チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

ピラミッドの日

2009年06月29日 00時00分00秒 | 川田武
川田武『ピラミッドの日』(角川文庫78)

 これは予想以上に面白かった。
 著者は74年の復活ハヤカワSFコンテスト(いわゆる3大コンテスト)において、かんべむさし、山尾悠子、田中文雄という、今から思えばとんでもない競争相手を制して第1席入選を果たした実力者です。その受賞作「クロマキー・ブルー」は、並みいる強豪を蹴落としただけのことはあるすばらしい傑作でした。が、なぜか早川からは1冊も本を出さなかった。どういういきさつがあったのか、主に角川文庫から本が出ました。なかでも長篇「戦慄の神像」は伝奇SFの傑作。
 しかしながら、そのうちに本業のテレビ屋(NHK)が忙しくなったらしく断筆していたのですが、近年復活しました。おそらく定年退職で執筆活動を再開したのかも。ミステリチャンネルとも関わりがあるみたいです。

 本書は(たぶん)著者の唯一の短篇集。何度もいいますが、予想以上の面白さでした。これぞ「70年代SF」だと私は思いましたね。つまり少数の愛好家のものであったSFが中間小説誌に進出していき、(良くも悪くも)軽く読みやすくなって一般読者にも受け入れられるようになった、いわゆる「軽SF」、そういう作風をまさに体現した作品群が収録されているのです。
 つまりSFアイデアを複雑化(加工)せず、ほとんどそのまま、生とはいわないまでも、軽く焼いたり炙ったりする程度の軽い調理で読者に供される、そんな素朴な味わいの小説になっているのですね。

「ハロー商会」(SFマガジン74.10)では心理学の「ハロー効果」が――
「ニュース・キャスター」(小説現代77.3)では今でいうヴァーチャルな「AI」(実は、というどんでん返しあり)が――
「ずれる……」(小説推理77.8)ではあまりにも鋭敏な耳を持っていた職人的フィルムエディターが、その神の耳を通俗に合わせるために陥った陥穽が――
「残響室」(小説推理77.11)では文字通り放送局の残響室の怪異が――
「実力行使」(SFマガジン75.2)では自販機の近未来図が社会派的文脈で――
「ピラミッドの日」(小説推理78.4)はピラミッド製作者はヒクソスだったという仮説が――

 ――実にストレートに語られます。ストーリーは専らアイデアを盛るための容器にすぎません(人間関係も必要最小限)。最近の分厚い小説を読みなれた読者には、あっさりしすぎのように感じられるかも知れませんが、これが70年代軽SF(というか角川文庫SF)の味わいだったんですよね。

 あと、「飛んでもスタジオ」(小説推理78.2)はヤケクソなドタバタ。「車窓の風景」(奇想天外76.5)はファンタジー。

 ところで今書いていて気づいたのですが、著者唯一の短篇集である本書に、「クロマキー・ブルー」が収録されていない。ということはつまり「クロマキー・ブルー」は単行本未収録なんですね。これはいかにも不自然。コンテスト入選作なので版権は早川にあり、そういう関係で他社作品集に収録されることに対して、早川側が難色を示したのかも知れませんね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

極楽船の人びと

2009年06月27日 00時00分00秒 | 吉田知子
  《僕は腸の中を歩いているのであった。狭い通路である。肛門はまだ見えぬ》 ――「そうか。僕は糞だったのか」より

吉田知子『極楽船の人びと』(中公文庫87、元版84)

 吉田知子版・プリズナー海洋編です(笑)。というのは冗談……では決してありません。本書あとがきを読めば、それもそのはずと納得できるでしょう。著者によれば、本篇と、「ビルディング」(『天地玄黄』所収)、先日読んだ「ユエビ川」(『聖供』所収)の3篇を、「とにかく、書き始めるときは、同じ主題だった」作品群と告白しているからです。共通点は「背景と状況」ということで、それぞれ「巨大なビルディング、荒野のなかのホテル、船」という「異常な世界、非日常」のなかに「捨てられ」た人びとが描かれている。

 私が「プリズナー」だと感じるのは、作中人物たちがかかる非日常的世界につれてこられ、捨てられた人びとであり(本篇の場合は一応自発的に乗船するのだが、読み進むうちに「自発的に乗船するよう」仕向けられた、強制された人々であることが分かってきます)、そしてその世界が、そこから戻ることあたわざる収容所的世界(空間)であるからなんです。

