小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

太龍寺から

2015-11-29 | 四国遍路
太龍寺にやっと着いたと思ったら境内は石段ばかりです。
本道へも太子堂へも長い石段を登っていかなければなりません。
それにしてもなんと広く立派なお寺でしょう。



第二十一番札所 舎心所 太龍寺
ご詠歌  太龍の常にすむぞやげに岩屋 舎心聞持は守護のためなり

西の高野山と呼ばれている山岳霊場です。標高520メートルの所に建っています。樹齢数百年の杉や檜が霊場の色を濃くしています。
縁起によれば十九歳の弘法大師が捨て身の覚悟で修行した場所でそれを龍神が見守ったことから太龍寺と名づけられたとのことです。
創建は793年。桓武天皇の勅願によって大師が諸仏を刻んで建立しました。

仁王門をくぐったのは4時前です。秋の日のつるべ落とし。おまけに曇天ですからもうすっかり暮れかかってます。
仁王門から杉木立を歩き、やっと建物が見えました。



納経所があって、長い石段を登ると中門。さらに石段を登ってようやく本堂が見え、大師堂にはまたも石段です。
まずは納経所に行き朱印を戴きました。どなたかのブログでここのお線香が此処だけでしか入手できないオリジナルで香りが素晴らしいとあったので一箱買いました。極力荷物をふやさないようにしてますので買ったのはこれだけです。
大師堂でローソク、お線香、むにゃむにゃとお経を唱え納め札を箱に入れます。




長い石段を下りて本堂にお詣りしました。
鶴林寺とは趣の違う立派なお寺です。庭も素晴らしくしみじみと眺めていると、本堂に明かりが点りました。
美しかったです。ずっと座っていたかったけれどロープウェイの最終便が5時。
とてもこれから平等寺までは歩けません。下まで行かなければ泊まるところもありません。



5時40分の便に乗ることが出来ました。
このロープウェイは日本で一番長いそうです。麓まで10分。
曇り空でも景色は素晴らしかったです。曇った夕暮れの空も深みのある美しさ。



下りたところに「わじき」という宿があります。
でも、少しでも先に行っておきたいので、この日は次の札所の平等寺のお隣にある「民宿山茶花」に予約を入れてあります。
勿論、暗くなった長い距離をを歩けません。タクシーを呼んでもらいました。
雨に追いつかれなくて感謝です。

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太龍寺まで

2015-11-26 | 四国遍路
「標高550メートルの鷲が尾の山頂にあり、遠く紀州や淡路の山峰、遙かに太平洋を眺望できる風光明媚な霊山が境内である。」と鶴林寺のHPに書かれていますが、あいにくの曇天で太平洋までは眺望できませんでした。
空にはたまに薄い水色が見えるだけ。


古色蒼然とした建物が風雨に耐えた年月を彷彿とさせられました。木造のはかなさ…廊下の天井には鶴の画が描かれていました。一羽の鶴が色褪せていたのが残念です。保存する手立てはないのでしょうか。

お詣りを済ませ納経帳に御朱印をいただきます。
「歩きですか?」と聞かれて「はい」というと太龍寺への道を教えてくれました。
山門まで戻らずに境内の手洗い場の横に標識がありました。
急がなければなりません。下まで降りてから向かいに聳えるあの山まで行き着かなければならないのです。
3時頃から雨になるかもと言われています。

下りの一歩を踏み出し「こりゃ大変だ!」と思いました。
まるで直角のような坂道で石がごろごろ。踏みどころによっては滑ります。
もう、写真を撮るどころではありあせん。
2本のストック頼りに必死で降りていきます。指先が痛くなっていきます。体重が前にかかるからでしょう。


途中、また車道を越えて長い階段を降りました。
やっと下まで降りてからの那賀川の橋までの長いこと。
蜜柑畑や民家を過ぎると県道。水井休憩所がありました。ポカリを買いました。
お腹が空いていたけれど落ち着かないので少し休憩して水井橋を渡ります。12時半。


登りの山道が始まりました。足の指先の痛みは和らいでいきます。そのかわり、息が少しずつ苦しくなっていきます。
適当なベンチがあれば残りのおいなりさんを食べたいのに何もありません。
ぽっかりと穴の空いた岩屋のような岩がところどころにあるばかり。川の音だけがするばかりでたった一人です。


久しぶりに空腹でお腹がグーグーいうので落ち葉の上に座っておいなりさんを頬張りました。
丁石のお地蔵さんがあと何丁と教えてくれます。救いになります。
丁石というのは一丁(109メートル)毎に建てられた道標で古くは南北朝時代のものがあるそうです。




ここで半分くらいはきたのかな。もう、14時半だ!不安です。
そこからどれだけ歩いたのやら。3時50分。
3時までに着きたかったのに、足がとろいので仕方ないか。雨はまだ。
ようやく、山門が見えてきました。でも、ここからが……。


今までずっと一人だったのに数人の人が石段を登っていました。

鶴林寺の入り口で出会ったTさんはどのあたりだろう。
徳島に住んでいる友人とどこかで落ち合うと言ってらしたけど……。





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生名から(三度目の遍路)

2015-11-24 | 四国遍路
仕事で九州に行ったので遍路の続きを思い立ちました。



徳島のサンルートにキャンセルが出てラッキー!
22時頃に着いて6時起きです。
7時10分の始発の徳島バスで前回最後になった生名というバス停まで行きます。
目指すのは20番札所の鶴林寺です。
区切り打ち徳島編も残すのはあと4つ。
残していては気持ちの上で区切りがつかないので今回は21番太龍寺、22番平等寺、23番の薬王寺まで詣ってしまおうということです。
「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と言われて深い山中にあるために、四国八十八箇所霊場の中でも随一の難所として知られているところです。しかも、途中に宿がないので一度に制覇しなければなりません。ですからかなりの覚悟で鶴林寺への道に踏み込むわけです。

バスを降りた近くに道の駅があったので朝食のおむすびでもとおいなりさんを買いました。ちいさなおいなりさんが7つ。
道の駅のベンチで三つ食べて、出発です。





鶴林寺林道に向かって8時半出発。遍路マークに従って進んでいくと蜜柑畑でした。
収穫をしていたおじさんがもぎたての蜜柑を二つ下さいました。お接待です。
二人ほど手ぶらの男性が降りてきました。朝の散歩でしょうか。
また、二人ほど男性がずんずんと「こんにちは~」と抜いていきます。
やがてゆっくりと歩いている男性に追いつきました。
わたしに追いつかれるようですからかなりのスローペース。神戸からというTさんで心臓が悪いそうです。
今夜の宿は同じのようです。
しばらく一緒に歩きましたが「無理をなさらないで」とお先に行くことにしました。
しばらく行くと休憩所の東屋がありましたが休まずに進みます。



みちはどんどん険しくなっていき下界が見下ろせる場所に来ました。
ちょっと休憩。前方には勝浦の町が一望され、那賀川の向こうに山々が聳えています。



その一番高い山の頂上にあるのが太龍寺です。
今からこの山を登り、川まで降りてあの山まで行くのです。
無理~!心が折れそうです。
でも、くたばったらタクシーに来て貰えばいい。
現に鶴林寺の参道に行くまで車の走る道路を三回ほど横断してます。
時々、Tさんはまだかな?と振り返りましたがまだのようで、誰も登ってはきません。
静かで穏やかな木々の間を弱い太陽の光が垣間見られます。紅葉はまだまだみたい。






鶴林寺の山門に着いたのが10時半。普通の人の倍はかかっています。
第二十番札所  霊鷲山 鶴林寺
ご詠歌  しげりつる鶴の林をしるべにて  大師ぞいます地蔵帝釈

標高500メートルの山の上に建つこのお寺は霊山そのものの感じがします。
本堂の前には左右に鶴が一羽ずつ立って迎えてくれます。
つがいの鶴が本堂を守ってくれているそうです。



縁起によれば、桓武天皇の勅願によって弘法大師が建立しました。
大師がここで修行をしていると二羽の蔓が杉の木に舞い降りてきた。鶴は黄金の小さな地蔵菩薩を守っていた。そこで、大師は杉の木で地蔵菩薩を刻んでその胎内に黄金の地蔵菩薩を納めて本尊とし、この寺を鶴林寺と命名したそうです。
長い?山中では殆ど誰にも会わなかったのに何人もの参拝者がいます。車遍路の方たちでしょう。
ちょっと羨ましく思いながらお詣りをして納経帳に御朱印をいただきました。




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「十二月十八日」

2015-11-18 | 嘉永二年


終日、じめじめしていた。
何事もなし。
夜、浅之助がきたてあり合わせで酒を出す。
主人は山中殿(山中作右衛門 家老)宅へ行き、
金五百疋を賜って持ち帰る。

山源が仕上がった袴を持ってきた。
三十九匁だったので、昨日支払った二十七匁を差し引いて十二匁を渡す。


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「十二月十七日」

2015-11-18 | 嘉永二年


大いに晴れて温かい。遠藤一郎から使いが来た。
このほど三人合作(絵画)を認めていただいたお礼として小豆二、かつおぶし三、酒券三を贈られた。
味噌をついた。
山源(山形屋源右衛門)が袴地を持ってきたので二十七匁渡した。
権七に袴を取りにやってこれは十匁なり。
野際から跡目のことで手紙が来た。他にもあちこちにまだ襲名する名前は聞いていない。
主人は夕方から岩橋と野際へ悦に行き十二時頃帰宅。(この悦は初七日あけの挨拶?)
五人扶持となったそうだ。
四時頃、鈴木芳右衛門が来て酒を出す。夕方に帰った。


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