チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

ヴァーミリオン・サンズ

2009年06月05日 00時00分00秒 | バラード
J・G・バラード『ヴァーミリオン・サンズ』浅倉久志・他訳(海外SFノヴェルズ80)

 積読消化でしたが、収録作品自体は他媒体でだいたい読んでいます。初読は「希望の海、復讐の帆」と「ヴィーナスはほほえむ」の2篇のみ。「歌う彫刻」は(第1期)奇天で、「風にさらばを告げよ」はNW-SFで、「コーラルD……」はメリル編で、残りは創元文庫で既読。当時はしっかりSFファンしていたのです(笑)。とはいっても30年以上前のこととて、実質初読と変わらず。

 シュールレアリズム小説です(^^)。まさに超現実派の絵画を「読んだ」という感じで、どっぷり耽溺させてもらいました。と同時に、本篇がSF以外のなにものでもないことを再確認。

 本書収録作品群が書かれた60年代よりちょっと未来、70年代とおぼしきダリやジョン・ケージがまだ存命のこの地球のどこか、涸れた海と湖の岸辺にひろがる砂丘地帯に位置し、独自の生態系を持つ架空の別荘地ヴァーミリオン・サンズ。そこは《浜辺疲労症》といわれる頽廃と倦怠が支配する閑階級のトロピカル・リゾートで、必然的に、彼らに寄生する前衛芸術家の吹き溜まりになっています。そこはまた、人間の精神状況がただちに外化しうる特異な《サイコトロピック(向精神的)エリア》でもあった。
 つまりは著者が唱える「外なる現実と内なる精神が出会い溶け合う場所」すなわち《内宇宙》を、これ以上もなく体現したエリアとして設定されているわけです。

 で、その《内宇宙》とは何かといえば、結局のところ、(少なくとも本書に限っては)著者バラードが、おそらく夜ごと訪れたのであろう、著者にとってなじみの「夢の場所」に他ならないようです。
 実際、宇宙小説の作家が、現実のデータと自己の想像力を掛け合わせて<外宇宙>のさまざまな「絵」をつむぎ出したように、バラードはそれを<内宇宙>という領域において行なっているわけです。向きは逆かもしれませんが、世界設定から出発する方法論自体は同じ。ですから見た目はSFとしては奇抜ではありますが、少なくとも本書に関しては、そんなに前衛的なことをやっているわけではありません。本書について、著者自身「エキゾチックな郊外への戻り旅」と称しているのですが、そういう意味で、「戻り旅」とはたしかに言いえて妙。上に「本篇がSF以外のなにものでもない」と書いた所以です。

 とはいえふつうの「外宇宙SF」と違う面もやはりあります。それは作中に「夢の論理」が残存しているところなんです。ストーリー上の辻褄が合わない部分が多々見受けられるのです。たとえば「風にさよならをいおう」の146ページ、ガレージの2階で寝ているはずの運転手が、突如出現して「わたし」に殴りかかる場面があります。これはガレージで寝ているというのが「わたし」の思い込みだったのかもしれないけれども、これはやはり夢の論理で解釈するべきだと思います。
 超現実絵画を彷彿とさせる魅力的な「風景」とともに、かかる「現実」の規則にとらわれない(逆にいえば夢の論理に則った)存在形式とが、本書をSFであると同時に「シュールレアリズム小説」でもあると感じさせるところであります。

 それから「歌う彫刻」、「ヴィーナスはほほえむ」にとりわけ顕著ですが、本書の作品群は基本的にファルスなんですよね。前者は、恋にのぼせ上がって何も見えなくなった青年の愚かしい一人相撲ですし、後者は、これはもはやスラップスティックの極致であり、ラストのオチも壮大で笑わせてくれます。著者が楽しんで書いている姿が目に浮かぶようです。というわけで、総じて「夢小説」の愛すべき小品集という感じで楽しみました。
コメント
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