小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

八月一日  

2010-02-19 | 嘉永二年
八月一日

天気はいいけど、なんとも蒸し暑い。
梅本の千太郎が元服していよいよ前髪を剪るということで主人に頼んできた。
そこで朝早くから烏帽子親のならい通り祝儀と扇子を一箱贈って祝った。
あちらからもはまちのお裾分けがあって主人が持って帰ってきた。
岩忠で魚を買う。あなご二匹で一匁。酒を一升五合は二匁。それで仏手柑酒を造った。
この酒を蒸留して造る道具の蘭引はこの前から小さい方を用意してある。七匁だった。大きい方は十八匁だそうだ。
 
安兵衛が松下(地名)から使いに来た。子供が昼前に病死して今晩葬式だとのこと。
その前に主人と岩一郎は梅本に呼ばれて千太郎の祝いの赤飯や寿司などをご馳走になってきた。
帰宅した岩一郎はそのまま松下へお悔やみに行った。
下男の権七が提灯を持って母上と酒券一枚を持って七つ(四時)頃に行った。
小糠雨が時々降った。

《一口メモ》
梅本
◆小梅の夫の実家。夫の豹蔵(修→豹蔵→梅所と名前が変わる)は入り婿。
◆「母上」は小梅の実母。この当時は六十才前後か?
◆千太郎は豹蔵の弟、藤四郎の長男。(千太郎→啓蔵→良太郎)
◆岩一郎は一人息子。(岩一郎→靖之→雄輔)この頃十六才。
◆川合宅は今の釘貫町あたりにあったので城までは徒歩圏内。

匁(相場によって価値変動があるのでおおよそです)
●・一匁(10分)・・・・1000円
・一両・・・・・・・・6万円
・一貫目(1000匁)・・100万円
・一匁(10分)・・・・1000円
・一分(10厘)・・・・100円
・一厘(一文)・・・・10円

仏手柑酒
 ●仏手柑はスダチより一回り大きな柑橘を使った果実酒

元服
 ▲今で言う成人式。十五才くらいから二十歳までの間に行う。
 元は首、頭、服は着るもnおということで、頭に着せる=冠をかぶせること。
 冠の代わりに烏帽子を使うが烏帽子親が前髪を剪るようになった。


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「嘉永という時代」

2010-02-16 | 環境

嘉永というのは1848年から1854年までの期間の元号です。この時代の天皇は孝明天皇。
黒船の来航以来、伝統の存続を願いながら開国という状況に直面して困難な選択を強いられ続けた天皇です。
倒幕、攘夷、桜田門の変などの嵐の中で三十八才の若さで急逝。嘉永は七年で終わりました。
一方、江戸幕府将軍は十二代目の徳川家慶。天保八年に将軍職に就任したものの、先代で父である家斉が政治の実権を放さなかったので失意にの日々を過ごしていましたが、家斉の死後は天保の改革を行ったり、内憂外患の危機打開を図る努力をしたのです。
が、ペリー来航の慌ただしさの中で六十才で亡くなりました。政治の混乱を避ける為にその死は長く隠されていたのですが、やがて五ヶ月後に息子の家定が十三代将軍となりました。家定は病弱、癇癪持ちとされていて政治には殆ど関わらなかったらしいです。

佐久間象山、高野長英、水野忠邦、ジョン万次郎、島津斉彬、徳川斉昭らの名前が日本史の教科書にでてくる頃です。
「嘉永時代」は日本が大きく変わる先鞭の時代だったといえましょう。
江戸からは遠いとはいえ、紀州藩は御三家の一つですし、海に面しております。そんなことから情報が入ることも多く、海の警固問題もあり城内にはいつも緊張感が漂っていました。

どんな世の中であっても女は衣食住の采配をしなければなりません。
親戚、近所つきあいも女の仕事。
国というのは一人一人の人間があってのことですし。

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自己紹介

2010-02-15 | 環境

私の名前は川合小梅。
文化元年(1804)の十二月二十二日に紀州・和歌山で生まれました。時の藩主は名君と言われた徳川治宝(はるとみ)様。
ロシア使節のレザノフが長崎にやってきた年です。
私は射手座で、寅卯天中殺。多分血液型はB型でしょう。
父は紀州藩の藩校で教鞭をとっていましたが私が五才の折に三十二才の若さで亡くなってしまってあまり記憶がないのが寂しいです。
でも、母と祖父が大事に育ててくれましたから、お転婆な好奇心の強い女の子になっていったのでしょう。
川合の家は学者一筋の家系だったようで、祖父は紀州の藩校の校長でした。父はこの衡という祖父に見込まれて婿養子として母の辰子と結婚したのです。そして私が生まれたという次第。
禄高は三十石だったとかで、まあ、中級武士というところでしょうか。
お転婆な私でしたが、祖父からは漢文、和歌を母から教え込まれました。勉強は好奇心を満たしてくれるので楽しかったですよ。
そうそう、絵も子供の頃から松亭先生に習ってました。大人になってからは頼まれてたくさん描いたものです。
修という十才年上の書生が我が家にやってきたのはいつだったか、気がつくと居たって感じで優しいお兄さんみたいに思っていました。
で、祖父と母はこの修サンを私のお婿さんにしたのです。私は一人娘でしたから当時のことで「家」を継ぐ関係から嫁には出せなかったのでしょう。
主人もやはり藩校(後には学習館と名前が変わったけれど)で教鞭を執る学者でした。

息子の雄輔が三十の時に生まれました。これも一人っ子です。
この子も藩校で教鞭を執るようになったのですが、明治になってしばらくすると高校教師になりました。
私は明治二十二年(1889)の霜月まで生きました。八十六才まで長生きしましたので、幕末から文明開化までのさまざまな出来事を見聞き、体験してきましてね、生来のメモ好きだったせいで日記とは言えませんが結婚して以来、日々のことや世情の動きなどをそこらにある紙に書き死ぬ前まで書きつけていました。
今では『小梅日記』などと郷土歴史家の方々の参考になってるようで、恥ずかしい限りです。
でも、紀州、和歌山のお天気だけはキチンとした資料にはなるかと自負してます。

門弟や親戚と人の出入りの多い賑やかな家でした。
また、名前もどんどん出世魚のように変わったりととてもややこしいのですが、日本が大きく動いた時期の家庭がどんなもんだったか知っていただければ嬉しいです。

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はじめに

2010-02-09 | 環境
幕末・明治期に生きた紀州藩校督学川合梅所の妻である小梅。
その小梅が激動期の社会の姿や身辺の雑事を40年にわたって記した「小梅日記」が発見されて貴重な史料となっています。
曾孫の志賀裕春氏と学者の村田静子氏によって現代文に甦えさせられました。

それが平凡社から東洋文庫として三冊が出版されたのです。
現代文とはいえ漢文を書き下したようなもので、無数に関わる人物関係や当時のしきたり・言葉・紀州の土地柄など理解しづらい事項が多く、さらにメモ的に事実だけが書かれているために感情面を忖度できず、普通に本書を読む下すのは至難の技です。
そこで、これを普通の小説風に書き直してみることを決心しました。

結婚(婿を迎えた)した16才時から86才までの長い年月の中で発見されていない部分もあって郷土資料関係者はまだ探索中。それでも40年分は起稿されているのですからどんなにか大変な仕事だったかと偲ばれます。
どこまでやれるか根性と根気に自信がないまま取りあえず始めてみることにしました。
冒頭の「酉八朔」から躓いているのですから亀の歩みより遅く、前途多難で無茶な旅立ちではあるのですが。


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