分け前者の出所を好奇心に、後者の出所を知性に」(5p)帰すフォースターの所論を「実際にはそれほど単純に割り切れるものではない」としています。
 ストーリーのみで成立する小説はありえないので、実際のところは、(ストーリーから)「高度に組み立てられた小説」(4p)をプロットの小説と便宜的にいっている訳です。

 繰り返しますと、かかるプロットは必然的に(一般名詞としての)《ミステリー》を契機とするわけですが、そのような《ミステリー》に特化したのが、他ならぬミステリ小説(探偵小説)で、文学から切り離してゲームであるという観点(ノックスの十戒、ヴァン・ダインの二十則)があるのを認めた上で、しかしミステリも小説の一形式である以上、また犯罪を主題とする特性ゆえに、他にもまして「探偵小説とは人間を描くものであり、とりわけ人間性の暗部を描き出すうえで、特殊な方法論を有するジャンルである」(23p)として、その観点よりイギリスの探偵小説を「読み直」したのが本書です。

 そういう訳ですから「ネタバレ禁止」みたいな一般に流布する「ミステリの常識」を著者は認めません。
 「読み捨てにされるべきゲームならばいったん種明かししてしまえば元も子もないが、人間性を探求するミステリならば、再読の価値がある。いや、読み返すたびに新たな発見がある」(32p)
 「犯人を知ったうえでふたたび読み直してみると、この作品(「アクロイド」)には、心に後ろ暗いものを持つ人間が、いかに追い詰められてゆくかが、行間から読み取れるように、作者によって周到に仕組まれていることがわかる」(170p)

 というのが著者の立場です。

 そのような著者が考えるイギリス探偵小説の嚆矢は、ディケンズとなります(ディケンズが探偵小説であるのは「バーナビー・ラッジ」連載途中でポーがその殺人事件の謎を解いてしまったことから明らか。余談ながらポーとディケンズの関係は、乱歩と谷崎の関係を髣髴とさせて興味深い)。そしてディケンズ→コリンズ→ドイル→チェスタトン→クリスティと著者による「読み直し」が行なわれるわけです。ドイルの科学的探偵法に対して、チェスタトンの方法をいわゆる「内観法」とするのが面白い。つまりドイル対チェスタトンは自然科学対現象学といえるかも。

 以上のように、著者のアプローチは、日本の一般的なミステリ読解としては少数派だと思われます。しかしながら、このようなアプローチは、SF界ではつとにニューウェーブにおいて実践されてきたものであり、わたし的には全く違和感なく受け入れられるものです。ミステリ小説全体を網羅しうるものではないけれども、本来ミステリ小説が原理的に担わなければならなかったのはこのような役割だったのではないでしょうか。
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