磐姫皇后(いわのひめおおひさきです)生没年未詳。
仁徳天皇のお后です。朝廷で一番の実力者だった葛城襲津彦の娘で、臣下からお后になった最初の女性であるとされています。良い意味での庶民性を持っていて現代に生きる私たちにも親しみやすいキャラクターのようです。仁徳天皇といえば有名なエピソードがありますね。丘の上から村落を眺めて竈の煙が少ないは食べるものがないのだろうと心配して3年間税金を免除したという伝説です。収入が途絶えた為に宮殿(どんな住まいでも天皇の居られる場所をいいます)は傷んでも修理もできずで、このお后さまは「雨漏りがしてわたしの衣も濡れてしまったじゃないの!」と天皇に詰め寄ったとか。こんなおきゃんさに手を焼いたものの天皇はこの后が可愛かったようです。
仁徳天皇はしかしとても女性が好きだったとものの本には書いてあります。
子供作りという大義名分もありましたが、そればかりではなかったのでしょう。
浮気がばれる度に宮殿では大騒動が起こりました。そう、この后は大変なやき餅焼きだったのです。 古事記にも「足もあがかに嫉妬(ねた)み給ひき」と書かれてます。つまり地団駄を踏んで「くやしい~!」と泣き叫んだのかもしれません。
秋の田の穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞 何方(いずへ)の方にわが恋ひやまむ
《意味》秋の田の上にかかっている朝霞をぼうっと見ていたら、この霞はお昼になればどこかへ消えていってしまうけれど、私の苦しい恋もこも霞のように消えてしまって欲しいのに、深く心に染みこんでいて、到底、消えてくれそうにない。困ったものよ。
恋の多い旦那様にいつも心穏やかでなく強くジェラシーの炎で闘っていた盤姫ですが、遂に切れてしまいました。磐姫が紀の国(多分、温泉でしょう)に行っていた留守に、仁徳が若く美しい八田皇女を宮中に入れてしまったのです。それを知った磐姫は、帰りに難波津で仁徳と落ち合うことになっていたのですが、難波津に船を着けさせませんでした。夫に待ちぼうけを食わせたのです。なんとも痛快ですね。
磐姫は木津川をさかのぼって山城国から大和に入ったところで船を停めさせました。ところが、迎えに来てる筈の夫の姿が見えず待っていたのは使いの者でした。まあ、それで、切れたのでしょうね。
自分が待ちぼうけをさせておいてとも思いますが、なにしろ、留守宅に若い女を引き入れてるのですから、わからないでもないですね。むっときた磐姫は「わたくしは帰りません!」と言い、それでも那羅山を越えるのだが、そこから懐かしい生家のある葛城山が見えて、修羅場には帰りたくないと思ったのでしょうか、山城まで引き返してしまいました。そこに自分だけの宮殿を造って住みついてしまったのです。
つぎふね 山背河を 宮のぼり 我が登れば 青丹よし 那羅をすぎ
小楯倭をすぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我が家のあたり
そのときの心情が歌われた長歌です。夫恋しさに那羅山までは戻ってきたけれど、やっぱり、許せないわ…ああ、何も知らずに楽しかった頃を過ごした実家があそこに見える…私はあの頃のように穏やかに暮らしたい…といったような意味でしょうか。
さあ、困ったのは天皇です。正妃が帰ってこないのですから都合の悪いことも多々あったのでしょう。詫びを入れ、帰っておくれと迎えに行きますが「八田が居る限り帰りません!」と顔も見せません。
仁徳は磐姫が生んだ皇子(履中天皇)を皇太子に立てましたが、この最後の手段も磐姫の心を動かすことができなかったということです。その五年後の仁徳35年に夫に会うこともないまま磐姫はこの世を去りました。
ありつつも君をば待たむ打ち靡く わが黒髪に霜のおくまで
この歌は解釈の必要もないほど切ない思いが伝わってきますね。通説としては「嫉妬深い女」と語り継がれてきているのですが、こんなに夫を深く愛し、待ち続けていた人だったのです。しかも、その哀しさに耐え毅然と筋を通した気概に感動を誘われます。
