小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

★★五十八番 大弐三位 ★★

2015-01-06 | 百人一首

有馬山猪名の笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする

五十八番…大弐三位藤原賢子…(999~?)
 父は藤原宣孝で母は紫式部です。本名は賢子と書かれていますが読み方はわかりません。(よしこ?かたこ?)
2、3歳で父を亡くし母と共に祖父の藤原為時邸で育ちました。この祖父が有名な学者でしたし、母も文学的素養の深い女性ですから自ずから賢子も幼い頃から感性が磨かれていったことでしょう。
 やがて母が道長に乞われて道長の娘の彰子皇太后の元に出仕することになり、伴われて賢子も仕えることになりました。地味な学者の家から華やかな宮廷へと生活の場が変わったわけです。母の書いた『源氏物語』そのままの世界に少女だった賢子はどんな思いを抱き、どんな夢をみたのでしょうか。
 間もなく母が没し、祖父も出家してしまいます。ひとりぼっちになった賢子は15歳前後でした。でも、父譲りの美しさとバイタリティ、母から受け継いだであろう才気を賢子は持っていましたし、紫式部の娘であったことも幸いして越後の弁(祖父が越後守だったので)という宮廷女房としてしなやかに逞しく生きていきます。

 多くの宮廷歌人たち同様、賢子も恋多き女性でした。
16歳の頃は藤原頼宗(道長二男で22歳で参議)、21歳頃には源朝任(源時中男で35歳で参議)、23歳頃、藤原定頼(公任一男29歳で参議)頭弁、26歳頃、藤原兼隆(道兼二男24歳で参議)といった具合に次々に名門貴族の貴公子たちと恋に落ちていきます。
 この58番の歌の詞書が『後拾遺集』に…離れ離れなる男の、おぼつかなくなどいひたりけるによめる…と書かれています。「しばらく遠ざかっていた恋人があなたの気持ちがよくわからなくて、などと歌を贈ってきたので詠んだもの」という意味でしょうか。有馬山と猪名の笹原は歌枕ですが「有」(あり)と猪名=否(いな)の対句となっていて、「そよ」(そうよ)は笹の風のそよそよ吹く風情を思い起こされるというしくみになっています。「人」は当然、相手の男性のこと。「有馬山の麓に猪名の笹原がありますが、そよそよ風が囁くのです。そうなんです。どうしてあなたを忘れたりするものでしょうか」
 こんな返歌を受け取った恋人は急いで彼女の元にやってきたことでしょう。

 賢子は兼隆の子供を産み、同じ頃に後冷泉天皇が誕生されたのでその乳母に選ばれました。これは大変な出世です。天皇の乳母というのは大きな権力を持っているのです。聡明な乳母として評判も良く、従三位、典侍へと位が上がっていきました。今でいうキャリアウーマンでしょうか。
 しかし、彼女は36歳前後に結婚してしまいます。相手は太宰府の長官の高階成章です。この人は54番の歌の作者、儀同三司母の一族で蓄財の才に長けた大金持ちです。
若い頃は多くの公達と恋をして、キャリアウーマン、未婚の母を経て中年になると高級官僚に嫁いで家庭を築く。賢子の生き方に羨望を覚える女性も少なくないでしょう。
 結婚によって呼称も越後の弁から夫の役職名の大弐三位へと変わり、男子も産まれ後半の人生は幸福なものであったようです。
そういえば、夫の高階成章以外のかっての恋人たちはみな公卿になっています。公卿の正室はそれなりの家から迎えるものですから、受領階級の出身である賢子は恋の相手以上にはなれなかったのかもしれません。お互いにその点を暗黙の内に諒解しあっての恋の数々だったのでしょうか。だとすれば、人知れぬところで涙を拭わなければならないような別れもあったのかもしれません。そんなことに想いを馳せますととても親しみを感じてしまいます。
 家集に『大弐三位集』があります。    
コメント
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