チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

物語消滅論、補足

2004年10月19日 18時28分21秒 | 読書
「動物化」というよりも「家畜動物化」ですね。→『ペット化する現代人──自己家畜化論から』
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物語消滅論

2004年10月18日 21時23分50秒 | 読書
大塚英志『物語消滅論 キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」(角川ONEテーマ21、04)

 キャラクター小説を語り、おたくを語ることで、純文学を、旧世代を挑発する著者の華々しい論考が、この数年立て続けに出ており、私も(全てではないにしろ)かなり気になって読んできたわけですが、著者の「旧制度」をケチョンケチョンにけなすのは、実は本心ではないのではないか。或る意味、非常に<状況>的な、戦略的な方法論に貫かれており、その裏側には、一種衒いめいたアンビバレンツな思考の揺れを、何となく感じていたことは、過去の感想文に記しているとおりです。→『物語の体操』『「おたく」の精神史』

 本書は、以上の意味で著者がはじめてホンネの部分で書き上げた論考といえると思います。どうやら私の直感は、案外的を外したものではなかったようです(^^;。

 『物語消費論』は実は近代文学批判だったのです。これは後付けでも何でもなく、ぼくの一貫した立場であることはぼくの『物語の体操』、『キャラクター小説の作り方』といったマニュアル創作論を読んでいただければわかるはずです。(34p)

 ところが大方の理解は、これらの著作を、いわばキャラクター小説擁護の書と捉えたのでしょう。それは著者の本意ではなく、本書が執筆されたということではないでしょうか。

 名前から外見から来歴、人格まで「私」をピンキーストリート的な属性の集積として表出していくことに(今の連中は:管理人註)さほど違和感がない。ぼくは違和感がある。(132p)

 そもそもサブカルチャーとは、人間を画一化して動員していくテクノロジーの産物に過ぎないからです。ここでは深く触れませんが、おたく文化的サブカルチャーは実はファシズムの産物なのですから。(166p)

 とはいえだからといって旧来の近代文学を擁護しているわけではない。「文学」の現状、内実はまさに空洞化の極みに達しているからで、それゆえだれでも訓練次第で書けるようになるキャラクター小説を凌駕する作品を、おまえらは書けるのか! という激烈なアジテーションになっていたわけです。かかるアンビバレンツが著者の戦略をゲリラ戦的な彼我をはっきりとさせない形とならざるを得ず、しかして両側から誤解されるという事態も招いたかも知れません。

 さて著者の認識に拠れば、近来のキャラクター小説の隆盛は、近代文学の死(私の死)によって来るものであるわけですが、しかしそれはステージが一つ進んだといったものではなく、逆に近代小説以前への回帰に他ならないとします。

 ギャルゲーもまた結局は尾崎紅葉のようなものに過ぎない気がしてしょうがない。(167p)

 著者が言う「説話的な因果律」とは、「なぜ」を遡行させていく近代科学的な因果律とは違い、歴史的通時的洞察を欠いた、いわばすべてアプリオリな「公理」として認めてしまう(あるいは考究することを厭う)、一種数学的な非歴史的共時的なものであると思われます。そしてそれは近代文学が「私」を産出する以前の世界認識の方法と同じだと著者は言っているようです。

 かかる思考法は同時進行的に世界に蔓延しているようで、ブッシュの論理がまさにこれであり、

 それは善と悪、敵と味方といったファンタジー的で単純なイデオロギーに他ありません。(204p)

 当然、キャラクター小説(ライトノベル)、サブカルチャーもまた。

 ところで、近代文学(私=主体)は19世紀に始まり、今や死滅しようとしている、とする著者の認識は、人間は19世紀に始まり今や死滅しようとしている、とするフーコーの言説と全く軌を一にしています。レヴィストロースは何度も牽いてくる著者が本書でフーコーに全く言及しないのは不自然ですが、逆に言えば著者の曲者らしいところかも知れません。
 ともかく、上から抽き出されるのは、21世紀の日本から「人間」が死滅しようとしているということに他なりません。我々から「人間」が死滅したら、どうなるのか。いうまでもなく、「動物化」が始まるのです。

 かかる潮流を著者は肯定しません。

 柄谷行人のように「近代文学は終わった」で済ましてしまうわけには行かないのです。(159p)

 こういう超越性にいきなりジャンプさせないためにも、抑止としての受け皿として「近代的言説」は当面、必要です。現在の「文学」が自ら終わったといい、あるいはライトノべルズ化していくのなら、それは勝手ですが、だったら、漱石でも花袋でも太宰治でも三島由紀夫でも大江健三郎でも、かつてあった「文学」でいいわけですから。(162p)


 それ故、文学の側の「現状」に著者の怒りの矛先は向くのです。

 とはいえ、おそらくぼくは最後の近代の側に駆け込んで行くでしょう。それがぼくのリアリティなんです。だから、ぼくは「現実」を支える「近代的言説」の建て直しに奔走するわけです。(…)機能不全の「文学」を罵倒し、戦後民主主義を擁護し、サブカルチャーを戦後史的に語る、一見、脈絡のないように見えるぼくの仕事はしかしその点で一貫しています。言わないと理解してくれる人が少なくないのではっきりと言います。(146p)
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フェッセンデンの宇宙

2004年10月14日 22時46分17秒 | 読書
エドモンド・ハミルトン『フェッセンデンの宇宙』中村融編訳(奇想コレクション、04)

 エドモンド・ハミルトンといえば、おそらく大多数のSF読者には、野田昌宏訳のキャプテン・フューチャーシリーズがただちに思い浮かぶのではないでしょうか。
 ハミルトンといえばキャプテン・フューチャーなのです。ことほどさように野田氏の訳業は、強烈なインパクトを本邦SF読者に与えたものでしたが、此度中村氏によってセレクトされ訳された(既訳のあるものは新しく訳し直された)本作品集は、そのいわば偶像化固定化した(コミカルで軽妙な)野田ハミルトン像を打ち壊さないまでも、揺さぶる意義を担っているように私は思いました。
 キャプテン・フューチャーだけがハミルトンではない。それが本書を通して編訳者が伝えたかったことなのでしょう。かかる意味で(野田ハミルトンに対する)中村ハミルトンというべき本書には、スペースオペラ作家の顔に隠れていたハミルトンの別の一面が収められている。そしてむしろこちらの顔こそがハミルトンの本質である、というのが編訳者の考えのように思われます。それはいうなれば、奇想と抒情とがないまぜになった一種独特な怪奇幻想小説なのでした――

「フェッセンデンの宇宙」(ウィアード・テールズ誌、37年4月)
 今となっては古めかしいミクロコスモステーマの嚆矢的作品。叙述の形式が一種ゴシック的であり、ある意味作者の本貫を表しているようで、むしろその面で興味深い。

「風の子供」(ウィアード・テールズ誌、36年5月)
 編訳者がいうようにメリット流の秘境冒険譚。傑作。「生きている風」というのは、童話や民話ではごくありふれたものだが、本書ではゴリゴリの現実主義者を配することで、逆に物理的存在感というか〈生き物〉としての存在感が生き生きと表現されていて、独特のSF的リアリティを獲得している。

「向こうはどんなところだい?」(スリリング・ワンダー・ストーリーズ誌、52年11月)
 傑作。作者の戦争体験ははっきりしないが、本篇は紛れもなく日本の第一次戦後派の作品に比すべき戦後文学といえよう。埴谷雄高がもし読んでいたらきっと誉めたのでは。一種NWを先取りしており、あるいはダン・シモンズの作品といわれても納得するのではないか(シモンズの場合はベトナム戦争だけれども)。折に触れて読み返したい作品である。

「帰ってきた男」(ウィアード・テールズ誌、35年2月)
 これはよくできた小品。皮肉な展開が哀愁を際立たせます。2頁目でオチは読めましたが。

「凶運の彗星」(アメージング・ストーリーズ誌、28年1月)
 アメージング誌に発表されただけあって、かなり科学的(当時としては)なストーリー(とはいえ大枠はゴシックだと思う)。こんな話、子供は大好きです。文章を子供向きにして岩崎書店あたりから出したらどうだろうか。巻末に金子隆一のツッコミ科学解説を付して。
 
「追放者」(スーパー・サイエンス・ストーリーズ誌、43年5月)
 ワンアイデアストーリー。面白い。これも2頁めでオチは割れる。

「翼を持つ男」(ウィアード・テールズ誌、38年7月)
 本篇もいい話。翼を持つが故に翼に規定される結末が納得でき、かつ泣けます。この設定も「風の子供」同様、神話や民話、童話によくあるものだけれど、描写で物理的存在感を納得させられるので、民話や童話とはひと味違うSF的リアリティを楽しめる。

「太陽の炎」(アメージング・ストーリーズ誌、62年9月)
 これはクラークに勝るとも劣らない本格SF。水星の描写は、たしかに時代を感じさせるものだが、だからといって迫真的な臨場感やリアリティが失われるわけではない。小説のリアリティと科学的リアリティとは、必ずしもイコールではないのである。

「夢見る者の世界」(ウィアード・テールズ誌、41年11月)
 これはまた技巧的な傑作。ヒロイックファンタシー的異世界と草臥れたこの現実世界が「胡蝶の夢」的に繋がっているのだが、この現実世界の主人公が、夢のなかのヒロイックファンタシー世界の自分(?)が気になって、肝心のこの世界での生活がおろそかになってしまうのが、なんとも可笑しく哀れを誘う。ラストも秀逸。

 というわけで、これはまさに、わがSFの故郷に還ったような感興が、懐かしさがありました。このような世界から、私はSFにはまりこんでいったのだと言うことを、いまさらながら思い出した次第。
 とはいえ、だからといって、本書は回想の中で輝くだけの小説集では決してありません。そんなことは抜きにしても、この現代の読者に対して十分なインパクトを持ちうるものであると確信します。
 これを機に、ハミルトンのこのようなタイプの怪奇幻想短篇が、もっと翻訳されたら、とそう願わずにはいられません。
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蜃気樓

2004年10月04日 20時10分34秒 | 読書
宗左近『蜃気樓』(芸林書房、04)

 著者「覚書」によれば、「1行作品302句を集めたもの」で、それぞれの句は「俳句以前であって現代詩以前、そして両者の中間、よって中句と名付けます」とある。
 「生死混沌の日々を送って」いるという著者だけに、かなり弛んだ句が多いのも致し方ない。
 例によって気に入った句を抜粋します。

  月光の 垂直の 凍滝(しみたき)
  春の辞書 めくれば眩暈の谺して
  現生の裏への転生 日照雨
  青空を仰いでから 大蜥蜴 振り返えり
  小春日和 明るい影のほの昏さ
  車椅子 わたしの影を轢く わたし
  故郷の月 生き返ってくる影ばかり
  谺の沈む谷あって 紅葉の逆光線
  転生のさなかの遙けさ 年暮れて
  蝉の殻を影にして やっと 月落ちる
  おのれの影に磨かれていて 水すまし
  冬没(い)り陽 あの世に電話 できなくて
  夢のなかにまるで出ないもの 未来 青
  点く杵の音(ね) いっせいに奔り 花の道
  死んだ夢たちの水葬 天の川
  助ケテエ 夜の音に射ぬかれたまま 昼の星
  蜃気樓 現(うつつ)よ 透明(あかる)い わたしの螢(はか)

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