小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

八月二十九日

2010-04-25 | 嘉永二年
八月二十九日 

御虫干しなので主人は少しだけお城に出る。良蔵も八時から出た。
弁当を取りに来て八時頃帰った。
松下からお茶の粉が届く。
四時過ぎに岩一郎と良蔵が田中へ面籠手を借りに行くと出かけた。
今日岡本からもらったイチジクを九つ持たせる。
藤白から書状がきた。この前の返事だ。
夜に清吉が来て酒を出し、今夜泊まる。
主人は方々へ行く。田中へも行く。
岩橋、堀田では酒を呑み、上田忠左衛門方で刀を取ってくる。
八幡大菩薩と彫らせたとのこと。石道の刀だ。
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八月二十八日

2010-04-24 | 嘉永二年
八月二十八日 

学校文会でお城へ出る。草花寺(城内の庭園?)に直行する約束だ。
小重に寿司と取り口、握り飯も入れて岩一郎と良蔵を連れて昼頃に出かけた。
切手があって酒も一升持って行く。上九でなれ鮨を求める。一匁八分。
そのほかはフナや長いもなどを宿(会場?)で拵えた。
草花寺で遊んで八時過ぎに帰った。
同伴の人数は荷物持ちをいれると十七、八人だった。
塾生の本田、岸、志賀、伊藤、榎本、川合三人、岩橋二人に堀田。

主人は今月の九日に菊千代様が三才のお宮参りをお済ませになったことへのご祝儀を申し上げた。
お酒を下された。
良蔵も登城したがこれへはお酒は出なかったそうだ。

「追記」
菊千代=中将様=徳川慶福(よしとみ)。
第十三代紀州藩主。
安政五年(1858)将軍家定の継嗣となり十三歳で第十四代将軍徳川家茂となる。
公武合体の実践として皇女和宮を正室に迎えたことは有名。
第二次長州征伐途上、大阪城で病に倒れ薨去した。満二十歳だった。
英明さと真摯さで幕臣達に慕われており、勝海舟などは「家茂さまの御薨去をもって徳川幕府は滅んだ」と嘆息したと伝えられる。

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八月二十七日

2010-04-23 | 嘉永二年
八月二十七日 

快晴になった。
学校は虫干しなので主人は午後過ぎに家を出た。
三浦公(三浦長門守・家老・学問所かかり)が上九へ来るというので魚を二匹買い、造りと煮つけにして、小さなお重二つに入れて権七に持たせる。岩一郎は御本を持参した。
利八が来て明日は黒江の田中に届け物をすると言うので仏手柑酒を渡す。
紺屋へ糸を持たせ行かせる。良蔵は岸へ行って米を搗きぜんまい五百匁持って帰った。

(上九は寿司や?)
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八月二十六日

2010-04-22 | 嘉永二年
八月二十六日 

何事もなし。
橋本へ行く日なのだが行かずじまい。

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八月二十五日

2010-04-21 | 嘉永二年
八月二十五日 

よく晴れて暑い。
昨日があんな具合だったので今日は魚も釣れるだろうと思う。
しかし、太陽が照りつけるので出かけるのには昨日の方がよい。
塩、二匁のを買う。会(塾開講日)で山本、栗山、富永、札川が来る。
善一は芋や紫蘇を持ってきて、後まで残り酒を出し、槍を使う。夕方帰る。
十倉への炭の切手を持たせて岸をやる。
酒を五合買う。


「追記」切手のこと。
「切手」という名称はもともとは持参人に表示された商品を引き渡す一種の商品券を意味するもので、当初は「切符手形」と称していたが、その後略されて切手とされるようになった。江戸時代には通称名を「蔵預かり切手」と呼称した。米切手はその代表格であり(米以外に大豆や黒砂糖、小麦などもあった)と云われ、蔵屋敷などの交換所で商品と交換することができた。そのため、明治時代に日本でも郵便料金支払いを証明する意味で「切手」がつかわれていた。(Wikipediaより)
この日記でも一種の藩札の性格を持つ金券のこと。以後、度々切符として出てくる。
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