 さて本篇――84名の乗客と40名の船員・スタッフを乗せて客船が出航するのですが、その目的地は最後まで明らかではありません。どうも乗客たちは、それぞれ勝手に目的地を想像している気配。最初は快適と感じられた船内ですが、チーフという人物が出現してからは、次第に統制が強まり、収容所っぽくなっていく。航海が長期化し積み込んだ食料が不足してくるようになったところに(しかしなぜそんなことが起こり得るのか)、大型台風の直撃を受け、難破する(少なくとも乗客はそう思わされている。後述)。船内は次第に地獄と化していき、チーフは毎日行なわれる「ツドイ」で夜ごと自殺を教唆するような講話をする。どんどん人が死に、死なないものも狂ったり、幻想の世界へ引きずり込まれる(腸内にも)……

 という話で、読者としては気分が滅入るばかり。「救済」は訪れません。同じく収容所でも「ユエビ川」には終末論的なイメージがあって、そこが魅力的だったんですが、本篇にはそういうパースペクティブもありません。視覚面ではあまり楽しめませんでした。

 最後はチーフだけ救助されるのですが(一人だけ救命ボートに乗っているところを発見され、取調官を不審がらせる)、このチーフ、間違いなく「聖供」の主人公と同一人物ですね(もちろん内的に)。このメフィストフェレスはおそらく乗組員・乗客すべての破滅を使命として乗船していたに違いない。最後に船長が帰港すると宣言(ということは難破ではなかった? 謎です)した直後に爆発が起こり船が沈むのですが、帰港に難色を示していたチーフの犯行であるように強く示唆されています。

 ただ「聖供」の主人公にしろ、このチーフにしろ、なぜ著者はこういう人物を配置するのか、それが私には了解できない。つまり著者の創作の根源動機が判ってないといえるので、読み切った! という感じはしないのですよね(ひょっとして宗教的(キリスト教的)観念?)。
 でも逆に、思考を倒立させて「悪意の人」ではなく「善意の人」を想定してみたらどうでしょうか。われわれは善意の人がなぜ善意に溢れているのか、そんなことをことさら事だてて詮索するだろうか。むしろそんなに不審に思わず受け入れてしまいそうな気がします。ならばなぜ悪意の人に関しては、われわれはその思想の来歴を忖度しようとするのでしょうか? うーむ。なんとなくヒントはつかめてきたので、さらに吉田知子、精進したいと思います(^^;。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖供

2009年06月13日 00時00分00秒 | 吉田知子
吉田知子『聖供』(新潮社73)

 あまりのイヤ度に堪え切れず、しばらく別の本に逃避していたのだが、それも読み終わってしまった。歳のせいか、イヤ小説に対する耐性がすっかり低下してしまっているのです。若い頃のようにはいきません。若い頃は鈍感だから、その手の話も平気で読めたのだなとあらためて気づいた次第。
 とはいえ読み終わってしまったからには戻らねばなりません。あんまり気が進まなかったのだが、気持ちを奮い立たせて再開。するとどうしたことか、俄然面白くなりほとんど一気呵成。ちょうど中断部分が転機だったようです。それにしても何という異常な、いびつな物語であるか。この、「イヤ」の権化というべき主人公の「謎」を早く知りたい! しかし明らかになるのだろうか? 著者の作風からしてちと疑問。
 ――ということで読了。

 高橋たか子が中村真一郎との対談で、自作のテーマについて「内面の悪」であるといったとき、中村がちょっと首を傾げて(だろうと想像する)、それは社会的な悪なのかと問いかけるのですが、高橋は人間本有のサディズムであるとこたえます(『空の果てまで』挟み込み付録)。
 本集の表題作である中篇「聖供」を読みながら、そのことを思い出しました。
 本篇は、上記「空の果てまで」に比べてもずっと世界に拡がりがあり、重層的で、主人公以外の登場人物の存在性、特異性も半端ではないのですが、とはいえそれらはすべて主人公の「内面の悪」によってもたらされたものといって過言ではない。そしてそれはたしかに「人間本有のサディズム」の極限的顕現といえるのですが、そんな浅薄な解釈では何か取り零してしまっているようにも思えます。しかもなぜそのような「悪意」を主人公が帯びるに至ったのかといった「精神病理学」は、まあ著者の通例ですが、皆無。彼は最初から「悪意の人」として存在し、(説明を拒絶して)最後まで一貫する。小説世界は主人公の磁力の圧倒的な影響下におかれ続け、その磁界に捉えられた周囲は悲惨を極めるのです。
 そのなかにあって、家族の中では長女のみ主体性を持つものとして設定されており、主人公に抗い続けるのだが、それも磁力を断ち切る力はない。
 ただ終盤に至って、林田という主人公の「不肖の教え子」が主人公を鋭く弾劾します。本作品世界の中にあって、彼のみがいわゆる我々の<現実界>と通底する存在で、ここでようやく極限にまで高まっていた「イヤ」度に少し風穴があき、読者は多少溜飲を下げるのですが、作品的には不要な場面だったような気もします。想像するに著者自身不快感が満杯となり、自己防衛的に書き込んだ場面ではないかと思ってしまいました。それかあらぬかこの場面から後、作品から緊密度がすこし緩んでしまいます。
 天使のような可愛さを持ち、しかし内面には父親から継いだような悪意を持つ末娘。精薄だがけなげな次女、聖痕をおびて生れてきた成長しない赤ん坊、彼を生んだのち完全に狂ってしまった主人公の妻等、魅力的(?)な登場人物が、さほど生かされずに終わってしまった感があり残念。彼らをもっと十全に書き込んで欲しかった気がしました(もっとも、それではおそらく長篇になってしまうでしょう)。異様な力作。

 併録の短篇、「ユエビ川」は、吉田知子版「プリズナー」です。戦時中でしょうか、外地の、満州かどこかの大平原の中にぽつんと建つ療養所。そこにトラックから捨てられるように抛り下ろされた主人公。宿泊者は奇怪な連中ばかり。ときどき主人公は命を狙われる。ユエビ川のほとりに建物は建っているというのに、どこにも川筋は見当たらない。野火が発生し次第に療養所に迫ってくる。ところが火はなかなか近づいてこない。そのうち一人減り、二人減りと宿泊者が消えていく。ある夜、主人公は残りの宿泊者全員に襲われる。なぜか宿泊者同士でも相打ちしている。朝、意識を回復すると、主人公一人だけ生き残っている(他の死体はどこにもない)。と、爆音が聞こえ、戦闘機が近づいて来、主人公は狙撃され倒れる。倒れたくぼ地から水が染み出している。ユエビ川は流れる川ではなく、染み出す川だったことに、最後に主人公は気づく。野火が到達する。
 ――という話。わたし的見地ではまごうかたなきSFの圧倒的な傑作。面白かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴァーミリオン・サンズ

2009年06月05日 00時00分00秒 | バラード
J・G・バラード『ヴァーミリオン・サンズ』浅倉久志・他訳(海外SFノヴェルズ80)

 積読消化でしたが、収録作品自体は他媒体でだいたい読んでいます。初読は「希望の海、復讐の帆」と「ヴィーナスはほほえむ」の2篇のみ。「歌う彫刻」は(第1期)奇天で、「風にさらばを告げよ」はNW-SFで、「コーラルD……」はメリル編で、残りは創元文庫で既読。当時はしっかりSFファンしていたのです(笑)。とはいっても30年以上前のこととて、実質初読と変わらず。

 シュールレアリズム小説です(^^)。まさに超現実派の絵画を「読んだ」という感じで、どっぷり耽溺させてもらいました。と同時に、本篇がSF以外のなにものでもないことを再確認。

 本書収録作品群が書かれた60年代よりちょっと未来、70年代とおぼしきダリやジョン・ケージがまだ存命のこの地球のどこか、涸れた海と湖の岸辺にひろがる砂丘地帯に位置し、独自の生態系を持つ架空の別荘地ヴァーミリオン・サンズ。そこは《浜辺疲労症》といわれる頽廃と倦怠が支配する閑階級のトロピカル・リゾートで、必然的に、彼らに寄生する前衛芸術家の吹き溜まりになっています。そこはまた、人間の精神状況がただちに外化しうる特異な《サイコトロピック(向精神的)エリア》でもあった。
 つまりは著者が唱える「外なる現実と内なる精神が出会い溶け合う場所」すなわち《内宇宙》を、これ以上もなく体現したエリアとして設定されているわけです。

 で、その《内宇宙》とは何かといえば、結局のところ、(少なくとも本書に限っては)著者バラードが、おそらく夜ごと訪れたのであろう、著者にとってなじみの「夢の場所」に他ならないようです。
 実際、宇宙小説の作家が、現実のデータと自己の想像力を掛け合わせて<外宇宙>のさまざまな「絵」をつむぎ出したように、バラードはそれを<内宇宙>という領域において行なっているわけです。向きは逆かもしれませんが、世界設定から出発する方法論自体は同じ。ですから見た目はSFとしては奇抜ではありますが、少なくとも本書に関しては、そんなに前衛的なことをやっているわけではありません。本書について、著者自身「エキゾチックな郊外への戻り旅」と称しているのですが、そういう意味で、「戻り旅」とはたしかに言いえて妙。上に「本篇がSF以外のなにものでもない」と書いた所以です。

 とはいえふつうの「外宇宙SF」と違う面もやはりあります。それは作中に「夢の論理」が残存しているところなんです。ストーリー上の辻褄が合わない部分が多々見受けられるのです。たとえば「風にさよならをいおう」の146ページ、ガレージの2階で寝ているはずの運転手が、突如出現して「わたし」に殴りかかる場面があります。これはガレージで寝ているというのが「わたし」の思い込みだったのかもしれないけれども、これはやはり夢の論理で解釈するべきだと思います。
 超現実絵画を彷彿とさせる魅力的な「風景」とともに、かかる「現実」の規則にとらわれない(逆にいえば夢の論理に則った)存在形式とが、本書をSFであると同時に「シュールレアリズム小説」でもあると感じさせるところであります。

 それから「歌う彫刻」、「ヴィーナスはほほえむ」にとりわけ顕著ですが、本書の作品群は基本的にファルスなんですよね。前者は、恋にのぼせ上がって何も見えなくなった青年の愚かしい一人相撲ですし、後者は、これはもはやスラップスティックの極致であり、ラストのオチも壮大で笑わせてくれます。著者が楽しんで書いている姿が目に浮かぶようです。というわけで、総じて「夢小説」の愛すべき小品集という感じで楽しみました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地球巡礼

2009年06月03日 00時00分00秒 | シェクリイ
ロバート・シェクリイ『地球巡礼』宇野利泰訳(ハヤカワ文庫78 原書57)

 「おれはときどき、お前たちロボットがうらやましくなる。いつも笑って、気苦労がなく、元気で」
 「それはたましいをもってないからです」(「人間の負う重荷」128p)


 シェクリイって、気の抜けた筒井康隆とかいわれますが(あれ、逆だっけか)、ヨコジュンの方がイメージとして近いんじゃないか。そんなことを読んでいて思った。共通イメージは「安全」。対して筒井康隆は「危険」という感じ。
 「人間の負う重荷」なんか、これ新喜劇です。最後の無理矢理予定調和的大団円といい(^^;。
 実は松竹新喜劇と書きかけて、もはや松竹新喜劇をほとんど思い出せないことに気づき松竹をはずしたのでした。吉本的なシーンもあるので、新喜劇と書くのは間違っていないと思う。吉本的なのは、男女がいい雰囲気のところへ、女の方の護衛ロボットが無粋にもというかKYにも職務忠実に「護衛」しに行こうとするのを、男の方のロボットたちがくだんの護衛ロボットの上に折り重なって阻止する場面とか(笑)。

 「この店での経験からいいますと、赤毛とブロンドのかたは精神分裂症に罹りやすいし、ブルーネットの人は躁鬱症になる傾向があります」
 「おもしろい話だな。するときみは、この店にながいことつとめているのか?」
 「1週間です」  (「悪薬」162p)


 「災厄を防ぐ者」に至っては、これはもうヨコジュンそのもの。というか、この話、荒熊雪之丞もののイレモノに入れたほうがずっと面白くなるのになあ、と読中ずっと感じていました。
 荒熊ものでは、宇宙人等の「この世のものならぬ」存在が、突然彼の部屋に飛び込んできて、そうして話が始まるというのが毎度のパターンです。本篇も同様の構造をとり、主人公が望んでもいないのに未来予知能力のある宇宙人(まあそんなものです)がまとわりついて、主人公の危機を予知し無理矢理避けさせる、という筋立て。ところがこの宇宙人、主人公はNY在住なのに、アジアやヨーロッパで起こる事故や災害まで気をつけさせようとして主人公にうるさがられる、そんなヤツなのです(笑)。もちろんこれでも十分に面白いんですが、幸か不幸か《ヨコジュン体験》を済ませてしまった日本のSFファンには、その筆の運びはなんともナイーブでもどかしいんですよね。これはぜひヨコジュンにリライトして欲しいものだ、と思ったことでした。

 ところで、唐突ですがシェクリイという人はソニー・ロリンズに似ていると思うのです。その歌ごころ、その豪放磊落なプレイには天性のものがあるのに、そういう資質に安住できず、右顧左眄してしまい、おのれを見失ってしまうところが、私にそう感じさせるようです。
 本書は57年刊の第3短篇集で、デビュー以来の絶好調がいまだ継続しています。著者は60年代にニューウェーブっぽくなりますが(ロリンズもまたいっときニュージャズに引き寄せられましたね)、本書ではまだスランプを知らなかった著者の、良くも悪くも童心、無邪気に書かれた作品が収録されている。著者のよき資質、歌ごころがのびのびと展開させられていて、素直に楽しむことが出来ます(といって、60年代の長篇も私はきらいではありません。でも誰でも楽しめるような作風でないのもまた確か。ちなみに私はロリンズ「橋」も好きです)。

 「無邪気」と書きましたが、それはF派として並び称されたブラッドベリと比べれば明瞭です。ブラッドベリがそのベースにマイノリティへの共感を確実に持っていることは、先日の『刺青の男』の感想にも書きましたし、『火星年代記』を読めば一目瞭然でしょう。
 対するシェクリイですが、上述の「人間の負う重荷」で主人公に尽すロボットたちは、明らかに黒人のメタファーになっており、むろん黒人への積極的な差別意識はありませんが、「主人(白人)に尽す忠実な黒人使用人」という構図が無意識裡に肯定されている。たぶんブラッドベリは、こういう描き方は認めないでしょう。

 この辺が、シェクリイのボンボン的な甘さで、あるいは後に示される「腰の据わらなさ」も、このあたりに起源しているのかも知れません。ですがこのような立ち位置は、実は50年代のSFの主要読者層にモロ重なっていたはずなんです。それゆえその健全で「安心」な作風が熱狂的に受け入れられたのではないか。

 ただ本人は、その現状に安住できればよかったのですが、そこまで鈍感でも馬鹿でもなかった。それから何とか脱しようとする努力の成果が、60年代長篇だったのだろう、というのが私の認識。しかしその志向性が、作家自身の資質をねじ伏せる方向だったのもまた間違いなく、それがシェクリイの不幸であったというのは反面で言い得るのではないでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

刺青の男

2009年06月02日 00時00分00秒 | 読書
レイ・ブラッドベリ『刺青の男』(ハヤカワ文庫76、原書51)

 ほぼ10~20ページ程度の作品が収録されており、私の感覚ではショートショート集の印象でした。そういう印象からか、読中、星新一が思い出されてならなかった。星ショートショートはブラウンの影響がよく指摘されますが、ブラッドベリの影響も同じくらいあるように思う。とりわけ描写を切り詰め会話主体で進行する戯曲的な手法は、ブラッドベリの影響が大きいのではないかな、と思いました。

 それはさておき、本書は「珠玉の作品集」と言い切りたいと思います(今さらですが)。で、あとは何もいうことなし。瑞々しさ横溢する黄昏のブラッド辺り散策を堪能いたしました(^^)。

 今回気づいた点を列挙――
1)著者はおそらくかなり熱心なカトリックであろう(「その男」「火の玉」)。
2)これは以前から気づいていましたが、意外にリベラルな思想の持ち主であること(「形勢逆転」は実に51年作)。
3)戦後という時代性か、終末観というか最終戦争観、文明の自走への警戒感が濃厚なこと(「街道」「今夜限り世界が」「狐と森」)。
4)前3者とも重なりますが、非常に社会性が強いこと。また視点が弱者やマイノリティ等の非エスタブリッシュメント側にあること。これらは案外サイエンスファンタジーということで見落とされがちかも(「草原」「ロケット」、あと「コンクリート・ミキサー」は「今」書かれたといわれても全然違和感ない「資本主義の本質」を見抜いた作品で驚いた)。そういう意味で、「ゼロ・アワー」とか「町」「長雨」など社会と通底しない作品は、やや退屈しました(「長雨」は40年前に『ウは宇宙船のウ』で読んだときは面白いと思った記憶があるんですけど)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする