小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

八十番…☆☆待賢門院堀河☆☆…

2015-06-27 | 百人一首
待賢門院堀河(生没年不詳)

八十番 長からむ心も知らず黒髪の みだれて今朝はものをこそ思へ

 村上源氏。右大臣顕房の孫で、父は神祇伯をつとめ歌人としても名高い顕仲です。
 神祇伯というのは神官たちを統率する役所の長官なので名家のお嬢様といえましょう。
 姉妹の顕仲女(重通妾)・大夫典侍・上西門院兵衛はいずれも勅撰歌人ですが、この堀河は当時、有数の女流歌人で西行とも親しい仲だったそうです。
 はじめは前斎院令子内親王(白河第三皇女。鳥羽院皇后)に仕えて六条と称されていましたが、やがて、待賢門院藤原璋子(鳥羽院中宮。崇徳院の母)に仕えて堀河と呼ばれるようになりました。
 この間に結婚をして子供が生まれましたが、まもなく夫が亡くなってしまいました。
 まだ幼い子供は父の顕仲の養子となり、堀河は宮仕えを続けました。
 康治元年(1142)には主の待賢門院璋子が落飾されたのでそれに従って出家し璋子と仁和寺に住んだそうです。

 待賢門院璋子という方は鳥羽天皇の中宮で崇徳天皇・後白河天皇の母君です。
 幼い頃に白河法皇の猶子となり、院御所で育てられました。白河法皇に寵愛されますが、法皇の孫の鳥羽天皇の皇后にさせられました。
 が、入内以降も白河法皇との関係は続き、第1皇子(崇徳天皇)は法皇の子であり、鳥羽天皇は「叔父子」と呼んで冷遇し、それが保元の乱の遠因となったのでした。
 白河法皇が亡くなると鳥羽天皇は寵愛していた得子の生んだ皇子を天皇にして崇徳を遠島に幽閉し、まもなく崇徳は死亡。
 それを悲しんで璋子は落飾したのです。

 崇徳院は歌檀を愛した方で、この当時の歌人達との交流が盛んでした。
 西行などは配流先へ崇徳院を訪ねていったほどでした。
 崇徳院が催された数多い歌会で堀河の歌才が花開いていったともいえましょう。

 八十番のこの歌は「百首歌奉りけり時恋の心をよめる」として『千載集』に出ています。
「あなたはずっと変わらないでいてくださるのでしょうか。私にはそれがわからなくてとても不安なんです。ゆうべは信じていました。でも、お帰りになってしまった今朝は、この乱れた黒髪のようにあれこれと心が乱れてなりません」
 恋する不安な気持ちがいじらしいほどに伝わってきますね。素敵な恋だったのでしょう。
 この当時の、女性の例通り生年月日や名前さえ不明ですが、堀河の場合は多くの歌が残されていますのでおぼろげながら足跡を辿ることができました。
 久安六年(1150)に奏覧された『久安百首』の作者に家集に『待賢門院堀河集』があり、勅撰集に六十七首も採られています。
 出家して、黒髪はなくなってしまいましたが歌は残って今も愛されているのですね。


付記
「待賢門院璋子の生涯」(角田文衛著 朝日選書)を読んで興味を覚え璋子が再建したという法金剛院へ行きました。数年前の梅雨の時期でした。蓮が咲き始めていました。ほかに参拝者もなく静寂そのもので尼寺らしい「花の寺」にふさわしい優美さに包まれていました。堀河も尼になってお仕えしたのでしょう。平安末期の浄土式庭園の遺構が1968年に発掘・復元されています。

        

      

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七十二番 ★★…紀伊…★★

2015-06-20 | 百人一首

祐子内親王家紀伊紀伊(生没年未詳)

音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖の濡れもこそすれ

 父は散位平経重(従五位上民部大輔平経方説もあり)で、母は歌人として名高い小弁の娘です。紀伊守藤原重経の妻とも妹とも言われています。兄が紀伊守(きのかみ)だったので紀伊(き)と呼ばれていました。
 また、母の小弁と同じく後朱雀天皇皇女高倉一宮祐子内親王家に出仕したので「祐子内親王家に仕える紀伊」というのが通称となっています。最初に出仕したのは後朱雀天皇の中宮嫄子(げんし…一条天皇の中宮 定子の孫)だったので「中宮の紀伊」と呼ばれていたのですが、嫄子中宮の娘の子祐子内親王に仕え、高倉邸に住んだので「高倉一宮紀伊」「一宮紀伊」などとも呼ばれていました。
 祐子内親王の後見の藤原頼道(藤原道長の子で摂政・関白・太政大臣も務めた)だったので、一宮家は繁栄しており、歌合せはなどの行事が度々盛大に度々行われたようです。
 この歌は「堀河院御時 艶書合によめる」の詞書があります。
 つまり、康和4年(1102)に開催された堀川院の艶書合わせの歌会で、返事として詠んだ「返し」の歌です。
 艶書合わせの歌会と聞くと隠微な響きがありますが、いわばラブレターとしての歌の読み方講習会のようなものでしょう。
 この場で中納言俊忠(藤原俊成の父)が
      人知れぬ思ひありその浦風に 波のよるこそいはまほしけれ
…人は知らないでしょうが、恋に悩んでいますので風に寄る波のように、貴方の元へ通いたいものだ…と歌ったのに対しての返歌です。
 「噂に高い、高師の浜にむなしく寄せ返す波にはかからないようにしておきましょう。袖が濡れてしまうだけですからね」=「浮気者だと噂に高いあなたの言葉なぞ、心にかけずにおきましょう。後で涙にくれて袖を濡らすだけでしょうから」という意味です。
 この時、俊忠は29歳で紀伊は70歳くらいだったということで、紀伊のその感性の瑞々しさには驚かせられます。
 勿論、本気での恋歌ではなくあくまでも文学上でのやりとりなのです。
 「艶書合せ」では現実とは関係なく男性が言い寄って、それを女性がはねつけるというあんうんの形式があったようです。
 平安王朝も末期になるにつれて歌の方も万葉集にみられたような精神的な希求が消えて技巧を競うようなゲーム化していったのでしょうか。しかし、それはそれで倦怠味を帯びた華やかな王朝文化が感じられるものです。

 この歌の舞台となった和泉国高師浜は、今の大阪府堺市浜寺か高石市におよぶ一帯です。
 昭和の半ば頃までは関西の風光明媚な別荘地でした。現在では残念ながら埋め立てが進み、かっての風情はありませんが、高級住宅地の一角には仄かに漂うものもあります。

 紀伊は当時の歌人として有名で、種々の歌会の記録に名前を残したほか『堀河院百首』の作者でもあり『一宮紀伊集(祐子内親王家紀伊集)』の家集があります。
 私生活については殆ど記録が発見されていませんが、この高師浜の歌が70歳くらいの頃のものであるならかなりの長命で雅に心豊かな生涯を過ごしたことと思われます。

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六十七番 ★★…周防内侍… ★★

2015-06-15 | 百人一首
周防内侍(生没年不詳)

六十七番  春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ
 
 父は和歌六人党の一人、従五位上周防守平棟仲で、母は加賀守従五位下源正?の娘で後冷泉院女房、小馬内侍と称された人です。
 金葉集に歌が残っている比叡山の僧の僧忠快は兄にあたります。
 父の周防守は現在の山口県の東半分の県知事のようなものです。
 本名は仲子ですが、父の官職名から周防内侍(すおうのないし)と呼ばれていました。
 年頃になって後冷泉天皇代に出仕しましたが、治暦四年(1068)四月に天皇が崩御されたので退官しました。
 が、後三条天皇が即位されると請われて再出仕したようです。
 その後も白河・堀河朝にわたって宮仕えを続け、掌侍正五位下に至りました。
 天仁二年(1109)頃、病のため出家し、ほどなく、没したようです。七十余歳くらいとされています。

 この67番の歌の詞書には「如月ばかり月あかき夜、二条院にて人々あまたゐあかして 物語などし侍りけるに内侍周防よりふして 枕をがなと忍びやかに いふを聞きて、大納言忠家 これを枕にとて かひなを御簾の下より差し入れて侍りければ詠み侍りける」とあります。
 如月つまり二月(陰暦ですから、今では三月)の月が明るい夜のことです。
 関白教道の邸で女房達が語り明かしていた時、周防内侍が横になりたくなって「枕が欲しいわね」と呟きました。
 すると「これをどうぞ」と御簾の下から腕が出てきました。大納言藤原忠家でした。腕枕してあげようというのです。
 驚いた周防内侍がこの時に返事をしたのがこの歌です。
「短い春の夜のはかない夢に誘われて、ついあなたの手枕をお借りしたりしますと、きっとつまらない噂が立つことでしょう。それが私には困るのです」ということでしょうか。
 これに対して、忠家は
     契りありて春の夜ふかき手枕を いかがかひなき夢になすべき
 と即座に返歌を返してきました。
 前世からの約束ですのに、どうしてはかない夢にしてしまいましょうか。私は真剣なんですよ」と忠家さんも見事に返歌を返していますが、巧みさに関して多くは周防内侍に軍配があげられています。
 いうまでもなく「腕(かいな)」が「かひなく」として双方の歌に歌いこまれています。

 周防内侍の私的な情報はあまり伝わっていませんが、女房三十六歌仙の一人でした。 
 寛治七年(1093)の郁芳門院根合、嘉保元年(1094)の前関白師実家歌合、康和二年(1100)の備中守仲実女子根合、同四年の堀河院艶書合などに出詠しており、勅撰入集36首で、家集に『周防内侍集』があります。
 平安王朝の末期を代表する女流歌人だったといえましょう。
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六十五番☆☆… 相 模 …☆☆

2015-06-11 | 百人一首
相模(998?~1068?)

    恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋にくちなむ名こそ惜しけれ

 
 源頼光(よりみつ)の娘、もしくは養女と言われてます。
 相模守の大江公資(きみより)の妻となり任国へ一緒に行ったので、相模と呼ばれるようになりました。
 赤染衛門、紫式部と並ぶ女流歌人として高く評価されています。
 しかし実生活では悩みが多く、公資と別れた後、権中納言藤原定頼(さだより)や源資道(すけみち)と恋愛しましたが上手くいきませんでした。
 歌人としての評価を固めました。
 相模という女性も、結婚生活がうまくいかず悩みぬいた人であるらしく、この歌には実感がこめられています。
 夫と一緒に相模国(現在の神奈川県)に下り、箱根権現に百首歌を奉納しましたが、それらの歌の中には嘆き悲しむ歌が多かったということです。
 また、子を願う歌も多かったそうで、夫との不仲の原因もそこにあるのかもしれません。
 果して同年相模から帰京した後、公資との仲は破綻を迎えたらしく、藤原定頼(さだより)などからたびたび求愛を受けています。
 ところが、のちに公資は遠江守として赴任する際、別の女性を伴って行きました。
 とはいえ、悲しい歌ばかりではなく、非常に艶のある秀歌も数多く詠んでいる名人でもあります。
 百人一首の撰者・藤原定家は相模の恋歌が好きで、定家撰の歌集には彼女の歌が多く採用されています。

 やがて一条天皇の第一皇女である脩子内親王(996-1049)のもとに出仕し、歌人としての名声も高まり、脩子内親王の没後は入道一品宮祐子内親王(1038-1105。後朱雀天皇の第三皇女)の女房として仕えました。
 和泉式部・能因法師・源経信ら歌人との幅広い交流をもちましたが、康平四年の「祐子内親王家名所歌合」への出詠を最後に消息は途絶えています。



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