(大高坂山城 河中山城 高智山城 高知市丸の内ほか 国指定史跡・重要文化財 日本100名城84番)
南北朝時代、大高坂山(現在地)に大高坂山氏が城を築いたのが始まりである。然し間もなくして、細川禅定、佐伯経定に攻められ落城した。天正十五年(1587)長宗我部元親がこの城を改修し入城するが、間もなくして浦戸に移った。
(追手門)
(山内一豊像)
(一豊夫人と馬の像)
(板垣退助像)
慶長八年(1603)山内一豊が浦戸から移り城郭の改修拡大及び城下町を整備した。以後、廃藩まで山内氏が藩主を務めた。
(石樋)
(詰門)
南北朝時代、大高坂山(現在地)に大高坂山氏が城を築いたのが始まりである。然し間もなくして、細川禅定、佐伯経定に攻められ落城した。天正十五年(1587)長宗我部元親がこの城を改修し入城するが、間もなくして浦戸に移った。








慶長八年(1603)山内一豊が浦戸から移り城郭の改修拡大及び城下町を整備した。以後、廃藩まで山内氏が藩主を務めた。



















(臨済宗鷲峰山高台寿聖禅寺 京都市東山区高台寺下河原町)
慶長十一年(1606)豊臣秀吉の正室、北政所が秀吉の菩提を弔うため、曹洞宗の寺院として創建したものである。寛永元年(1624)からは建仁寺派となり、臨済宗に改宗された。
(茶室 遺芳庵)
(重文 観月台と重文 開山堂 慶長十年建造)
(重文 霊屋 慶長十年建造)
(臥龍廊)
(重文 二階建茶室 時雨亭)
(重文 傘亭 旧伏見城茶室)
慶長十一年(1606)豊臣秀吉の正室、北政所が秀吉の菩提を弔うため、曹洞宗の寺院として創建したものである。寛永元年(1624)からは建仁寺派となり、臨済宗に改宗された。





(重文 観月台と重文 開山堂 慶長十年建造)







(重文 二階建茶室 時雨亭)

高知県旧土佐山村、標高531mの細薮山より発し、31kmを経て土佐湾(浦戸湾)に注ぐ二級河川である。
土佐藩主山内豊房が「我が影を映すこと鏡の如し」として鏡川と名付けるまで、下流域は潮江川と呼んでいたという。

土佐藩主山内豊房が「我が影を映すこと鏡の如し」として鏡川と名付けるまで、下流域は潮江川と呼んでいたという。
市街地空洞化が叫ばれるなか、商業が比較的盛んなまちの目安がある。商業系の会社が多い。定時制の公共交通が発達している。そして、全天候型の街路があること等である。高知も県都であり、市電が走り、追手筋、大橋通り、帯屋町、はりまや橋商店街等のアーケードがある。



高知市内で最も有名な場所である、はりまや橋。江戸時代に高知城の堀を挟んで播磨屋と櫃屋という商家があり、両店を結ぶ橋として架けられたのが始まりという。現在、堀は埋め立てられ、再現された橋の欄干が残るのみである。



(臨済宗霊亀山天龍資聖禅寺 京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町 世界遺産 庭園:国指定特別史跡・名勝)
康永四年(1345)亀山天皇の離宮「亀山殿」の跡地を利用し、夢窓疎石が開山した寺院である。延文三年(1358)、貞治六年(1367)、応安六年(1373)、康暦二年(1380)、文安四年(1447)、応仁元年(1467)と多くの火災に見舞われたが、その都度足利氏により復興している。元治元年(1864)には長州藩の本陣となったため、薩摩藩の砲撃を受け、往時の建造物は勅使門、中門以外は残らないが、亀山殿時代の庭園を引き継ぐとされる、夢窓疎石作の曹源池庭園が面影を今に伝えている。
康永四年(1345)亀山天皇の離宮「亀山殿」の跡地を利用し、夢窓疎石が開山した寺院である。延文三年(1358)、貞治六年(1367)、応安六年(1373)、康暦二年(1380)、文安四年(1447)、応仁元年(1467)と多くの火災に見舞われたが、その都度足利氏により復興している。元治元年(1864)には長州藩の本陣となったため、薩摩藩の砲撃を受け、往時の建造物は勅使門、中門以外は残らないが、亀山殿時代の庭園を引き継ぐとされる、夢窓疎石作の曹源池庭園が面影を今に伝えている。






