世界で一番大きなお墓を持っている仁徳天皇ですが后の磐姫は那羅山(奈良市佐紀町)に葬られました。
仁徳天皇のお后です。朝廷で一番の実力者だった葛城襲津彦の娘で、臣下からお后になった最初の女性であるとされています。良い意味での庶民性を持っていて現代に生きる私たちにも親しみやすいキャラクターのようです。仁徳天皇といえば有名なエピソードがありますね。丘の上から村落を眺めて竈の煙が少ないは食べるものがないのだろうと心配して3年間税金を免除したという伝説です。収入が途絶えた為に宮殿(どんな住まいでも天皇の居られる場所をいいます)は傷んでも修理もできずで、このお后さまは「雨漏りがしてわたしの衣も濡れてしまったじゃないの!」と天皇に詰め寄ったとか。こんなおきゃんさに手を焼いたものの天皇はこの后が可愛かったようです。
仁徳天皇はしかしとても女性が好きだったとものの本には書いてあります。
子供作りという大義名分もありましたが、そればかりではなかったのでしょう。
浮気がばれる度に宮殿では大騒動が起こりました。そう、この后は大変なやき餅焼きだったのです。 古事記にも「足もあがかに嫉妬(ねた)み給ひき」と書かれてます。つまり地団駄を踏んで「くやしい~!」と泣き叫んだのかもしれません。
秋の田の穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞 何方(いずへ)の方にわが恋ひやまむ
《意味》秋の田の上にかかっている朝霞をぼうっと見ていたら、この霞はお昼になればどこかへ消えていってしまうけれど、私の苦しい恋もこも霞のように消えてしまって欲しいのに、深く心に染みこんでいて、到底、消えてくれそうにない。困ったものよ。
恋の多い旦那様にいつも心穏やかでなく強くジェラシーの炎で闘っていた盤姫ですが、遂に切れてしまいました。磐姫が紀の国(多分、温泉でしょう)に行っていた留守に、仁徳が若く美しい八田皇女を宮中に入れてしまったのです。それを知った磐姫は、帰りに難波津で仁徳と落ち合うことになっていたのですが、難波津に船を着けさせませんでした。夫に待ちぼうけを食わせたのです。なんとも痛快ですね。
磐姫は木津川をさかのぼって山城国から大和に入ったところで船を停めさせました。ところが、迎えに来てる筈の夫の姿が見えず待っていたのは使いの者でした。まあ、それで、切れたのでしょうね。
自分が待ちぼうけをさせておいてとも思いますが、なにしろ、留守宅に若い女を引き入れてるのですから、わからないでもないですね。むっときた磐姫は「わたくしは帰りません!」と言い、それでも那羅山を越えるのだが、そこから懐かしい生家のある葛城山が見えて、修羅場には帰りたくないと思ったのでしょうか、山城まで引き返してしまいました。そこに自分だけの宮殿を造って住みついてしまったのです。
つぎふね 山背河を 宮のぼり 我が登れば 青丹よし 那羅をすぎ
小楯倭をすぎ 我が見が欲し国は 葛城高宮 我が家のあたり
そのときの心情が歌われた長歌です。夫恋しさに那羅山までは戻ってきたけれど、やっぱり、許せないわ…ああ、何も知らずに楽しかった頃を過ごした実家があそこに見える…私はあの頃のように穏やかに暮らしたい…といったような意味でしょうか。
さあ、困ったのは天皇です。正妃が帰ってこないのですから都合の悪いことも多々あったのでしょう。詫びを入れ、帰っておくれと迎えに行きますが「八田が居る限り帰りません!」と顔も見せません。
仁徳は磐姫が生んだ皇子(履中天皇)を皇太子に立てましたが、この最後の手段も磐姫の心を動かすことができなかったということです。その五年後の仁徳35年に夫に会うこともないまま磐姫はこの世を去りました。
ありつつも君をば待たむ打ち靡く わが黒髪に霜のおくまで
この歌は解釈の必要もないほど切ない思いが伝わってきますね。通説としては「嫉妬深い女」と語り継がれてきているのですが、こんなに夫を深く愛し、待ち続けていた人だったのです。しかも、その哀しさに耐え毅然と筋を通した気概に感動を誘われます。
世界で一番大きなお墓を持っている仁徳天皇ですが后の磐姫は那羅山(奈良市佐紀町)に葬られました。