flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

不相城

2007-05-10 00:00:02 | 城郭・城下町

(丸山城 愛知県蒲郡市竹島町)
 私の出生地にある丘城。城跡には昭和62年(1987)国土計画(当時)が蒲郡市から買収し開業した蒲郡プリンスホテルが建つ。不相城の城主は、一説によると鎌倉時代に紀伊鵜殿からやってきたといわれる鵜殿氏一族が居城した。本城である上ノ郷城の城主鵜殿長将の子長成一代の城ともいわれるが、鵜殿氏の宝飯郡西部における勢力、不相城の地形的特長からみて長成以前にも城が構えられていたのではないだろうかと考える。また、南北朝時代、付近で足利氏による竹島合戦が行われたという説もある。そして、永禄五年(1562)には松平元康に攻められ鵜殿氏は敗退した。城跡は昭和7年(1932)常磐館蒲郡ホテル及び遊園地設置の際に改変されたとみられるが、広島市中央図書館蔵浅野文庫諸国古城之図「不相城絵図」と現状を対比すると、部分的ではあるが曲輪等の面影を偲ぶことができる。標高35mの三角点が立つ場所も、遺構の一部と思われる。また、城山北側は道路によって分断、山裾の一部が丸山町赤羽根公民館付近に残されている。
          
(関連記事:下ノ郷城


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6 コメント

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Unknown (くらじろう)
2007-05-11 00:38:39
こちらが出生地でいらっしゃったのですね。
蒲プリは一度も泊まったことも食事をしたこともありません。
一度でいいからのんびり海を眺めて過ごしたいです・・・(笑)。
つつじが綺麗ですね♪確か見学は有料だったような・・・。
koureiさんが行かれた日は、潮干狩りの人出は多くなかったですか?
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風光明媚 (kourei)
2007-05-11 01:19:34
ハイ、赤ちゃんのときだけですが…。
でも、何かしら波の音を懐かしく感じるのは、そのせいかもしれません。
私の安住の地の理想は、海、山が見えるところです。
あくまでも理想です(笑)
えっ!有料なんですか?
私はどうやって入ったのだろう(笑)
建物の中でお昼休みしました。

潮干狩りの人たちは、かなり大勢でしたね。
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Unknown (くらじろう)
2007-05-11 07:18:05
失礼しました。入園は無料のようですね。以前は違ったように思うのですが。
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Unknown (kourei)
2007-05-11 12:39:26
もしかしたら有料なのかもしれませんね。
誰かが払ってくれた??
でも、つつじがきれいでした。
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おまけのトリビア (蒲郡蜜柑)
2009-01-26 20:56:10
府相は、江戸時代まで不相と書かれることが続いていました。ここに住んだ鵜殿氏の子孫はどうなったのかな、私も不思議に思いましたが、何のてがかりもありませんでした。唯一のヒントは、鵜殿由緒書という史料です。鵜殿平蔵長成の末子に、三郎九郎勝成という武士がいました。勝成は、大久保七郎右衛門忠世に属して数々の手柄を立てました。その子は、柳本五郎兵衛幸長を名乗り、阿波国の蜂須賀家に仕えました。徳島大学付属図書館のホームページに蜂須賀家家臣成立書(蜂須賀データベース)があり、鵜殿権兵衛の系図を見ることができます。ところが、千葉県松戸市に住む田島昌治氏の著書に、東京大学史料編纂所にある鵜殿系図が紹介されていて、柳本のことが詳しく載っています。あまりにも奇抜な系図の内容で、知らないほうがよかった、と暗い気分に落ち込みました。

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蒲郡蜜柑さま (てんゆう(kourei))
2009-01-28 19:40:25
鵜殿の一派が、徳島に向かったことは知りませんでした。武士は、生涯を通じて全国各地を動き回るので、いろいろな伝説も残しますし、武勇伝的な話や、事実から逸脱した系図が伝わることもあるでしょう。しかし、今となっては、確実に断定することは難しいですし、研究者の捉え方や、一つのロマンとして受け止めるのもよいかもしれませんね。
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