小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

十二月二十九日、晦日

2015-12-28 | 嘉永二年
十二月二十九日 
天気良し。
せわしい一日。
母君は風邪気味で寝る。

十二月晦日 
今日は母君は起きたけれど小梅は少々風邪気味。
風呂は炊かず、岩一郎も風邪気がまだ醒めないので主人だけが池田の風呂に入りに行った。
諸払いは大方済んだ。
残った所は岡伝、直覚、上九。
同五へも半払いにと思っていたところ二歩で全部済ませた。25匁ばかりのおまけとなった。
ここ四、五年の掛けはみな済んだ。
栄谷佐次右衛門が勘定にくる。
金二歩を受け取る。餅米三斗百九十八匁だそうだ。
今年は金が入ること余程のことだった。
しかし、思いがけなく出費も多かった。


年中入用
米  凡そ二百六十目ほど
餅米 三斗
酒  一石九斗弐升ほど
柴木 百十三匁九分
醤油

青物
着用類

砂糖(赤と白)


往来物
入り 371品
出  276品

逝去  岩橋楠松  野際細微


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十二月二十七日、二十八日

2015-12-26 | 嘉永二年
十二月二十七日 

夜分は大雨となる。

十二月二十八日 

主人は留守。
市川から使いが小鯛を3,酒券2枚持ってきてぶしゅかんの葉が欲しいという。二十枚ほど渡す。
夜、浅之助が来る。小鯛を料って酒と出す。
主人は遠藤へ民蔵持参のつばを持って出かけ、その後岩橋へ行く。
浅之助も畑屋敷に寄ってから岩橋へ行く。
かな輪から使いが寺社のことで相談があると言いに来て走って帰った。
良蔵が提灯を持って迎えがてら岩橋に行った。
笹屋の頼母子に行ったらぶらりが当たった。きんすは1枚で、先に帰った。
清吉が京都から送ってきたと麩が15届いた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ぶしゅかん」

2015-12-22 | 嘉永二年

「小梅日記」には時々「ぶっしゅかん」という果実がでてきます。
川合家の庭に植えられていたようです。
今日、農協の店に行ったらあったので買ってきました。700円でした。


漢字では「仏手柑」と書きます。
字のごとく、果実の形が手の指の形に似ており、千手観音を思わせるところから由来してます。
ミカン科ミカン属の常緑低木樹で、「カボス」「ユズ」などと同じ香酸柑橘類の一種で釈迦の国、インド東北部原産です。みかんの花に似た独特の濃厚な香りを持っています。
しかし、果実が大きくなっても中身の果汁などはなくすっぱくて生食用にはならないので皮を砂糖漬けにして食べます。
現代ではマーマレードを作るといいのでしょう。香りのいい、さっぱりとした味わいに仕上がるようです。

また、ぶっしゅかんはユニークな果実の形から江戸時代から鑑賞用として「生花」「茶の席」「正月飾り」「盆栽」などに珍重されていました。
さらに漢方薬としてアジア地域では古来より不老長寿をかなえる漢方薬として重宝され胃痛、脇腹痛、嘔吐、咳などにも用いられてきたそうです。

この仏手柑は瑞兆の果実として正月や婚礼の時に飾られたそうなので我が家でも玄関に飾っておこうと思います。
置いておくだけで良い香りが周囲に広がるんです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十二月二十四日、二十五日、二十六日

2015-12-21 | 嘉永二年
十二月二十四日 
10時頃に例の餅つきやが来て餅を搗く。搗き賃は612匁なり。
2時過ぎに浅之助が来たのでぜんざいを出した。
三浦から使いが300疋と700疋を届けに来た。300疋は中元の祝儀で700疋の歳暮と一緒に寄越された。
権七が黒豆を1升ばかり持ってきた。
夜分に仁達は小原へ行く。故郷からの便りがあったとのこと。

十二月二十五日 
晴れたがすこぶる寒い。
権七を方々へ使いに出す。
清吉が来て酒を出す。了吉も来た。同じくぜんざいにてもてなす。
主人は三浦殿へ礼に行って帰宅した時だった。
夕方、浅之助が来る。
銀を受け取った後で、主人は遠藤へ鶏を持参し、それから岩橋へ行った。
良蔵は廻文を持って大橋へ。そのまま笹屋へ頼母子に行く。
(廻文の意味。多くの人に知らせるために、あて名を連名にし、順番にまわし読みする書状)
京都からの到来物の麩を野呂からもらう。
廻状は「仰せの通りのことあり候につき、明日二十六日に平服にて登城とのこと」とある。

十二月二十六日 
おおいに温かい。
朝、伴右衛門がきたが主人はお城へ行って留守。
今回の仰せのあらましは「この度、お上では借財が多いので先年のように三分五厘をお取りあげとなる」と山中殿が言い渡されたのだ。詳しくは近々廻状がくる筈。
主人はお城から山本へ行き大いにご馳走されたとのこと。
筆を三つ持ち帰ったので三人へ分けた。
仁達は日方の魚屋へ金を取りに行き四時前に帰り、祝儀を送られた。
金三歩弐朱と飯料三両二歩。八月九月十、十一、十二月分、一月金二歩づつ。他に弐朱。これは切手やたばこ代などの代金。
良蔵は岩橋へ米つきに行く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十二月二十二日、十二月二十三日

2015-12-18 | 嘉永二年

「十月二十二日」 
温かく天気の良い一日。今日は節分。
清吉が来る。昼飯を食べて風呂に入って帰った。
夜は宿で寄り合い酒を飲む。
良蔵に餅を買いにやる。
少々、おなかが痛むので先に寝た。

「十二月二十三日」
今日も良い天気。
主人は山中殿へ行く。小梅が描いた十五枚の画を山中殿宅の若者に贈った。
いつも書を読む傍へ来て、おとなしく書物好きに見えるので上がれと言われるままにお邪魔し、酒飯までよばれたとのこと。
夕方に田中嘉八が礼にきた。二朱の酒券を持参。
そこへ主人が帰って来たので一杯やることになった。
「上九」で取口を取り寄せ、鶏の吸い物作ってを出す。
10時前まで話をした。


 節分 旧暦では新年を迎える儀式として12月12~28日頃に行われていた。
 明治維新で新暦になり立春が2月になったためにその前日が節分とされた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする