小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

四月二十三日

2016-09-27 | 嘉永四年 辛亥日記


主人はお城当番で8時過ぎから出かけ昼前に帰宅した。
小梅は絹へ菊を描く。
これは市川の頼みで出すはず。
美濃から手紙と菓子が届いた。桃の形の菓子だ。
仁井田源一郎から倅(岩一郎)をお褒めいただいてありがたし。
お褒めの品として魚を一籠寄越された。
その内、ハモ1本と伊勢エビ2尾を喜多村に16日に男子出生ゆえ祝いに送り大きなヒラメは家で料理して食べた。
田中から重を返す傍ら蜂を持たせて寄越す。
夜、美濃からの菓子を持って遠藤一郎へ行く。
小野牛渚から呼びに来たので帰るとすぐに出かけ1時頃に帰宅。



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四月二十日、二十一日、二十二日

2016-09-23 | 嘉永四年 辛亥日記
四月二十日  
快晴なり。
江戸の善助への状を岩一郎がお籠町まで持参する。
川島角助が来た。酒一升取る。肴はあり合わせで挿す。
夜、岩一郎は千太郎の家に行く。会なり。
城ノ口常吉病死の由。
麹を寝かせにやる。


四月二十一日 
少々くもる。
野上の割木がきて安兵が運んだ。
万吉は加太に参詣。(淡島神社)
柏餅をこしらえる。
小梅は2時頃から内田に寄ってから出口の田中にお祝いに行く。
柏餅を持参して酒販を振る舞われた。
あとから主人が海野の帰りに寄って一緒に帰宅した。



四月二十二日  
夜になって大雨。
直した屋根からまた漏る。
市川が来た。菓子持参。酒を出す。
その前に松下氏が掛け物を持って来て酒を出していた処に来たのであり合わせで出したが直ぐに帰った。
今日は学校当番だった。


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四月十九日

2016-09-22 | 嘉永四年 辛亥日記

大いに快晴。風呂を焚く。
主人は終日出かけず。
酒井省安が来て酒や寿司を取って出した。夕方まで話す。
城ノ口から米を一斗持参。
昨日、一歩を梅本に渡してある。
とよの妹は昼頃にきた。
奉公先から暇を取ってきた帰りということで昼飯を食べさせる。
髪を結って2時前に帰った。
妹は貝を一籠持って来た。
ほかには何事もなし。



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四月十八日

2016-09-16 | 嘉永四年 辛亥日記
 
晴れた。
梶取(地名)で幟があがると連絡があったので小梅も行った。
同伴は梅本の家内と東の娘のとよ。
大いに賑わっていた。
河原は蟻のように人が出て渡し船に乗れないかもしれない。
早く帰れば空いているだろうと急いで帰途についたが往くときより大勢になっていた。
三、四艘の船は全部満員で危ないことこの上ない。
人は乗ろうと急ぎ、船頭は乗せまいと棒でつく。ますます危ないことだ。
しかし、水はひどく少なくて川を上るのは無理。
板〆の襦袢を着て踊り歩く者、女の子供をかけて十四、五人有る。
女がた二人、これは昨日の和歌祭礼で餅つき踊りに出ていた者らしい。
男ら踊る者は紫の縮緬の手ぬぐいで顔を包み目だけ出しているので誰ともわからない。
主人は夕刻に北野へ行く途中に大鈴木の門の前で踊る者を見たという。
よくよく見ると踊りを指揮していたのは表具師だったそうだ。
この度は賑やかにせよとのお上からの内々の御すすめがあったゆえ、下駄なしで足袋のまま座敷へあがってきた。
御殿の女中らも梶取へ参っており一位様(十代藩主で隠居の治宝公)に申し上げるとのことで皆々おおいに弾んでいる。
手習い子まで襦袢に縫いやら色々立派にして揃って行く由。
一人前を倹約しても一両より下では納まらないそうだ。
家の貧富に従って精一杯はずんで出す。
さてさて、手習いの師匠はこのようなことは叱るべき筈のところを、大工町の師匠は特に悪く、自らも男を持ち一向に師である道を知らないようだ。

安兵衞が裏代えに来る。これは先に渡した分。
しかし、それは買うてくれとのことなので野口で買う。四十五文。
とよの母がきた。妹の奉公のことでの相談だ。飯を食べさす。

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四月十七日

2016-09-10 | 嘉永四年 辛亥日記
くもり
曇れどもまずは降らず。
朝、松下から千代野が傘を借りに来た。破れ傘を貸す。
しかし、おいおい天気は良くなって傘は不用だ。
終日、誠に晴れていた。
夕方から主人は喜多村へ祝いに行く。また鈴木へも行った。
了吉は和歌へ行き、夜の十二時頃に帰ってきた。
和歌祭で大いに賑わい、鴻池の奥さんも駕篭できたという。
その十人あまりでかなり入れ込んだらしい。

※ 和歌祭
 元和8年(1622)、紀州藩初代藩主徳川頼宣公によって始められた和歌祭は、徳川家康をまつる紀州東照宮の祭礼として、多くの民衆が参加し、藩主らと楽しみを共有する祭であるとともに、その規模の大きさと内容の豊富さで、古くは「日本三大祭」「紀州の国中第一の大祭」と呼ばれていました。
侍坂とも呼ばれる紀州東照宮の108段の急な石段を約1トンの神輿を担ぎおろす「神輿おろし」から始まり、雑賀踊、薙刀振、太鼓など数十の集団、総勢約千人が様々な芸能を披露しながら練り歩く「渡御行列」と、大変勇壮で華やかに繰り広げられます。
 今日まで約390年にも及ぶ年月の中で、戦争による中断など、祭の存続を脅かす様々な障害を乗り越え、現在まで伝統の芸技を受け継ぎ、今も毎年、5月第2週日曜日に華やかに行われています。


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