小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

四月二日 

2016-07-31 | 嘉永四年 辛亥日記
 
快晴。
昼前に浅之助が来たので豆腐を買いにやり、焼く。
酒はあり合わせ。
学校の当番だと昼飯を食べるとすぐに帰った。
その後へ野呂がきて酒を出す。
直之のことで三浦へ断りに行く。
一昨日、野呂に知らせるように頼んだのにと小梅は腹が立つ。
伊藤の葬式に岩一郎が行った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四月朔日

2016-07-26 | 嘉永四年 辛亥日記


快晴
村井多右衛門が来て酒を出す。
また同五へ酒を取りにやる。
末広かせた屋へにも髪を取りにやる。
夕方にはみんなが来た。
奥村、野呂、浅之助、辻野、前田、北野、栗山、同弟子、田沼、ら九人なり。
また、酒一升を取り昼に備えた肴2尾を煮て出す。大きなエイだ。
留守中は伊勢屋へ庄兵をやって忙しい。
小梅は風邪気で寝ている。
こいくが泊まる。主人はこいくを豊と思っているみたい。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

崇徳上皇3 西行と清盛と後白河 

2016-07-21 | ちょっと寄り道
 
 西行は俗名を佐藤 義清(さとう のりきよ)という北面の武士で清盛の朋輩として共に御所の護衛をしていましが、その一方で和歌に優れた才能があり朝廷へも自由に出入りができました。
 源氏物語に書かれているように官位の高い宮廷人にはサロンがあり、囲碁や貝あわせ、蹴鞠、歌会、演奏会など優雅な集まりがありました。中でも歌会は盛んで身分の上下に関係なく強い絆が結ばれていたりしたようです。
待賢門院璋子のサロンはとりわけ華やかで西行の歌才が愛されていました。
 崇徳天皇もここの常連で西行との歌論などで賑わって歌会も盛んでした。璋子が落飾した折に一緒に尼になった堀河の歌も百人一首に選ばれています。一説には西行が生涯璋子を思い続けていたとありますが、崇徳とも固い友情で結ばれていました。清盛から天下の情勢を聞くにつけて心を痛めていた西行ですが宮廷内の権力争いの渦を見て嫌気がさして出家したそうです。璋子と崇徳が凋落していく有様に対してなんと無力な自分を呪ったのかもしれません。漂白の歌人西行はひたすら亡くなった方への菩提を弔い、権力を掌中にした清盛へは各地の情報を知らせ、寺の建立や改修を請うたのです。
 西行は讃岐院の没した三年後に崇徳が荼毘にふされた地へ赴き近くに庵をむすんでしばらく滞在して冥福を祈ったといいます。

歌人 崇徳上皇
「久安百首」「詞花和歌集」などの歌集があります。
    
   瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
   ここもまたあらぬ雲井となりにけり空行く月の影にまかせて
   浜千鳥跡は都に通へども身は松山に音をのみぞ啼く
   命あれば茅か軒端の月もあり知らぬは人の行末の空
   啼けば聞く聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎす
   (上皇の遺跡の多い付近ではホトトギスが全く居なくなった)

西行
勅撰集『詞花集』『千載集』『新古今集。家集『山家集』『山家心中集』『聞書集』、

   今宵こそ思ひ知らるれ浅からぬ 君に契りのある身なりけり
   世の中を背く便りやなからまし 憂き折節に君逢はずして
   松山の波の景色は変らじを かたなく君はなりましにけり
   身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
   よしや君昔の玉のゆかとても かからん後は何にかはせん

