小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

☆☆五十七番… 紫式部 …☆☆

2014-12-29 | 百人一首
五十七番… 紫式部 …(973~1019?)

めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに 雲がくれにし夜半の月影

 紫式部は『源氏物語』の作者としてあまりにも有名です。
紫式部は天延元年(973)に平安中期の中流貴族の次女として生まれました。父は為時、母は為信の女。この藤原家は学者の家柄であり父の為時は文人としても優れ、花山天皇の幼時時代には学問の師で花山天皇即位に際して式部大丞に任ぜられました。ところが、その2年足らずで花山天皇が道兼らの策謀により出家させられてしまった為に不遇時代を過ごすことになったようです。弟が二人に姉が一人いました。

 紫式部という名は官職名。『源氏物語』の「紫上」から《紫》を父が式部の丞であったことの《式部》を合わせて《紫式部》と呼ばれるようになったと伝えられています。本名は例によって不明ですが、一説には《香子》説が有力です。
紫式部は『源氏物語』のほか『紫式部日記』『紫式部集』などが残っていますのでその生涯を辿る手助けになるでしょう。
父が兄に『史記』や『白氏文集』などの漢籍を教えているのを傍で聞いていて頭のいい式部が覚えてしまい「この子が男のであったらなあ」と為時はため息をついたそうです。こうして、母を早くに亡くしたものの教養高い女性として育っていきました。

 式部には同性の友だちが多かったようです。歌人には恋の遍歴を重ねる人が多いのですが、同性から信頼されるということは情操を豊かに育み、一方では、理性的な視線で周囲を見やる目をも培われていったと思われ、『源氏物語』のような長編を書くことができたのでしょう。
 この57番の歌では久しぶりに逢ったのに幼なじみの友だちがはやばやと帰ってしまったと寂しがっています。
もし…早くよりわらは友だちに侍りける人の、年ごろ経てゆきあひたる、ほのかにて、文月十日ごろ、月にきほひて帰り侍りければ…という前書きが書かれていなければ恋の歌と後世の人には受け取られたのではないかと思うと式部のおちゃめな面を垣間見られたような気がします。「わらは友だち」は女友だちのことを言うのです。

 二十六歳で同じ中流貴族であり又従兄弟の藤原宣孝と結婚して一女をもうけます。
 当時としては晩婚ですが幾つもの恋をしたのでしょうか。
 この一女が賢子で58番の歌の作者の大弐三位です。
 娘も生まれ落ち着いた暮らしが始まるかに見えましたが三年も経たない内に夫の宣孝が急逝してしまいました。この時式部は二十九歳でした。
 式部の悲しみは深く、時には絶望的にもなり、この深い苦悩も人間の生きざまをありのままにみつめた『源氏物語』を描く原動力になったのでしょう。その筆を起こしたのも悲しみを忘れるため。
 式部が時の権力者藤原道長に乞われて娘である一条天皇の中宮彰子のもとへ出仕するようになったのは夫の死から五年後のことでした。道長も『源氏物語』の愛読者でその教養の深さから娘の家庭教師に是非にと望んだと思われます。           ところが、生真面目で内省的な式部には内裏の雰囲気が肌に合わなかったのか 三日で実家(弟邸)に逃げ帰ります。道長から再三の迎えがやってきてようやく一年後に覚悟を決めて出仕したのです。
 道長は彰子に天皇の子供を産ませなければと焦っていました。ライバルの定子中宮が皇子を生んでいたので、彰子に皇子が生まれないと権力構図の上から困るのです。一条天皇も愛読されている『源氏物語』の作者の式部を彰子につけることによって娘の元にお越しいただこうということでしょう。言うまでもなく定子にはあの清少納言がお側についていました。
道長の願いは叶えられ彰子は二人の皇子を生み共に天皇に即位しますが、式部が出仕していた頃は定子側の方がずっと華やかだったようです。

 『源氏物語』は寛仁二年、中宮彰子のもとで宮仕えを始めてからも書き続けられ、同七年頃には完成していたと思われます。式部は一条天皇が崩御した後に里へ下がり、やがて出家し娘の賢子に看取られてこの世を去って逝きました。穏やかな晩年だったといえましょう。

 精神的に男勝りだった式部ですが、やはり、愛した人がいたと推察もされています。一人目は具平親王という式部には又従兄に当たる村上天皇の皇子です。親王は康保元(964)年生まれで式部よりかなり年上でしたが漢詩や和歌に秀でていて、学者である父や伯父で歌人の為頼とも非常に親しかったので式部が接触するこも少なくなく初恋の人であってもおかしくありません。しかし、具平親王とはあまりにも身分の隔たりが大きく結ばれるまでには至らなかったのでしょう。 
 夫の宣孝も求婚されたときは既に四十代で妻子も何人もありました。息子が式部と同じ年だったそうですから式部がなかなかその気にならなかったのも頷けます。それでも結婚して心を開き始めたものの三年足らずで
死なれてしまうのです。
 藤原道長とも道長が式部を執拗に出仕させたことなどから恋愛関係にあったのではないかという説があります。賛同派、反対派と意見が種々飛び交っています。従兄の藤原道経説もあります。式部は文学的教養のない人は受け入れられなかったようでお相手も限られてくるのでしょう。その点、道経は恋の相手にふさわしい人だったのかもしれません。まだまだ、これから解き明かされていくことが多く、今後が待たれます。
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