チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

24時間の情事

2008年10月26日 18時22分33秒 | 映画
アラン・レネ『24時間の情事』(59)

 これは結局、「広島」は主題ではない、というかマクラでしかなんですね。つまり反戦映画の類ではないということです。たまたま広島で出遭った仏人の女優と日本人の建築家のアヴァンチュール(死語)。女優が帰国の飛行機に乗るまでの24時間、建築家のめめしく見苦しい恋着のストーキング(と私は思った)に対峙するうち、次第に女優の(ヌベールでの)過去が明らかになっていく。……

 冒頭、「私は広島をすべて見た」という女優に対して、男が「きみは何も見ていない」と返す有名なセリフは、つまるところいろいろ聞き出している当の男が、ついに女優に就いて何も理解していないことに対応しているわけです。すなわち「僕はヌベール(での事)がすべてわかった」「あなたは何もわかっていない」と。

 ラストの、女優が男を「ヒロシマ」と呼び、男が女優を「ヌベール」と呼ぶシーンがすべてを集約していて、まさにヒロシマはヌベール(の出来事)を理解しないし、ヌベールはヒロシマ(の出来事)を理解しない。マルグリット・デュラスの脚本は、畢竟人は他者を理解しない、分かり合えることはない、それは単に幻想、思い込みに過ぎないという断絶、共有の不能を表現しているのでしょうか。
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ドイツ零年

2008年10月25日 02時22分57秒 | 映画
ロベルト・ロッセリーニ『ドイツ零年』(48)

 ロッセリーニの《戦争3部作》の第3弾にあたるらしい本篇は、イタリアを離れ、1947年のベルリンが舞台となります。映像をみると、敗戦2年後になってもドイツ首都は、未だ瓦礫も片付けられておらず廃墟同然のようですね。

 主人公の少年の家族構成は、父親は病で寝たきり。最後まで米軍と抗戦していた部隊に所属していた長男は、そのことでひどい目に合わされるのではないかと恐れて出頭せず(逃亡兵状態で)部屋に隠れているばかり。当然働いていません。この家族を養っているのは米軍相手のダンスホールで働く姉と12歳の主人公の少年なのです。生活は苦しく、必死になって稼ごうとしてはだまされ、かっぱらいも辞さない主人公エドムントが実にいじらしく、あわれを誘います。

 そんな彼が偶然出遭ったのが、第3帝国時代の学校の教師(いま少年は学校へも行っていない)。ナチス時代の教師はすべて公職追放されており、この教師も今はいかがわしい闇屋めいたことをやっているようです。
 エドムントはその元教師に、父親が重病で金もなくどうしたらいいか判らないと相談するのですが、教師は(自身も失業中で生活に追われているからでしょう)いかにもナチ時代の教師らしく俗流ニーチェ風に弱者は死ぬ他ないのだとうそぶく。本人は一般論として言ったつもりだったかもしれませんが、元教師とはいえ、12歳の主人公にとっては無謬の「先生」なのです。師の話を「そのまま」受け入れた少年は……

 不条理です。ラストで彷徨する少年の、まったく少年らしくない無表情さが何ともいえない気持ちにさせられます。
 いかにもネオリアリスモらしい映画ですが、イタリアでなくドイツが舞台であるせいか、映像はもっと灰色で寒々しい。主人公も含めて登場人物皆が心に余裕がなくギスギスしている(但し姉だけはけなげです)。結局ベルリン市民、ドイツ国民の精神の状況が反映されているのでしょう。

 本篇は反戦映画ということになるんでしょうが、私自身はもっと根本的な、敗戦によって図らずも剥き出しになった生の状況、魂の荒廃、不条理をこそロッセリーニは映像に写し取りたかったのではなかったかと思いました。
 この映画を見ている最中、私はしきりに「火垂るの墓」が思い出されてなりませんでした。「ドイツ零年」と、敗戦の翌年1946年の日本が舞台のアニメ「火垂るの墓」は、白黒の実写と色彩豊かなアニメ、ルポルタージュ的映像と幻想的映像、という表現上の違いはあるとはいえ、実によく似ていると思います。それは(繰り返しになりますが)両者とも敗戦によって剥き出しになった〈生の状況の不条理〉を結果として描いているからだろう。その意味で「火垂るの墓」は、蓋し日本製ネオリアリスモ映画(但し内的な)といっても、そんなにずれてはいないのではないでしょうか。
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無防備都市

2008年10月19日 18時26分28秒 | 映画
ロベルト・ロッセリーニ『無防備都市』(45)

 イタリアン・ネオリアリスモはこの映画から始まったそうです(「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は源流のひとつという位置づけらしい)。DVDに入っている解説によれば、ネオリアリスモ独特のあの明暗のコントラストやザラザラしたタッチは、戦中戦後の極端な物資不足の中で切れ切れに集められた粗悪なフィルムや現像状態による部分もあるとのこと。一種の偶然が、新しい美をもたらしたといえるかも。
 若きフェデリコ・フェリーニも脚本に参加しているストーリーは、いったん観はじめたら一気呵成、没入して最後まで観てしまわずにはいられません。

 ヨーロッパ戦線末期、ムッソリーニ失脚後のローマにはドイツ軍が進駐しており、ゲシュタポはレジスタンスの闘士を捕まえるのに躍起になっている。そんな状況下、レジスタンスを支援する一般市民たちの生活が活写される。

 物語は市民による「パン屋襲撃」の象徴的な場面から開始されます。そのパン屋襲撃にも加わっていたひとりの子持ちの女性が、縁あってパルチザンの印刷工と結婚式をあげることになるのですが、式の当日、当の印刷工がゲシュタポに捕まってしまう。
 印刷工を収容した護送車を追いかける女性。しかしゲシュタポは、女性の息子が見ている目の前で、追いかける彼女を射殺する。
 印刷工は仲間により救出されますが、一人残された女性の息子をやむなく地下組織を支援する司祭に託し、リーダーである闘士の一人と共に地下に潜る。しかしどこからか情報が洩れているらしく、次第に追い詰められていく。
 行くところがなくなった二人は、思い余ってそもそも危険だからということで縁を切っていたリーダーの恋人である歌手の部屋に転がり込むのだが、麻薬常習者の歌手はその弱みに付け入られてゲシュタポの手先となっていたのです。歌手の通報でリーダーと司祭が捕まる。リーダーが拷問死し、司祭は子供たちの目の前で射殺される……

 激しい主張が全編に漲っている点、イタリアの庶民の現実を坦々と描く「自転車泥棒」のような戦後のそれとはちょっと違いますが、ドキュメンタリータッチの埃っぽい映像は紛れもなくイタリアンリアリズムのそれであり、やはり名作だと思いました。
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ベニスに死す

2008年10月19日 11時34分43秒 | 映画
ルキノ・ヴィスコンティ『ベニスに死す』(71)

 いかにもヴィスコンティらしいデカダンで頽廃的な雰囲気横溢する「幻想映画」で、至福の2時間でした。

 夫れ幻想小説は、たとえば「城」のように、(異界への)到着シーンで始まることが多い。本篇もまた、主人公の老音楽家は(まず蒸気船でベニスに到着し、それから)ゴンドラでホテルのあるリド島へと渡る。けだし幻想映画の要件をみたしているというべきで、このようにして象徴的に水の都ベニス(就中リド島)は、幻想異界としてのその「不気味な」姿を主人公の前にあらわすのです。

 たとえばゴンドラの船頭からして尋常ではない。彼は操船しながらずっと訳の判らない独り言をブツブツ呟きつづけています。不気味に感じた主人公が港に戻るよう指示しても言うことを聞かない。着いたリドの桟橋で、ようやく緊張を解き、荷物の扱いをホテルの者に託して船賃を払いに戻ってくると、ゴンドラは影もかたちもない(無許可業者で警察が来たので海上へ逃げ出したとの説明を受ける)。

 その前に、蒸気船から降りた主人公を待っていたのは、顔に化粧を施した(死化粧?)不気味な老人でした。老人は見ず知らずの筈の主人公に、なぜか近寄ってきて歓迎の挨拶を述べ、主人公を当惑させます(この化粧はラストでの主人公の化粧と照応します)。

 どうやらベニスは、本篇では「死の都」として設定されているようで、上記のシーンはそれを象徴しているように思われます(現実においてもベニスはコレラが蔓延していき死の都と化す)。つまりこの映画は、老主人公の(そもそも心臓病の療養にベニスを訪れたのですが)「死出の旅」を描いているのであり、それに応じるように、外界(正確には主人公の内宇宙)であるベニス(リド)そのものも、次第に荒廃し廃墟の様相を呈していきます。

 化粧ということに関しては、中段でも化粧をした流しの演歌師が登場してホテルの庭園でくつろぐ客たちに端歌を聞かせ、チップを強要する場面があります。その芸人が去る間際、それまで執拗に媚を売っていたホテル客に向かって、一転嘲るようにアカンベーをしてみせるのですが、蓋しこの芸人もまた、そのとき既にコレラに犯されつつあった(客たちはまだその事実を知らない)ベニスそのものの具現化した存在だったのかも知れません。

 本篇の主題は、一般的には美少年タージオの身体的存在そのものであるといえるのでしょうが、主人公の視線があってこその存在でもあり、その意味で主人公こそ主であり、タージオは主人公の従属物といえる。
 但し、存在するだけで美であるというタージオの存在は、主人公の考える「美」とは相容れないものだった。そういう「美」に惹かれていくということは、老主人公が長年(親友に「通俗的」と非難されても)堅持してきた「美」の概念を自ら否定していくことに他ならなかった。その意味で、本篇は、ふたつの「美」の斗い(主人公の裡においては葛藤)の物語であったわけです。

 そしてその結果、勝ったのはタージオでした。かかる構図において、すなわち[タージオ=美]という構図においては、老主人公は当然ながらその対極物である「醜」の役割を引き受けなければなりません。
 実際、ラストの場面で渚に立つタージオのポーズを見て、遂に葛藤は消え、主人公はその役割を従容として受け入れる。美はそのものとして自立してあるのであり、構成していくものではないという観念を、老音楽家は受け入れたのです。

 最後のシーンで、老主人公は、(死)化粧が崩れ、髪を染めた墨が顔中に流れ落ちるにまかせた醜い姿(醜の中の美もヴィスコンティの重要なモチーフではあります。その意味では消毒液にまみれたベニスの街路の何と美しいこと)で死ぬのですが、その顔には、2時間の上映時間の間、(回想場面を除けば)一度もみせなかった微笑が、初めて浮かんでいるのでした……。
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ルポ貧困大国アメリカ

2008年10月15日 21時01分25秒 | 読書
堤未果ルポ貧困大国アメリカ』(岩波新書 08)

 圧倒されつつ読了。
 これはSF小説ですか!? いやいや夜郎自大なSFも、本書を前にしては三歩下がって跪く他ありません。迫真のリアルアメリカ・ルポでありました。
 我々は、このようなディストピア世界をSFのなかに何度も見てきた筈です。そんな(我々にとっては)「既視感に満ち満ちた」世界が、なんとSF(発祥ではないにしても)発展の国アメリカにおいて実現していたとは……
 そもそもSFがなぜこの世に生まれて来たのか、SF者(作家・読者を含む)はすべからくその起源に立ち還って再考してみるべきです。きっとディッシュは立ち還ってみたのでしょう。

 「市場原理とは弱者を切り捨てていくシステム」(93p)であることは、近頃ではみんなが気づき始めているのではないでしょうか。しかしながらここまで事態が進行していたとは、大方の読者の想像をはるかに超えていたのではないか。
 本篇が取材した各現場は、おしなべて「民営化」の行き着く先にある「地獄」といって過言ではありません。
 しかもこれは個別アメリカに限っての話ではありえない。グローバル化の潮流のなかにあって、アメリカに倣って「民営化」を推進する日本もまた、このままそれを続けていけば、遠からず同様の地獄を生み出してしまうことは必定と思いました。

 「民営化」とは、公共サービスへ「市場原理」を導入することに他なりません。結果としてそれは「格差を拡大」していきます。格差は資本主義の必須の回転原理でありますが、それは下克上を内に含んでこその原理であった。しかしながら本書に書かれているように、今起こっている格差の拡大は下克上すら不可能化するほど極限化しており、一部の富裕層が固定化されてしまっている(国会で石を投げれば2世議員3世議員に当るという日本の状況も同様の固定化の現われでしょう)。

 本書に詳述されているとおり、国家は、国家を事実上制御する多国籍巨大企業の利益に沿うべく(一部の富裕層とスペシャリスト以外の)大多数の国民を貧困化することで家畜化し、上記一部の層の豪奢な生活に奉仕させるよう再編成を促す。
 本書を読むと、今やアメリカ国家において「国民」とは、そのような一部の富裕層の意なのであって、大多数の国民は、もはや国民の座から事実上掃き落とされて(下克上すら望み得ない)「棄民」と化しているのであり、基本的人権も保障されない「消費させるために」のみ存在を許された「家畜」となりはてていることが伺えます。

 この状況は、まさに私たちがこれまであまた読んできたディストピア小説そのものではありませんか。二世議員跋扈する日本も遠からずそうなっていくに違いない。

 たしかに「役所がひどいから民営化」(198p)という現実が一方にあります。 
 日本においても、そもそも民営化圧力というのは、(年金問題の処理でも判るように)役人・公務員のとんでもない質の低下に対する国民の憤りを駆動力として政府が利用している面がある。あんな公務員に任せておくくらいなら民営化しろというわけです。

 しかしながら著者は、「役所がひどいから民営化」という安易な考え方が危険であることを、取材した多くのアメリカ人から警告された(198p)といいます。では公共サービスは従来どおりの役所仕事でいいのか、といえばそれではあかんのですよね。単に逆戻りでは意味がありません。 

 結局問題は公務員の体質なんですよね。公務員が役人としてのモラルを持ってさえいれば、いうなれば眉村卓描くところの司政官のような「志士」でさえあれば、たとえ現状の行政システムでも十分に機能しているのではないかと私は考えています。システム以前に人が問題なのです。グローバル資本主義の民営化圧力(一般国民への家畜化圧力)に抗してそれを撥ね退けるためには、公共サービスを行なう行政官のモラルをまず是正していかなければなりません。そしてそれは半端な改革では駄目なのであって、役人の総入れ替えというようなドラスティックなものでなければ効果がないのではないか。そのためにはディック世界みたく第2行政当局みたいなのを予め作って、一気に交替させるのが私はいいと思うのですが、SF的に過ぎますでしょうか(>結局SFかよ(^^;)

 ともあれ森下さんの年間ベストSF一位は決定かな(笑)。SFの国アメリカの現実であり、且つ日本の来たるべき姿を見たい人は必読です。

 追記。176ページのシリア系カナダ人の事例を読めば、アメリカが拉致問題解決に全然熱意がないのも納得できます。アメリカ自身が北朝鮮と同様のことをしているわけですから、そりゃあ当然ですわな。自己否定になりますから(ーー;
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地獄に堕ちた勇者ども

2008年10月01日 22時50分07秒 | 映画
ルキノ・ヴィスコンティ『地獄に堕ちた勇者ども』(69)

 ナチス勃興期、「国会焼き討ち」事件から「SA血の粛清」事件にかけての突撃隊(SA)、親衛隊(SS)、陸軍の3者鼎立に巻き込まれるかたちで、(クルップがモデルなのでしょうか)鉄鋼王国の経営者一族エッセンベルク家の人々が、君臨していた家父長老ヨアヒムの殺害後、互いの後ろ盾の代理戦争のように抗争し、滅んでいく……。そんな、まさに神々の黄昏(本作の原題)にも比すべき、血の澱みきった旧家の、壮大なるお家騒動が、いかにもヴィスコンティらしいデカダンな雰囲気のなかに活写されています。蓋しドイツ版横溝正史の世界かも。

 とにかく一族の者たちは(殆ど)すべて普通ではありません。といっては語弊がある。どの人物も紙切り細工ではない、ひと言では割切り得べくもない、一種デモーニッシュな(まさに地獄に堕ちた者たち)、相矛盾する複雑な厚みを備えているのです。ここが横正とは違うところで、その派手派手な舞台装置と相俟って、三島由紀夫が絶賛したというのも納得できます。

 DVDの付録のヴィスコンティのインタビュー(?)で、ヴィスコンティは、69年時点でこの映画を作った動機として、ナチス時代を示すもの(人や風景という意味でしょうか)がなくなってしまわないうちにピンナップしておきたかった(大意)と語っています。
 本篇を観れば、当時のドイツを覆っていた、いわば時代のムードとでもいうべき何かが、確かに伝わってきます。それはいうなれば、強制される四角い「正統」や「公序」の「皮」を一皮捲ってみれば、その下は、すべて小暗い、無定形な欲動(リビドー)で膨れ上がっていて、噴出する寸前で脈動している――といった体の幻像で、そんな切羽詰った思いに、観客をして駆り立てる力にみちた作品でした。
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