 このように崇徳院と西行の心のつながりは強く固い物でした。
 一方、清盛は全くの硬派です。
 祇園女御という女性が居ました。白河法皇の色好みは見境がありませんでした。男子が生まれれば僧にし、ときには「おぼえがないのう」ととぼけられるのです。中には愛着を感じていつまでも傍に置いておく女性も何人もいました。祇園女御もその中の一人で待賢門院璋子を最初に養女にした人です。白河法皇はこの女御の妹にも手をつけました。そして、海賊退治などで名をあげてきていた平忠盛に下賜したのです。当時、忠盛は女御の屋敷の警護もしていました。その頃は高い位の人から女人を下げられるのは名誉なことでした。その妹は男の子を産むと亡くなりました。その子が清盛で法皇の命名だという説もあります。しばらくは祇園女御の元で育てられましたが、忠盛が藤原宗子(出家してからは池禅尼)を正妻として迎えたので忠盛の元に引き取られました。
 宗子は崇徳の皇子の重仁の乳母になります。天皇の乳母ともなると大変な出世です。また宮廷で大きな力をもつことになりました。本来なら保元の乱では崇徳側につくべき清盛がなぜ後白河の方へ味方したのか。
この点については多くの学者さんたちが史書や古書を読み解きつなぎ合わせて各自の説をたてられておられますが、そうした本でさえ理解できない複雑な世界で簡潔に説明できません。
 無数の貴族とその縁戚関係、寺社仏閣。さらにフリーセックスによる子沢山などが複雑に絡んで、出世競争に権力争い…天皇家だけでなくどの貴族の家にでもある跡目争い…本に出てくる人名整理も大変!おまけに名前も位階もころころ変わりますし。ですから個人的情緒的になんとなく好きになった清盛の思いを想像するだけです。そして、その清盛はわたしがそうだったのではないかという清盛像でしかありません。

 一方、後白河法皇は「うつけ」と周囲から無視されて育ってきたので誠に自由人でした。庶民が歌う今様=遊女(あそびめ)や傀儡子(くぐつ)などの女芸人によって歌われ、広められた流行歌)が大好きで女芸人に弟子入りして、今様を伝授され、ついには自らも歌い作るまでになってしまいました。そし崇徳が和歌を遺したように後の世にも残しておきたいと後白河が遺したのが「梁塵秘抄」です。

   遊びをせんとや生まれけむ
   戯れせんとや生まれけむ
   遊ぶ子どもの声きけば
   わが身さへこそゆるがるれ

 こうした今様を通して後白河は人の心の複雑怪奇さを学んだのでしょうか。それに「うつけ」と馬鹿にされていた不遇時代との相乗によって頼朝に「日本国第一の大天狗」と唸らせるほどの不可解な独裁者へと育っていったのかもしれません。清盛の力を利用しつつ二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代にわたって院政をとり、清盛を天皇の外祖父まで引き上げた段階で頼朝に平家討伐を命じました。また義経に頼朝追討の令をも出します。武家勢力から朝廷を守り抜くために奮迅努力し続けたのが後白河法皇だったのでしょう。
 崇徳上皇はどこか源実朝を彷彿させられます。
 世界に向けて(子供の頃から地球儀を持っていたらしい)飛び立つために権力を掌握しようとした清盛は武士でも貴族でもなかったような気がしています。

清盛  1118年生~1181年没
西行  1118年生~1190年没
崇徳  1119年生~1164年没
後白河 1127年生~1192年没


 過日、京都の花園にある法金剛院に行った写真がでてきたのでアップします。
 花の寺としても有名です。

            


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「崇徳上皇」2

2016-07-18 | ちょっと寄り道
「崇徳上皇」2
白河法皇の後ろ盾をなくした待賢門院璋子は髪を下ろし以後の住処としての法金剛院を仁和寺の境内に造ることに熱中します。得子への敗北感を仏教に帰依し、法皇の菩提を祈ることで乗り越えたかったのかもしれません。大規模な工事となるので完成までは数年かかります。お堂が出来た、庭が出来たとその都度に大がかりな法要が行われ鳥羽上皇、崇徳天皇、雅仁親王ら百官らが出席しました。兄弟仲はよく母思いでした。
近衛天皇が十七歳で病死しました。得子は崇徳側の呪詛のせいだと怒り狂い、天皇の位を養子にしていた璋子の四男の雅仁親王にするように鳥羽に迫りました。雅仁親王は崇徳の父違いの弟です。近衛の死によって自分の息子の重仁を皇太子にと思っていた崇徳と璋子には今まで以上に耐えがたいことでした。
体調が優れなくなってきた璋子は完成間近の法金剛院や後白河天皇(雅仁親王)の三条高倉第で静養します。鳥羽も子供達も度々見舞いに訪れますが四十五歳で亡くなり法金剛院の五位山に葬られました。そして、母璋子の最期を一緒に見守った崇徳と後白河の兄弟は保元の乱で相対することになります。
後白河天皇は父の鳥羽から「うつけ」と見放されていた皇子でいずれは僧門に入れられる身だろうからと皇位には何の関心もなく遊びほうけていました。鳥羽と得子は手元で育てている後白河の息子の守仁皇子を天皇にするつもりだったのですが、父親の後白河を差し置いて天皇にするのはまずいから中継ぎとして即位させたのです。
やがて鳥羽上皇が病の床につきました。鳥羽の命令で、見舞いに行った崇徳は追い払われ、亡くなったときも御車から降りられない状態まで門が警護の武士達で固められていました。鳥羽上皇の胸の奥深くに崇徳への怨念がずっと燻っていたのでしょう。
崇徳側と鳥羽方(後白河)の背後の人々の思惑から兄弟の皇位争いの戦いとなりました。保元の乱です。「崇徳上皇に謀反の動きあり」という風評がきっかけでした。すべては鳥羽の遺言だと取り仕切ったのは美福門院得子です。
清盛と源義朝らが後白河側に勝利をもたらせました。平家にすればどちらにつくかが大きな問題だったのでしょうが、この勝利が武士の世への第一歩となりました。

乱暴な言い方かも知れませんが崇徳も八歳年下の後白河もただ御輿に乗せられていただけだったような気がします。関白はじめ多くの貴族達と複雑な婚姻関係、付随する権力と経済力、私利私欲などがないまぜになって起こった皇位争いだったと、言ってしまうにはあまりにも多くのドラマやエピソードが展開されていました。
崇徳は剃髪して仁和寺に逃れ、一番気になる一人息子の重仁も仁和寺の別室に匿われましたが顔を見ることは許されなかったそうです。四〇〇年ぶりという配流(島流し)の沙汰が下されて崇徳は海の向こうの讃岐へと連行されて行きました。
後白河天皇の世となりました。しかし、二年後には息子の守仁親王を天皇として自分は上皇に退きます。そして出家して後白河法皇となるのです。
崇徳が最後まで気にかけていた重仁は仁和寺で出家して仏道に励んでいたのですが二十三歳で病没しました。
崇徳上皇は都では罪人ですが讃岐では尊いお方として地元の人々から警護つきではありますが大切に遇されました。しかし、松風と波の音しか聞こえない毎日はあまりにも寂しく、都恋しさが募るばかりでした。歌を作り写経し都に帰る日を夢見て過ごしましたが八年後に四十六歳で没しました。
遺体は都からの指示を待って、崇徳の遺言通り白峯山で荼毘にふされ納骨されました。
朝廷では崇徳への流罪に後味の悪い思いがあったのでしょう。悪いことが起こる度に崇徳上皇の祟りだと怖れ、霊を鎮めるために院号を贈ったり次々と寺院を造営したりしました。
崇徳の魂が恋しい都に戻ってこられたのはその死の七百年の後、明治維新の頃に京都下京区に白峯宮が建てられてのことでした。

崇徳、後白河の戦いの折に二人の生母の待賢門院璋子が生存されていなかったことに僅かながら救われるような気がします。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょっと寄り道… 「崇徳上皇」1

2016-07-15 | ちょっと寄り道

 四国遍路で讃岐(香川)を打ち終わりました。
逆打ちに挑戦したので88番札所から66番札所まで廻ったのですが、82番札所の白峯寺と79番札所の天皇寺の二寺は崇徳天皇の菩提を弔う札所でした。
 歴史上の人物で一番好きな方が平清盛なので84番屋島寺はあの合戦の地であり讃岐は懐かしさに溢れています。
さまざまな説がありますが、清盛と崇徳の異母兄弟説に信憑性を感じています。これは好みからきているとして、それを信じることで白峯寺などへの思い込みも違ってくるのです。
帰って本棚から『待賢門院璋子の生涯』(角田文衛著・朝日選書)を引っ張り出しました。昔、清盛のことを調べた本の中の一冊。
 京都の平安博物館(文化庁の移動先候補)の館長だった著者は毎日執務室の窓から三条高倉第の跡を眺めている内にそこで亡くなった待賢門院璋子の姿が脳裏に浮かぶようになってゆき、ついにその生涯を夥しい資料をを整理してこの一冊をまとめ上げたという一作です。


 待賢門院璋子こそが崇徳上皇の生母で一時期は朝廷内では一番ときめいていた女院でした。それは、当時の最高権力者だった白河法皇の庇護の元にあったからです。璋子(たまこ)は権大納言の娘として生まれましたがその可愛らしさから白河法皇が三歳ころから養女として引き取り手元で育てました。奔放に無数の女性と関係を持っている法皇でしたが幼女から育ててきた璋子への愛情は特別深く七十七歳で亡くなる寸前まで七人目の子供の出産を控えていた璋子の体を案じていたほどだったと伝わっています。

 白河天皇は早々と息子に天皇の座を譲り自らは上皇となりました。息子の堀河天皇が二十九歳で亡くなると、その息子、つまり五歳だった孫を天皇としてこの鳥羽天皇を補佐する形で権力を保持します。その傍ら仏教への信心の傾斜も強く出家したので上皇から法皇へと名称が変わりました。
 白河法皇にとって璋子は掌中の珠。幼時から体を洗ってやり添い寝して育ててきた娘です。さまざまな教養も身につけさせたことでしょう。箏の名手でしたがなぜか和歌は一首も残っていないのが研究者達を残念がらせています。
 白河法皇は大事な璋子の行く末を案じて嫁がせ先で悩んだ結果、孫の鳥羽天皇に決めました。中宮や正妃となれば誇り高く裕福な生涯を送れるからです。
 十五歳の鳥羽天皇に十七歳の璋子が入内しました。そして、二年後に生まれた長男が顕仁と命名された皇子で後の崇徳上皇です。この皇子の父が白河法皇であることは古文書などで確認されていますし、夫の鳥羽天皇もこの皇子を「叔父子」と言っていたので祖父の子だと知っていたことが窺われます。六十五歳になって子供ができたことでいっそう璋子をいとおしく思った法皇は顕仁皇子を溺愛します。そして遂に二十一歳の鳥羽天皇を上皇とし五歳の顕仁を天皇としたのです。
 国母(天皇の母)となった璋子は法皇と親しみながらも鳥羽上皇の子供を次々と四男二女を産みました。鳥羽上皇ともうまくいっていたのでしょうか。(このあたりの感覚は現代人には理解できないことですが)その下から二人目の雅仁親王が後の後白河天皇となります。
 璋子は朝廷でときめき、きらめいていました。しかし、それも白河法皇の擁護があればこそのことで法皇が七十七歳で崩御してからは次第に光を失っていきました。法皇に押さえつけられてきた鳥羽上皇はその死で解き放たれように自由を謳歌し、最愛の女御の美福門院得子(なりこ)を正妃とします。さらに得子の生んだ體仁親王(近衛天皇)を三歳で天皇にし、顕仁(崇徳天皇)を上皇にし自分は出家して鳥羽法皇となるのです。
 後ろ盾を失った結果の崇徳と璋子の悔しさはいかばかりだったでしょう。
 璋子×得子=鳥羽×崇徳=摂関家兄×摂関家弟といった複雑な背後関係もありました。怨念のある年上の古女房の璋子に比して若くいきいきとしている得子。鳥羽も女性関係は多かったようですが、得子には惚れ抜いていましたから言いなりになって璋子側へいちゃもんをつけたり圧力をかけてゆきます。
(つづく)


待賢門院璋子


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする