(976?~1030?)
あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの遭ふこともなが
恋多き、波乱の人生を送った女流歌人です。
父は越前守大江雅致(まさむね)、母は越中守平保衡(やすひら)の娘です。母が仕えていた冷泉院皇后の昌子内親王の宮で育ち、父の片腕であった橘道貞と結婚して、小式部内侍を儲けました。父の官名から「式部」、夫橘道貞の任国和泉から「和泉式部」と呼ばれるようになりました。
歌人として若いときから名前が知られていました。昌子中宮の病気見舞いに来られた冷泉院第三皇子の為尊親王がそんな式部に一目惚れしました。五歳ほど年下の貴公子でしたが二人は激しい恋に落ちます。夫の道貞は宮中での二人の噂を耳にして式部を離縁しました。父も怒って勘当します。
式部にとっては恋人がすべてでした。ところが、恋人は二年ほどで夭折してしまいました。悲しみにくれていた式部を慰めたのが為尊の弟君の敦道親王でした。やがて若い敦道は式部に夢中となって自分の邸に彼女の部屋を作るほどでした。その為にお后が腹を立てて出て行くという一幕もあったそうです。
式部には男心を魅きつける天性の何かがあったのかもしれません。後に恋人として源雅道(藤原道長の妻である源倫子の甥)源俊賢(源高明の息子)藤原隆家(中宮定子の弟)源頼信(夫保昌の甥)藤原道綱、道命阿闍梨(道綱の息子)藤原信経(越後守)藤原定頼(藤原公任の息子)等の名があがっています。
百人一首に採られたこの歌…わたしはもうすぐこの世からいなくなるかもしれない。せめてこの世の思い出としてせめてもう一度あなたにお逢いしたい…のようなものを贈られたら、どんなに愛しく思うことでしょう。
この敦道親王も四年後のには男の子を一人残して亡くなってしまいます。二十七歳の若さでした。『和泉式部日記』は敦道親王との恋の軌跡を書いたもので、他にもたくさんの死を悼む歌を作っています。
すてはてむと思ふさえこそ悲しけれ 君に馴れにし我ぞと思へば
黒髪のみだれもしらずうち臥せば まづかきやりし人ぞ恋ひしき
喪が明けると道長の声がかかって、一条天皇の中宮彰子(藤原道長女)のもとに出仕をします。成人していた娘の小式部内侍も一緒だったと推測されています。中宮彰子といえばそのサロンの華やかさは源氏物語そのままで、紫式部や赤染衛門も同僚として仕えていました。
式部は道長が信をおいている家臣の藤原保昌と再婚します。道長のお声がかりのことでした。五十を過ぎた穏和な保昌について大和や丹後に赴任してゆきました。これが、小野小町と同じように全国各地に式部伝説が生まれる素地になっています。
やっと平穏な日常に身を置くことの出来た式部でしたが、愛する一人娘の小式部に先立たれるという不幸に出会います。没年は不明ですが最後まで保昌と共に暮らしたのではないでしょうか。
なお、敦道との間の男子は出家して永覚を名のったと『紹運録』に出ています。
中古三十六歌仙の一人で、家集も「和泉式部集」(正集)「和泉式部続集」のほか、宸翰本・松井本などと呼ばれる略本(秀歌集)があります。ほかに「和泉式部日記」も有名ですね。『勅撰二十一代集』に二百四十余首を入集していて、まさに名実共に王朝時代随一の女流歌人であったといえましょう。
恋多き、波乱の人生を送った女流歌人です。
父は越前守大江雅致(まさむね)、母は越中守平保衡(やすひら)の娘です。母が仕えていた冷泉院皇后の昌子内親王の宮で育ち、父の片腕であった橘道貞と結婚して、小式部内侍を儲けました。父の官名から「式部」、夫橘道貞の任国和泉から「和泉式部」と呼ばれるようになりました。
歌人として若いときから名前が知られていました。昌子中宮の病気見舞いに来られた冷泉院第三皇子の為尊親王がそんな式部に一目惚れしました。五歳ほど年下の貴公子でしたが二人は激しい恋に落ちます。夫の道貞は宮中での二人の噂を耳にして式部を離縁しました。父も怒って勘当します。
式部にとっては恋人がすべてでした。ところが、恋人は二年ほどで夭折してしまいました。悲しみにくれていた式部を慰めたのが為尊の弟君の敦道親王でした。やがて若い敦道は式部に夢中となって自分の邸に彼女の部屋を作るほどでした。その為にお后が腹を立てて出て行くという一幕もあったそうです。
式部には男心を魅きつける天性の何かがあったのかもしれません。後に恋人として源雅道(藤原道長の妻である源倫子の甥)源俊賢(源高明の息子)藤原隆家(中宮定子の弟)源頼信(夫保昌の甥)藤原道綱、道命阿闍梨(道綱の息子)藤原信経(越後守)藤原定頼(藤原公任の息子)等の名があがっています。
百人一首に採られたこの歌…わたしはもうすぐこの世からいなくなるかもしれない。せめてこの世の思い出としてせめてもう一度あなたにお逢いしたい…のようなものを贈られたら、どんなに愛しく思うことでしょう。
この敦道親王も四年後のには男の子を一人残して亡くなってしまいます。二十七歳の若さでした。『和泉式部日記』は敦道親王との恋の軌跡を書いたもので、他にもたくさんの死を悼む歌を作っています。
黒髪のみだれもしらずうち臥せば まづかきやりし人ぞ恋ひしき
喪が明けると道長の声がかかって、一条天皇の中宮彰子(藤原道長女)のもとに出仕をします。成人していた娘の小式部内侍も一緒だったと推測されています。中宮彰子といえばそのサロンの華やかさは源氏物語そのままで、紫式部や赤染衛門も同僚として仕えていました。
式部は道長が信をおいている家臣の藤原保昌と再婚します。道長のお声がかりのことでした。五十を過ぎた穏和な保昌について大和や丹後に赴任してゆきました。これが、小野小町と同じように全国各地に式部伝説が生まれる素地になっています。
やっと平穏な日常に身を置くことの出来た式部でしたが、愛する一人娘の小式部に先立たれるという不幸に出会います。没年は不明ですが最後まで保昌と共に暮らしたのではないでしょうか。
なお、敦道との間の男子は出家して永覚を名のったと『紹運録』に出ています。
中古三十六歌仙の一人で、家集も「和泉式部集」(正集)「和泉式部続集」のほか、宸翰本・松井本などと呼ばれる略本(秀歌集)があります。ほかに「和泉式部日記」も有名ですね。『勅撰二十一代集』に二百四十余首を入集していて、まさに名実共に王朝時代随一の女流歌人であったといえましょう。