60歳という区切りの年になったので、日本社会党との出会いを棚卸しをしたいと思います。
日本社会党の党員証に昭和51(1976年)年5月15日の日付。
4月の党員会議で承認されました。
その頃、労働大学発行の「学習・反合理化・社会主義」という3分冊の本で学習会をやっていました。
瀬谷英行参議院の秘書をしている森戸氏や原田熊谷市議会議員と職場の仲間で、週1回の学習会でしたが深夜まで議論したこともありました。
組合の事務室には労働大学の「まなぶ」や「労働組合」の雑誌が置いてありました。
地域では、熊谷地区労の学習会や権利問題研究会の学習会が行われていました。
社会党の委員長は成田知巳で、書記長は石橋政嗣でした。
「成田三原則」という言葉がありました。
「日常活動の不足・議員党的体質・労組依存」
社民党になっても「成田三原則」は生きています。
つづく。
日本社会党の党員証に昭和51(1976年)年5月15日の日付。
4月の党員会議で承認されました。
その頃、労働大学発行の「学習・反合理化・社会主義」という3分冊の本で学習会をやっていました。
瀬谷英行参議院の秘書をしている森戸氏や原田熊谷市議会議員と職場の仲間で、週1回の学習会でしたが深夜まで議論したこともありました。
組合の事務室には労働大学の「まなぶ」や「労働組合」の雑誌が置いてありました。
地域では、熊谷地区労の学習会や権利問題研究会の学習会が行われていました。
社会党の委員長は成田知巳で、書記長は石橋政嗣でした。
「成田三原則」という言葉がありました。
「日常活動の不足・議員党的体質・労組依存」
社民党になっても「成田三原則」は生きています。
つづく。