誰一人として取り残さないって

2024-08-30 | あほらしきこと

米スタンフォード大医学部の研究発表が話題になった。
「人の老化は漸次進むのではなく、
44歳、60歳前後の2期に加齢変化が集中する…」

生活文化の違いというか、
日本人を調査したら、ちょい違う気もするんだけど、と思った。
年代で経験する人生のイベントは大まか類似しているし、
グローバルな時代に、似た食文化の影響はあり得るだろうと納得したものの、
欧米の加齢変化は日本人よりかなり早く起こるのかも知れない。

そう言えばコロナのスウェーデン方式が話題を呼んだ時。

他国(?)の記者がスウェーデンの当事者(高齢者)をインタビューすると、
「若い人たちの為ですから…」てなニュアンスの言葉が返ってきた。
その高齢者夫婦の年齢は60代前半だった記憶がある。

スウェーデン社会は、60歳が現役引退(?)で
『60歳を過ぎたら経済発展には不要な存在、後は死を待つのみ』
そんな意識が社会の中で一般化しているような答えに驚いた。
それにしても日本人の60代前半のイメージより老けた高齢者に映ったのは何故だろう。

「病院は若い人優先です。高齢者は自宅で療養するように…」だなんて。

 

 

 

「Aさんとランチをしてお店を出ようとしたときよ。
”親子でお食事ですか…”と声を掛けられたの。
私たち同級生よ。ショックが大きくて…」

日本人の多くは目鼻立ちのバランスが子供顔だ、海外では実年齢よりかなり若く見られることがある。
母親にされた女性の目鼻立ちのバランスは整っていて、Aさんの子供顔に並ぶと年上に見えたのだろう。
この「見た目の年齢」の要因は、もちろん顔のバランスだけでもない。
少なくとも彼女の見た目年齢は、前述したスウェーデンの高齢者前後で、
実年齢はその10歳ほど上になるんだから。

女にとって(?)、見た目年齢はかなりの関心事のようだ

先月のこと、近所の女性が激怒して捲し立てていた。
「あたまに来たんだから。なんであんなお婆さんが私より年下なのよ!」
どうやら、ご主人が、彼女より十数歳ほども年上の女性を、
彼女より若いと思っていた事にご立腹のようだ。

でもね、思うに「自分の顔に責任を持て」というのも案外当たっていて、
私たちが情報発信する態度や言動、それも「見た目年齢」を刻んで行くものだからね。


ファッションや化粧の仕方一つをとっても、「見た目年齢」は「実年齢」と異なって映る。
男にあるジェラシーは女にもあって、
上から下へと舐めるようなチラ見をしながら「よく、あんな服着られるわよね」とくる。
半分羨望(?)の眼差しだ。幾つになっても女心は複雑なのだ。

若い少女たちはおばさん達の嫌味な視線を跳ね返しても、
中高年はみんなで同じ穴の狢になり、同族意識で溶け込むことに安堵する。
欲望と怠慢に忠実な時間が積み重なった結果は、
皆で共有すれば怖くないということかな…。

「若くないし、そんな服は似合わないから」
「この体型じゃ着られるわけないでしょ」

言い訳をして、お洒落ごころは欲望と怠慢が蓄積した体形に拒否される。

その怠惰な時間を積み上げたお腹周りが、
あなたが憤慨する「見た目年齢」に加算され、一役、否、二役買うのだから。

ところが、女たちは表向き同じ穴のムジナに入り込んだ振りをするのだけれど、
何故だか、たった一歳の歳の差すら大きな出来事のように固執をするのだ。
エステや化粧品、美容と健康サプリなど
「効果は個人の感想です」と小さく表示された一行は見て見ぬ振りしてあれこれ購入。
キャッチコピー「簡単に痩せられます」に誘惑され、ハウツー本も購入。
女心を逆撫でし、不安を煽ったりして美健マーケットの商戦は花盛りだ。

美しくありたいのは男も一緒で、男性化粧品も男性美容整形も大きなマーケット。
数十万円は掛かるサロンの脱毛や美顔は少年少女もターゲットにし始めた。
美顔施術やネイルサロンは「男のくせに」とか、「いい年をして」という嫌悪の対象ではなく、
そう言う美意識が若者受けがするし、男のたしなみという時代になったようだ。

周りを見わたすと、腰やお腹周りが立派な中高年って多い。
そう、「筋トレサポータ」をしている女性陣、十年選手の経歴を持つにも拘らず、
彼女たちお腹周りは立派すぎる。それでも、そんなお腹周りも解消されるから。

そう、中性脂肪・体脂肪も様々な対処商品が開発されて、
スマートな体系をゲットできる(幻想?)らしいし。

それにね、近い将来、人類を悩ませてきた「年齢」というカテゴリーは意味を持たなくなるかも。
「年を重ねていけば一つひとつ無くしてゆくものがある、
それをどのように受け入れていくかが大切だ」なんて精神論、それは過去の話で、
「一切にわがものなし」じゃなく「一切にわがものあり」だ。

そう、近代化していく日本の貧しさを象徴したドロドロの道路が、
アスファルトに整備されていくと、未舗装の道路に貴重な文化財を見つけたかのように、
豊かな時間と郷愁を感じるというのもいかがなものかってね、司馬遼太郎が皮肉った話。
普遍的な価値観だと思っていた支えも、全て気ままにゆらぐ時代だしね。
どちらにしても、
詰まるところ不動の価値などないということ。
表現の自由という偏った認識の価値観などもね。そう同情や共感が高らかに闊歩する社会もだ

でもね大丈夫、そもそもいい加減な不動の価値など揺らいだって、誰も置いて行かれはしないから。

何処かの立派なスローガンにあるでしょ。
「誰一人取り残さない」って…

美容整形は当たり前になったし、デザイナーベイビーもリアルな時代。
老化防止の先端科学、きっと、IPS細胞で若返りという人類の夢も夢ではなくなる時が来る。

         ●●●

「iPS細胞をつくるための4種類の遺伝子を限定的に使って、
 細胞を若返らせる研究が進んでいます」
還暦から始まる』講談社+α新書/山中伸弥・谷川浩司著より

 

なんだかな~~

 

 

 

 

 

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美しきは立ち姿?

2024-05-14 | あほらしきこと

筋トレをはじめ、今年の秋で三年になる?

昨年夏、怪我をして手術をした足は、

健康な足の2/3ほどに細くなって、涙がポロポロ。

 

まして、1~2か月ほど前まで、健康な足に頼る癖から抜け切れず、

傍から見れば、不自然な歩き方だった。

そう、歩き方でその人の年齢も分かるけれど、

足の履歴が分かると言うことに気が付いた。

術後の傷、完治しても痛みは残るもので、

辛くてもちゃんと歩こうという意思がないと、

「この人、足を怪我したことあるな…」ってね、

妙な歩き癖が残るものだ。

 

そんなこの頃、筋トレサポーターを個人的に頼まれた。

スポーツに才能ありの記憶は無いし、

それどころか資格の「しの字」もないのだけれど…。

講習を受けた市のサポータはちょっと問題も抱えていて、

ネットや動画などの情報は大洪水の被害を受けているし…。

専門家を名乗る方たちのどれが真実なのかもわからなくなる。

ここにも表現の自由があるようだ・・・?

 

人に何を選択して筋トレをサポートしてよいのか迷った。

「ちょっと待ってよ」と

WHOのレポートや厚労省のレポートをチェックしたり、

情報提供団体や大学の研究室に電話したりと、

本をチョイス、DVDを購入等々、かなり(…?)勉強した。

 

けれど、サポーターをしていて一番困るのは

TV(バラエティー番組)の中途半端な情報発信かな。

おばさまたちはTV情報で、俄か知識人になるのね。

 

まあ、その話は脇に置いて、わたしのタンパク摂取は大豆中心なので、

シックスパックではないけれど腹筋は縦割りだ。

この縦割りはドローインやインナーマッスルのトレーニングを始めて直ぐ効果が出た。

今じゃ腰を立て臍下丹田に注力して、「姿勢を正す」の日々を送る。

 

そう言えば、とある会に参加したときだ。

会も終了してエントランスを出るとき、「綺麗ですね」と声を掛けられた。

久々のほめことばに嬉しく振り返ると、

「奇麗な姿勢をされていて驚きました」とのこと。

えっ!ああ~、姿勢の事なんだ…⤵

「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は・・・」じゃないけれど、

せめて姿勢は…、立ち居振る舞いもかな…?

美しくありたいと、ちょっぴりため息交じりの帰宅だった。

 

 

 

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てふてふ

2023-10-02 | あほらしきこと

「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」

 

なんだか心に沁みたから、調べてみた。

なるほどと思った。

*韃靼海峡(だったんかいきょう)

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母の背中

2023-10-01 | あほらしきこと

ぬくもりの手も絶えた廃屋の北側、

壊れかけた庇の格子窓の下、小さな焚口がついていた。

そこに繰り返されただろう日常は足早に去り

そうしてゆっくり滅んでいったに違いない。

 

昨日までの時がどのようであったのか

私に思い入れはなく

こころに積み上がるものなどない。

 

廃屋の木戸に、

幼子に手を差し伸べるように枝を伸ばしていた松の木が

気付かれることなく朽ち、姿を消していた。

 

思い出せば松風の音と一緒に

ここを吹き抜けただろう風は、故郷のようになつかしいものだ。

松の葉を拾い集め焚口にくべる母の背中が思い出される。

赤い火の粉が、パチパチ纏わりつきながら母の背に遊ぶ。

その背に手を伸ばそうとしたのだけれど

 

何事もなく。

 

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一日千秋

2023-08-25 | あほらしきこと

 

いつの間にか憤りを抱きはじめていたんだね。

押しつぶされそうな圧迫感に慣れっこになったつもり…。

これも年の所為かな。

そうだね、昔見た世界は色あせて、

あんなに感動した言葉も意味を持たず、

翅をつけて軽く軽く飛んで行くから。

 

入院して四日目、私の精神状態は爆発寸前。

入院がこんなに苦痛なものとは思わなくて、

「通常、約一か月の入院です」と言い渡され途方にくれた。

それでも強引に主治医を説き伏せ、退院を要求した。

「明々後日、出張から帰ってきます。検査の結果でOK出しましょう」

と言う言葉を何とか取り付けた。

主治医を待つ二日間が、永遠に続くように感じられたものだ。

 

感じられる時間とは体験された出来事の数ではなく、

出来事を「体験した」と認識するために

必要な認知的負荷が大きいほど長くなることが示された。

このような認知的要因が感じられる時間の長さに及ぼす影響は、

従来考えられていたよりも強いことがわかった(千葉大 人文科学研究院)。

 

ふむふむ、そういう事か。

そうだ、楽しいときは短く、退屈なときは長く感じる時間の流れ。

人が感じる時間の長さの違いは脳の認知的負荷で変化するんだね。

ああ、あと二日、あと二日我慢したら退院できる。

わたしは一日千秋の思いで、主治医の戻るのを待っていた。

 

 

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