小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

11月25日  結願高野山

2016-12-22 | 四国遍路
11月25日  結願高野山

晴天、風冷たし。
名残の紅葉を見に行こうと夫が高野山へ連れて行ってくれた。ありがたや。
これで結願報告を年内にできる!
高野山には何度も行っているがこんな風にお詣り主眼では初めてだ。
8時に家を出て9時半に大門到着。近くの駐車場に入れた。ここは無料駐車場が多い。ありがたや。





真言宗総本山 高野山
ご詠歌 ありがたや高野の山の岩かげに 大師はいまだ おわしますなる
(金剛流ご詠歌がたくさんある)
本尊 大日如来 弘法大師
高野山は、和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する。平安時代の弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)、大本山宝寿院のほか、子院が117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。
2004年(平成16年)7月7日、高野山町石道と金剛峯寺境内(6地区)、建造物12件が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。.wikipediaより)
金剛峯寺は高野山真言宗の総本山。












壇上伽藍
一般寺院での本堂の区画にあたる。国の史跡であり世界遺産でもある。弘法大師が曼荼羅の思想に基づいて創建した密教伽藍の総称であり、奥の院と共に高野山の二大聖地の一つ。金堂は高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわれる。ほかに大塔、御影堂、不動堂などが立ち並んている。紅葉が少し残っていたし、十月桜も咲いていた。
奥の院
国の史跡・世界遺産。空海の御廟と灯籠堂がある。参道には、皇室、公家、大名などの墓が多数並び20万基以上はあると言われている。戦国大名の6割以上の墓所があり、シロアリの墓標まである。実家のお墓も有るはずで幼い頃に連れてこられたように思うけれど古老がみんな鬼籍に入ってしまったので場所を聞く人がいない。奥の院の入り口は一の橋と中の橋の2箇所があるが、正式には一の橋から参拝する。一の橋からは撮影禁止となる。御廟までは約2km。






御廟は地下にあって順路がもうけられていた。ここは『弘法大師は今も生きている。高野山奥の院の御廟に座して1日2回の食事をとっているという場所。
さすがに凜とした空気が流れている。
奥の院の納経所の傍には水向地蔵が並んでいてお水をかけた。線香の煙が『時』のように流れている。
納経所で最後の御朱印をいただいた。「結願ですね。おめでとうございます」と言われた時にはふいに涙がこぼれそうになった。言葉の重みを思う。








高野山には無数の寺院があって納経できるのは117もあるとか。ゆえに高野山専用の納経帳も売っていた。わたしの納経帳は金剛峯寺と奥の院だけで白い頁はなくなった。冒頭頁に御朱印をいただくと忘れ物がもどってきたような感じだ。
奥の院からの帰途、違う道筋を行くと無縁仏の山?があった。樹木葬とか共同墓地のはしりのように感じた。




それにしても高野山は広い。宿坊で二泊ほどしなければちゃんとは回れないだろう。大門から奥の院まで次々とバスがでている。勿論、乗らなかった。大門から往復とも歩いた。参拝後、昼食で精進料理を食べた。
また、高野山大学の学僧たちが巡拝に回っている姿も見られた。
お遍路は歩かないと出会わないこと、見られないことがたくさんあると改めて思う。
ちょっと寄り道して製造販売をしている胡麻豆腐を買った。ちゃんと保冷袋を持参していた。
15時半の帰宅だった。







コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月17日  鯖大師、なが~い帰路

2016-12-21 | 四国遍路 土佐(高知...
11月17日  鯖大師、なが~い帰路

奈半利駅 8:52
甲浦駅  11:41 (土佐交通バス)
        11:11 (阿佐海岸鉄道)
海部駅   11:22  
       12:33(JR牟岐線)
鯖瀬駅   12:43 
鯖大師   12:50  
鯖瀬駅   13:57
牟岐駅   14:02
牟岐駅   14:04
徳島駅   16:00
徳島港   16:30 (南海汽船)
和歌山港 18:35

6時起床。くろしお鉄道奈半利駅までママが送ってくれた。
モネの庭を勧められたがジベルニーのモネの庭に行っているのでパスした。
くろしお鉄道と土讃線の直通便だと高知まで2時間足らず。岡山経由新幹線と特急くろしおで5時間で和歌山到着だ。7,8時間かかる。遠いなあ。
今日は帰るだけなんだから「ぶらり旅」を楽しむか…というわけで徳島に向かうことにした。著名な番外寺の鯖大師に詣ることもできるかもしれない。


くろしお御免奈半利線の始発駅の奈半利駅は地域のコミュニティを兼ねているようで直売所などもあった。センターの前のベンチでバスを待つ。
一人しか乗っていないバスに乗る。室戸岬をぐるっと回って甲浦まで行くのだ。途中で集落に寄ってながらずうっと海辺を走る。時々お客さんが乗っては降りる。料金表が次々と変わっていく。終点の甲浦に着いたときは2640円だった。



甲浦の駅は可愛かった。やはり地域のコミュニティになってるのか。おばさんが二人(甲浦婦人会の方だとか)売店にいて乗車券を売ってくれた。
待ち時間で駅の周囲を歩いた。甲浦駅は阿佐海岸鉄道阿佐東線の駅で他の高知県内の駅と隣接していない飛地状態の駅となっている。甲浦、宍喰、海部の3駅しかない単式ホーム1面1線を有する高架駅である。室戸・奈半利方面へ延伸できるような構造となっているが国鉄が民営化した為に中断したままだ。駅舎は高架上にあってプラットホームから階段を降りた線路脇に設置されている。住んでみたい長閑さがあった。海部で次へ行く電車を1時間待つ。








海部も駅舎はコミュニティになっている。そこでお茶をしていた職員さん(海陽町の?)二人から紅茶とおせんべいをお摂待されながら観光の悩みを聞いた。安芸町が阪神のキャンプ場になって賑わってるような何かを模索しているようだ。サーフィンのメッカではあるがそれは一部だけらしい。
駅舎の外にある階段を登ってホームへ。この階段、かなり長くて急角度だから高齢者にはきついかも。
乗れば早い。鯖瀬までは10分。徒歩10分で鯖大師に着いた。






番外 八坂寺 鯖大師(さばだいし)
ご詠歌 かげだにも我名を知れよ一つ松 古今来世をすくひ導く
本尊 弘法大師
徳島県海部郡海陽町に所在する高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場番外札所、四国別格二十霊場四番札所、阿波七福神霊場・布袋尊札所である。通称は鯖大師本坊または鯖大師。
鯖大師と呼ばれる由縁はこの地を訪れた大師の伝説による。
伝説によれば大師が八坂八浜を訪れた際に塩鯖を馬に背負わせた馬子が通りがかかり、塩鯖を所望すると馬子は口汚くののしり断った。坂にさしかかったところで馬が急に苦しみ動かなくなった。慌てた馬子は先ほどの僧は巡錫中の大師に違いないと思い鯖を差し出し馬を治して欲しいと懇願した。大師が加持水を馬に与えると馬はたちまち元気になった、というもの。それに感服した馬子が小さなお堂を建てて大師を祀った。
空海が加持祈祷を行った海岸は鯖瀬(さばせ)と呼ばれている。
またサバは仏教語で鬼神等への供物を意味する「生飯(さば・さんばん)」が同音である鯖へと変化したものではないかと考えられている。
鯖大師伝説も民話に絡んだ行基伝説と混じって大師信仰の隆盛と共に行基から弘法大師へと移り変わっていったとの指摘もある。
泊めてくれなかったという衛門三郎や鯖をくれなかったからという大師伝説は好みじゃない。
ここに詣りたかったのは阿波の最後の名刹で会館も付属していて賑わっているらしいとたくさんのブログで読んだことに加えて大師が修行のために三年間鯖を絶ったという伝説に超人大師の人間くささを感じたから。








見事な鯖が飾られていた。しかし、境内は静か。ベンチでお遍路さんが一人横になって眠っていた。陽の光が降り注いでいる。本堂の山腹をくりぬいてつくられた全長88メートルの大洞窟に全国の都・道・府・県別にまつる万体不動尊奉安殿や護摩堂などもあるらしい。なんとなく集金の臭いがしてそれらはパス。誰もいない怖さもあったかも。

駅までゆっくりと戻る。駅傍の大福がおいしいと評判なのでおみやげに買うつもりだったが店は休みだった。国道を渡れば鯖瀬の海。浜辺を歩けば良かった。浜からお遍路さんが一人出てきて海部の方に去って行った。
電車の待ち時間は1時間。ホームでじいっと農家の庭で吠え続けている犬の声をきいていた。
牟岐に着くと向かい側に徳島行きの車両。なんと各駅停車だ(知ってたけど)。
お大師様の御心か。窓外に目をやり流れに流されるまま帰宅した。
南海汽船の甲板からは夕焼けがきれいだった。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月16日2 27番、善根宿

2016-12-20 | 四国遍路 土佐(高知...
11月16日2 27番、善根宿
唐浜駅で降りたのは二人。広く白い駅前広場。大きな道路の向こうに山が波打つように聳えている。あの山のてっぺんに神峯寺があるのだろう。しばらく景色を眺めていたが善根宿に電話を入れた。泊まれそうだ。宿までの道順を詳しく説明してくれるが、今はその前のことで頭がいっぱい。タクシーで行こうかと思うというとそれはいけない。片道だけでも歩かなければと叱られた。意を決して歩き出す。えんえんとアスファルトの登り道が続いている。何台もの車が横を走り抜けていく。なんでこんなことしてるんだろと又も思う。




途中に養鶏場があった。高知は闘鶏が有名でここに美しいシャモが放し飼いされていた。番犬は大きな土佐犬が数匹。しばらく眺めた。誰もいない。
更に行くと「遍路道」の旗があった。アスファルトの道は大きくうねってカーブが多い。山中を分け入って行く遍路道は急だけどショートカットになるらしい。踏み込んで行くと「マムシ注意」の看板。金剛杖を持っていないので棒きれを拾って歩いた。そんな道がアスファルト道をまたいで幾つもあった。
約2時間でようやく札所の駐車場に着いた。と、ほっとしてはいけなかった。山門から本堂までの石段が多く、そこから大師堂までもつづら折りのような石段があった。大師堂の脇の石段を登っていくと神峯神社があって最高の眺めだそうだ。






27番 竹林山 神峯寺(こうのみねじ)
ご詠歌 みほとけのめぐみの心神峯 山も誓いも高き水音
本尊 十一面観世音菩薩
神峯山中腹の標高450メートルに山門、境内が広がる。
縁起による歴史の古さは屈指で、神功皇后(在位201〜69)の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされる。聖武天皇の勅をうけた行基菩薩が天平2年に十一面観音像を彫造して本尊とし神仏合祀を行った。その後、大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けたのが大同4年(809)のころとされている。
石段の両側には樹齢数百年の古木と、美しく整備された日本庭園が四季折々の花を咲かせる。鐘楼の裏手に湧く石清水。病気平癒に霊験あらたかであるという伝えがあり、遍路さんの喉を潤す。わたしもいただいた。






焼山寺、鶴林寺、太龍寺に次ぐ遍路転がしと言われる難所。ほぼ一直線の急勾配坂道であるため「真っ縦(まったて)」と呼ばれる難所だった。半端ではないきつさは当然だった。
2時を回ると黄昏が始まる。そして参詣を終えたのは5時前で納経所が閉まるので焦りながら長い石段を一生懸命に降りた。石段の両脇に広がる整然とした立派な庭園を勧賞する気持ちの余裕がなかった。それでもかなたの落陽の美しさには叶わない。夕焼けってどうしてこんなに心を掴むのだろう。
納経はセーフ。そしてタクシーを呼んでくれた。
あっという間に唐浜駅に着く。






草臥れていた。88札所を回り終えたという達成感はなく、このまま高知まで行って帰ろうと思い断ろうと善根宿に電話する。ママはしきりにおいでという。
そのママには12番焼山寺にリベンジで行った時にお世話になった。焼山寺の麓に老夫婦がやっている善根宿があって、時折ママが様子を見に来て何かと手伝い、力になっている。一人で善根宿をやっていて予約のない日に様子を見に来るらしい。ママの生き方に興味を持ったこともあってお礼の意味でも高知に行ったときは伺いますと言っていた。遍路宿や宿坊は2食付きで一泊6000円が相場。善根宿は4000円くらい。素泊まりなら無料から1000円程度。客が多いと相部屋になる。
心は帰宅したがっていたが体は休みたがっている…ママの熱意に負けて唐浜から田野まで電車に乗った。田野は割と大きそうな町だが、もう日は暮れていた。




駅から割と近い農地の中の住宅街の中の立派な二世帯住宅。しかし、家族はいない。プライバシー問題があるので詳しくは書けないが、自宅を遍路に開放していてママ一人で切り盛りしている。40代の女盛りになぜこんなに面倒でしんどいことをしてるのか?答えは求められなかった。
二人の若者が居着いていて昼間は仕事に行くがあれこれ手伝ってはいるようだ。その日の宿泊客はもう一人中年より少し若い女性が一人。下のリビングでみんなで夕食。ママは無農薬野菜に挑戦中だとかそのキュウリが夜も朝も出た。リビングに面した田圃では刈り取られていない稲が揺れている。人手がないらしい。
寝る部屋はフローリングで蒲団が二組積んであるだけ。スマホの充電をしながら白衣を頭から被って寝た。枕カバーや蒲団カバーの清潔さを求める人には善根宿は向いていない。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月16日1 32番、28番

2016-12-19 | 四国遍路 土佐(高知...
11月16日1 32番、28番
5時半起床。気持ちに余裕がなくバイキングのパンを二つもらって駅に向かう。高知駅バスターミナルを7時に出発。40分で峰寺通というバス停に降りた。次に向かうためのバスは9時40分。国道を渡って民家の中を行くと遍路道が現れた。かなりな坂道。






32番 八葉山 禅師峰寺(ぜんじぶじ)
ご詠歌 静かなるわがみなもとの禅師峰寺 浮かぶ心は法の早船
本尊 十一面観世音菩薩
小高い山の峰山の頂上にあることから地元では「みねんじ」とか「みねでら」「みねじ」と呼ばれ親しまれている。また、海上の交通安全を祈願して建立されたということで、海の男たちは「船魂の観音」とも呼んでいる。漁師たちに限らず、藩政時代には参勤交代などで浦戸湾から出航する歴代の藩主たちは、みなこの寺に寄り航海の無事を祈ったらしい。





縁起によると、行基菩薩が聖武天皇から勅命をうけて、土佐沖を航行する船舶の安全を願って、堂宇を建てたのが起源とされている。のち、奇岩霊石が立ち並ぶ境内を訪れた大師は、その姿を観音の浄土、仏道の理想の山とされる天竺・補陀落山さながらの霊域であると感得し、ここで虚空蔵求聞持法の護摩を修法し、自ら十一面観世音菩薩像を彫って本尊とし「禅師峰寺」と名付けた。また、峰山の山の様子が八葉の蓮台に似ていたことから「八葉山」と号したと伝わる。





朝の道は清々しい。夜の間に汚れが一掃されるのだろうか。太陽の光があたたく感じられる。この寺には昔ながらの良さと落ち着きがあって懐かしい感じ。
ゆっくりとバス停に戻る。ニワトリが鳴いていた。
バスの時刻まで30分ほどあった。少し先に蓮池があったので草むらに座ってパンを食べる。長閑。バス停に戻ってアスファルトに散っていた団栗をひろった。いろんな大きさと種類がある。
ほんとに来るのかなと不安になり始めた頃にバスは来た。誰も乗っていない。これじゃ廃線になるのも仕方ない。
くろしお鉄道の御免駅前で下車。後免駅からのいち駅まで乗車の筈だったがなんと1時間に一本しかなくてしかも行ったばかり。ここでのんびり座っているわけにはいかない。駅だというのに人影は全く見えない。エレベーターまで設置したり、各駅のキャラクターを作ったり企業努力が感じられるけどこの本数に乗客なしでは全国的にローカル鉄道廃止方向に向かうのもむべなるかな。
タクシーでのいち駅まで行った。ついでに大日寺まで行ってしまうと楽なんだけど楽しすぎてはいけないと自戒。のいち駅から歩くことにした。






香南市の野市という町は不思議な感じがする。基本、農村であちこちにシンビジュームの温室があり住宅地もあり、竜馬記念館や動物園もある。歩いて行くと休憩所があった。少し休憩。遠くの山に上大きな建物が廃墟のように太陽を浴びていた。道を尋ねたついでに聞くとかってはドリームランドで県外からも大勢来て賑わっていたそうだ。そういえばあれはシンデレラ城に似ていた。バブルの頃の遺産かな。歩みを進めていくとおいしそうなレストランがあった。帰りに寄ってお昼を食べようと決めた。
と、遍路道案内出現。しかし踏み跡がなくてなんだか不気味だったのでパス。
少し進むと道の脇に石段があった。直角に近い急勾配。回り込めばなだらかな参道があるらしいが手すりにつかまりながらここを上がっていった。

28番 法界山 大日寺(だいにちじ)
ご詠歌 露霜と罪を照らせる大日寺 などか歩みを運ばざらまし
本尊 大日如来
縁起によると、聖武天皇の勅願により行基が大日如来の像を彫造してお堂に安置して開創されたと伝えられている。その後、寺は荒廃したが大師が四国を巡礼した折に、末世の人々の安泰を祈り、楠の大木に爪で薬師如来像を彫りこれを祀って復興したという。



以後、隆盛を誇り、七堂伽藍や末寺、脇坊も備わり、慶長年間からは土佐藩の祈願寺となって、堂塔も整備された。しかし、明治新政府の神仏分離令によって一時は廃寺となったが、本尊は「大日堂」と改称した本堂に安置していたので救われ、明治17年に再興されて現在にいたっている。
爪彫薬師に参拝すれば、首から上の病の平癒に霊験があるそうだ。







石段を登り終えると参道に合流しお店があったが開いていなかった。元の石段をおぼつかない足取りで降りアスファルトの道へ。のいち駅まで歩く。件のレストランは営業中のようだったが疲れのせいかドアを開ける気にならなくてひたすら駅に向かった。
30分待ちでのいち駅からくろしお鉄道に乗り最後になる札所の最寄り駅の唐浜で降りる。もう、1時半だ。明日にした方がいいかな。いや、行ける内に行ってしまわなければと葛藤する。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月15日2 31番、33番、34番

2016-12-18 | 四国遍路 土佐(高知...
11月15日2 31番、33番、34番
高知に戻ったのは「My遊バス」に乗るためだ。このバスは高知から桂浜経由で高知までの路面電車区間が乗り放題というもので、途中で足を伸ばせば二つの札所を廻ることが出来る。そのMy遊パスは1000円だ。コンビニでいなり寿司を買ってバス待つ間に食べた。
11時40分、My遊バスは桂浜に向かって出発。乗客は7人ほど。はりまや橋など繁華街からも数人乗ってきた。はりまや橋があんなに小さいとは驚いた。札幌の時計台に驚いた以来。チンチン電車が縦横に走っている。入り組んだ線路の複雑な美しさに感心した。竹林寺というバス停で降りた。





31番 五台山 竹林寺(ちくりんじ)
ご詠歌 南無文殊三世の佛の母ときく 我も子なれば乳こそほしけれ
本尊 文殊菩薩
学僧・名僧があつまる「南海第一道場」とされた学問寺院としても知られる。鎌倉から臨済宗の学僧、夢窓国師が山麓に「吸江庵」を建てて修行、2年余も後進の育成に努めたという。国の名勝にされている庭園も造った。また、門前横には高知が生んだ世界的な植物学者、牧野富太郎博士の記念館と県立牧野植物園がある。







この寺は土佐の信仰や文化の中心地であり土佐随一の名刹ともいわれている。
縁起では中国の五台山に登って文殊菩薩に拝した夢を見た聖武天皇が行基菩薩に五台山の霊地に似た山容を見つけるよう命じた。命ぜられた行基はこの地が天皇の霊夢にふさわしいと感得し、自ら栴檀の木に文殊菩薩像を彫り山上に本堂を建てて安置したのが始まりだという。その後、大師がここで修行して荒廃した堂塔を修復し霊場に定めた。
名勝というだけに素晴らしい庭園だ。
ゆっくりと雰囲気に浸っていたかったがバスの時刻に支配された。
竹林寺バス停から乗って桂浜で乗り換えになる。次のバスまで時間があったので海岸を眺めに行った。高知はもうどこに行っても坂本竜馬ばかり。あまり好きじゃないけどとソフトクリームを舐めながら松林を歩いた。賑やかだ。ポケモンGOの聖地なのかな?自分もやってみるがバッテリーの残量が心配なのですぐにやめた。高知の海はなるほどあの先に行ってみたい感を抱かせる。竜馬も慎太郎も万次郎もそんな海が生み出したのかもなんて思う。
ここはやはり観光地。土産物屋や食堂が多い。また、バスに乗った。
長浜営業所バス停で降りた。ここから徒歩で15分の筈。タクシー会社の角を曲がると一直線だった。









33番 高福山 雪蹊寺(せっけいじ)
ご詠歌 旅の道うえしも今は高福寺 のちのたのしみ有明の月
本尊 薬師如来
短い参道の石段を上がると右手に大師堂。正面に本堂、その左手に納経所とこじんまりしたお寺。
運慶作の本尊薬師如来、脇士の月光菩薩、日光菩薩及び弟子の湛慶作の毘沙門天、吉祥天女、他に海覚作の十二神将十体などがあり鎌倉時代には仏像の宝庫といわれ、国の重要文化財となっている。
廃寺となっていた寺を再興したのは戦国時代の土佐領主・長宗我部元親で、月峰和尚を初代住職に招き中興の祖とした。その後、長宗我部家の菩提寺とし元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改め、今日にいたっている。








名称から想像を膨らませていたのだが寺名の由来を知って納得した。
街道沿いに建つ近所の氏神様のような札所だ。
若いお坊さんが何方かを案内して廻ってきた。所作が美しく礼儀正しい。しかもその読経の声の美しさに聞き惚れてしまった。修行の意味が体に沁みた。
長浜営業所バス停まで戻る。その名の通りとさでん交通の営業所がある。そこでバス便のことを聞くと春野町役場行きは今、出たばかりだという。自分の足のとろさを呪った。

強行軍だなと思いつつももう一札所を廻っておきたい。徒歩で7キロとあるが3時間はかかる。もう3時前だし。ということでタクシーで次の札所へ行った。

34番 本尾山 種間寺(たねまじ)
ご詠歌 世の中にまける五穀のたねまでら 深き如来の大悲なりけり
本尊 薬師如来
6世紀のころ敏達天皇の6年(577)に百済の皇子から多くの経論や、仏師、造寺工を贈る旨の勅書が届いた。彼らが渡来したのは用明天皇の時代で大阪の四天王寺の造営にあたった。ようやく落慶し、その帰途の航海中に土佐沖で強烈な暴風雨におそわれて本尾山にほど近い秋山の港に難を逃れた。彼らは、海上の安全を祈って約145cmの薬師如来坐像を彫造し、本尾山の山頂に祀った。これが寺の起源とされている。
その後、唐から帰朝した弘法大師がこの地を訪ねその薬師如来像を本尊として、諸堂を建てて開創した。その折に唐から持ち帰った種子の米、麦、あわ、きび、豆にひえの五穀を境内に蒔いたことから、種間寺と名付けたといわれる。







仁王門はない。効率良さそうに纏まって本堂、大師堂、鐘楼、納経所んどが配置されている。雪蹊寺で出会ったお坊さんと再会し会釈した。今度はその読経に合わせて声を出してみた。さて、高知市まで帰らなければならない。納経所で聞いてみた。地図を描いてくれてその道なりに春野庁舎前バス停まで歩くことに。車も人もいない農地と農家の道をテクテク。しかし、やっと着いたバス停では一ヶ月前に廃線となっていた。なんてこと!仕方がない。念のためにと聞いておいたネギ谷口というバス停を目指した。この道がまた長い。下校高校生達の自転車に次々と抜かれていく。車もふえた。やっと教えられた交差点に着いたときは夕陽が山端に落ち始めていた。それでも4時。40分しか歩いてないのに3時間くらい歩いた気分。交差点を渡って少し行くとバス停があった。やれやれ。しかし5時37分までバスはない。メイン道路なのか車の往来が激しい。バス停にベンチが置かれていた。夕陽が沈み寒くなってきて心細い。タクシー?
いやいや、それはあんまりだ。お大師様に叱られる。バスを待つことにした。




周囲を見回すとパン屋があった。入って行くと奥がレストランになっていた。
ラッキー!ハンバーグ定食と珈琲を頼んだ。
やっと来たバスははりまや橋まで1時間近くかかった。そこからチンチン電車に乗って高知駅まで戻った。ホテルを予約しておいてよかった。いや、予約してなければネギ谷口付近の宿屋に泊まれたのか?
いずれにしても長い一日だった。それにしてもネギ谷口からのバス代は1100円。タクシーに乗らなかった自分を褒めてやりたい。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする