チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

巨船ベラス・レトラス

2007年05月13日 15時29分42秒 | 読書
筒井康隆『巨船ベラス・レトラス』(文藝春秋、07)

 かつて豊田有恒のショートショートのある傾向を差して「論文小説」(論文SFだったかも)と評したのは矢野徹であったが、ある意味本篇はその延長線上にあるといってよいだろう(或いはむしろ螺旋を描いた遙かな高みというべきか)。矢野の謂う「論文小説」とは、すなわち小説という形式を自論の開陳に援用する手法で、本篇ではそれによって著者の文学観が示され文学論が展開され文学批評が試みられる。しかもそれは理論的な文学一般にとどまらず、さらにもっと具体的な、著者自身の体験(主に不愉快な体験)にも適用されているようだ。

 どうしてそのような手法が選択されたのか、さすがに著者は周到で、その理由を91pにおいて「革新的ミステリ作家」根津槍四郎に語らしめている。
 とはいえもとよりこの著者が「批評的な文章が」「不得手な筈」はないのだから、そうするとやはり「(小説には)確かに誤読の自由というものがあり勝手に作者の考えを断定してそれを否定的に論じることはできるであろう。だがそうしたところでそれは作品を断定した彼ら自身に跳ね返ってくるのだ」ということなのだろうが、加うるにおおむね一つの結論に収束しなければならない論文とは違って、小説という形式に拠れば、複数の観念を、その優劣は問わずそのまま並列できるということが大きいのではないだろうか。

 実に本篇では、複数の作家やその予備軍がそれぞれの文学観を開陳する。が、結局それらはすべて著者である筒井康隆自身が抱いている文学観であるように思われる(たとえば鮪勝矢のルサンチマン・リアリズムすら、著者の分身であるに違いない錣山兼光は面白いと感じてしまう。後述)。
 ベラス・レトラスとは森下一仁さんによればスペイン語で「文学」という意味らしい。たしかにクイーンエリザベス号(運命的にはタイタニック号!)に、作中人物によって擬制される巨大な「ベラス・レトラス」(文学)を、そもそも論文的に収束させることができる筈もないというばかりでなく、本篇のベラス・レトラスは著者自身の巨大な「文学的内宇宙」を表しているに違いない。そう、巨船ベラス・レトラス(文学)は筒井康隆自身のインナースペースでもあるのだ。

 「誤読の自由」ということにも関連するが、上記鮪勝矢の自然主義小説を面白いと感ずる錣山の感性は、まさに作中で言及される「受容理論」によるものであるといえよう。読者としての感受性が上がれば上がるほど、その読者のベラス・レトラスはますます巨大化していく他はない。
 実に本書はその事実だけを述べているともいえなくもないのだが、81pで著者は、伽苗から「体験談」をきかされた七尾に、「もしあなたがその話を小説に書かれたらとしたら、そこから先が文学になるんですけどね」と語らせる。その言説はまさに王道的な(その分先端的ではない)文学観であり、同時に鮪勝矢の文学観に対する批判であるわけだが、だからといって著者が向かおうとしている方向(前方)を照明するものではないのは明らかだ。そのような文学観からは、本篇のような著者のあからさまな分身でしかない登場人物は否定されなければならない筈だからだ。
 しかしながら、だからといってそのような類の「文学」を「楽しめない」ことにはならないのが受容理論の示すところであって、事ほどさように文学の快楽は矛盾するものを含んで錯綜している。と同時に、本篇が「小説」で「なければならない」所以でもある。「誤読のたのしみ」は読(書熟練)者だけに開かれている。

 先走って分身と書いたが、錣山だけではなく、伊川谷も笹川も七尾も根津も村雨澄子も、鮪や河田さえも、すべて著者の分身、著者の広大な(相矛盾もする)文学的内宇宙の反映人格に他ならない。
 例え笹川が「町田康」、根津が「京極夏彦」、伊川谷が「瀬名秀明」を髣髴とさせるにしても(いや私の想像に過ぎません。笹川は誰の目にも明らかですが、根津は「黒皮の手袋」で、伊川谷は「長身色白」で判断しましたが自信なし。ホラー作家を殆ど知らないので)、それは外見的な趣向に過ぎず、彼らが語る文学観はすべて広大にして多面的な著者の夫々その一面を担わされているにすぎない。

 村雨澄子の場合もその例外ではない。が、あまりの相似に少し驚かされた。ジュブナイル作家にして最も革新的な文学観を持つ(担わされる)村雨澄子は、実に「藤野恵美」がその外形的モデルなのではなかろうか。
 作品中でフツーの小説を嫌悪し、「映像化否定するのが「フツー」の小説からの脱出」であるとして、その結果文学に残されるのは「文章」だけだとまで突出してしまう村雨澄子は、果たしてベラス・レトラスの(前方を見据える)船首像に、最終的に変化してしまう。もちろん現実の藤野がそのような(極北的な)文学観をもっているとはとても考えられない。しかしながら近年めきめき売り出し引っ張りだこのジュブナイル作家で、最近初めて一般書の「想言社」(!)から依頼があったという設定は、どうしても藤野恵美がモデルとしか考えられません。筒井さんも藤野恵美に注目しておられるのかな?(笑)

 ともあれ、巨船ベラス・レトラスは「文学」そのものであると同時に、著者筒井康隆の文学的インナースペースでもあるというのは、かつて著者が唱えたSFはすべての文芸ジャンルの裏側に遍在できる(SFの超虚構性)ということとある意味フラクタルといえ、私は、やがて沈没するかもしれないという著者の「危機感」も含めて、かかる「超虚構船ツツイ号」の乗り心地を堪能した。
コメント
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