小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

万葉女性歌人 磐姫皇后

2013-12-23 | 万葉集
磐姫皇后(いわのひめおおひさきです)生没年未詳。

仁徳天皇のお后です。朝廷で一番の実力者だった葛城襲津彦の娘で、臣下からお后になった最初の女性であるとされています。良い意味での庶民性を持っていて現代に生きる私たちにも親しみやすいキャラクターのようです。仁徳天皇といえば有名なエピソードがありますね。丘の上から村落を眺めて竈の煙が少ないは食べるものがないのだろうと心配して3年間税金を免除したという伝説です。収入が途絶えた為に宮殿(どんな住まいでも天皇の居られる場所をいいます)は傷んでも修理もできずで、このお后さまは「雨漏りがしてわたしの衣も濡れてしまったじゃないの!」と天皇に詰め寄ったとか。こんなおきゃんさに手を焼いたものの天皇はこの后が可愛かったようです。

仁徳天皇はしかしとても女性が好きだったとものの本には書いてあります。
子供作りという大義名分もありましたが、そればかりではなかったのでしょう。
浮気がばれる度に宮殿では大騒動が起こりました。そう、この后は大変なやき餅焼きだったのです。 古事記にも「足もあがかに嫉妬(ねた)み給ひき」と書かれてます。つまり地団駄を踏んで「くやしい~!」と泣き叫んだのかもしれません。

       秋の田の穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞 何方(いずへ)の方にわが恋ひやまむ

  《意味》秋の田の上にかかっている朝霞をぼうっと見ていたら、この霞はお昼になればどこかへ消えていってしまうけれど、私の苦しい恋もこも霞のように消えてしまって欲しいのに、深く心に染みこんでいて、到底、消えてくれそうにない。困ったものよ。

恋の多い旦那様にいつも心穏やかでなく強くジェラシーの炎で闘っていた盤姫ですが、遂に切れてしまいました。磐姫が紀の国(多分、温泉でしょう)に行っていた留守に、仁徳が若く美しい八田皇女を宮中に入れてしまったのです。それを知った磐姫は、帰りに難波津で仁徳と落ち合うことになっていたのですが、難波津に船を着けさせませんでした。夫に待ちぼうけを食わせたのです。なんとも痛快ですね。
磐姫は木津川をさかのぼって山城国から大和に入ったところで船を停めさせました。ところが、迎えに来てる筈の夫の姿が見えず待っていたのは使いの者でした。まあ、それで、切れたのでしょうね。
自分が待ちぼうけをさせておいてとも思いますが、なにしろ、留守宅に若い女を引き入れてるのですから、わからないでもないですね。むっときた磐姫は「わたくしは帰りません!」と言い、それでも那羅山を越えるのだが、そこから懐かしい生家のある葛城山が見えて、修羅場には帰りたくないと思ったのでしょうか、山城まで引き返してしまいました。そこに自分だけの宮殿を造って住みついてしまったのです。



      つぎふね 山背河を 宮のぼり 我が登れば 青丹よし 那羅をすぎ
         小楯倭をすぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我が家のあたり


そのときの心情が歌われた長歌です。夫恋しさに那羅山までは戻ってきたけれど、やっぱり、許せないわ…ああ、何も知らずに楽しかった頃を過ごした実家があそこに見える…私はあの頃のように穏やかに暮らしたい…といったような意味でしょうか。
さあ、困ったのは天皇です。正妃が帰ってこないのですから都合の悪いことも多々あったのでしょう。詫びを入れ、帰っておくれと迎えに行きますが「八田が居る限り帰りません!」と顔も見せません。
仁徳は磐姫が生んだ皇子(履中天皇)を皇太子に立てましたが、この最後の手段も磐姫の心を動かすことができなかったということです。その五年後の仁徳35年に夫に会うこともないまま磐姫はこの世を去りました。



      ありつつも君をば待たむ打ち靡く わが黒髪に霜のおくまで

この歌は解釈の必要もないほど切ない思いが伝わってきますね。通説としては「嫉妬深い女」と語り継がれてきているのですが、こんなに夫を深く愛し、待ち続けていた人だったのです。しかも、その哀しさに耐え毅然と筋を通した気概に感動を誘われます。

世界で一番大きなお墓を持っている仁徳天皇ですが后の磐姫は那羅山(奈良市佐紀町)に葬られました。


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万葉集って

2013-12-20 | 万葉集

みんな一度は習ってきた萬葉集。
何首くらいの歌を覚えていらっしゃるでしょうか。
また、ご贔屓の作者はおられましたでしょうか。
ここでは、ごく簡単に「萬葉集」の説明をしましょう。

〈 名前の由来〉
5つの説がありますが「万(よろず)の言の葉を集めた」の意であるとの説が有力です。

〈成り立ち〉
いつ、誰によって編纂されたかという動かぬ証拠はまだありませんが、 大伴家持説が有力となっています。編者は「古事記」「日本書紀」「古歌集」 「柿本朝臣人麿歌集」「笠朝臣金村歌集」「高橋連虫麿歌集」などを参考にして 編纂したのではないかと言われています。

 〈収録された歌の数〉
   全二〇巻
   短歌…四一七三首
   長歌………二六二首
   旋頭歌………六一首
  合計……四四九六首

 〈収録されている時代〉
仁徳天皇の時代(五世紀前半)~天平宝宇(七五九)までのおよそ四〇〇年間に亘ってます。このうち斉明天皇から淳仁天皇にいたる十一代、約一〇〇年間に作られたものが大部分です。

最古の歌…16代仁徳天皇の皇后、磐姫皇后(いわのひめのおおきさき)
    「君が行きけ長くなりぬ山尋ね 迎へか行かむ待ちにか待たむ」
最新の歌…27代淳仁天皇の天平宝字3年正月1日(759年)の大伴家持
     「新しき年の始(はじめ)は初春の 今日ふる雪の いや重け吉事」

 〈時代の区分と作者たち〉

   第一期  成立期<大化飛鳥時代>
   舒明元年(629年)から壬申の乱(672年)の44年間。
   代表歌人には、天智天皇、天武天皇、持統天皇、額田王など。

   第二期  完成期<藤原京時代>
    壬申の乱以降(673年)から奈良遷都(710年)の38年間…
    代表歌人には、柿本人麿、高市黒人、大伯皇女、石川郎女など。

   第三期  展開期<奈良朝前期>
    奈良遷都以降(711年)から天平5年(733年)の22年間。
    代表歌人には大伴旅人、山上憶良、山部赤人、高橋虫麿など。

   第四期  衰退期<奈良朝中期>
    天平6年(734年)から天平宝字3年(759年)の25年間。
    代表歌人には大伴家持、田辺福麿、狭野弟上娘子、笠女郎など。


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挫折しました

2013-12-12 | 環境

白内障の手術が終わりました。
空がこんなに美しかったのかと感動してます。
その一方で、焦点の合わせ方がなかなか難しくて慣れません。
今までのメガネは使用しないようにと言われてますが、かけないとPCの画面が読めません。
目下、処方箋に合わせたメガネが出来上がるのを待っています。

手術が終わってヤレヤレと一息ついていたらパソコンが突然に起動しなくなりました。
壊れてしまったのです。ほんとに突然でした。

新しいパソコンを作ってもらうのに10日間。
セッティングが終わったパソコンはピカピカしてます。
モニターは27?横広がりで作業もしやすそう。
そうワクワクしたのも束の間。
ファイルが全滅!!
バックアップの大切さに身が削られます。
小梅さんの日記もすべて消失し、何かがぷツンと切れて書き続けていく気力も消えました。
PCをこれから育てていかなければなりません。
不細工ながら江戸末期から明治22年まで生きて日本の大きな変革を紀州の地から眺め教養ある女性の目で描いた小梅さんの日記は素晴らしい宝だと共に体験したくてこんな無謀なことを始めてしまいましたが、死ぬまでに三冊(それでも一部だそうです)の日記を現代文に書き直すことは不可能でしょう。背景を調べ、単語や人間関係を把握するのも難しすぎました。

くだくだ書きましたが、早い話がギブアップします。
テンプレも変えて新しく出直すことにしました。
長いあいだ、訪ねてくださったみなさま、ありがとうございました。
また、よろしくお願いします。

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