小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

★★五十四番 儀同三司母★★

2014-09-28 | 百人一首
ぎどうさんしのはは(生年不詳…996年没)

忘れじの行く末まではかたければ 今日をかぎりの命ともがな

 儀同三司の母。儀同三司というのは藤原伊周のことです。伊周は後年になって太政大臣、左大臣、右大臣の三大臣と同じ力を持つという意味から自分で「儀同三司」と名乗ったといわれています。中国の官位に見える名称です。
 この歌の作者は学者としても高名な高階成忠の娘の貴子です。円融天皇の後宮に内侍として仕え 高内侍(こうのないし)と呼ばれていました。貴子は漢学の素養も深く円融天皇も一目置かれたほどの才媛。
 その貴子と恋に落ちたのが、時の大納言藤原兼家の長男の道隆でした。
兼家は「蜻蛉日記」の作者の夫です。いわば道綱の母の恋敵の長男が道隆ということになります。ここからも当時のきらびやかな人間関係が想像されますね。

 さて、この歌は恋の歌、それも激しい一途な恋の歌です。
 …決して忘れないと仰ったけれど、本当にこの先ずっとそうなのかしら。そんなあてにならない先のことなんあかどうでもいいわ。いっそ、今、この愛される幸せな中で死んでしまいたいの…
 一途で純粋な歌に引き込まれてしまいます。
 たしかに相手の道隆は父・兼家の権力争いの渦中にあって御曹司とはいえ将来の展望が見えていませんでした。そんな道隆に貴子は嫁ぎます。
 兼家はついに政敵をなぎ倒して摂政関白太政大臣と最高の地位につきました。兼家が没すると道隆がその跡を継ぎます。当時のならいとして愛人も多数いたものの道隆と貴子は仲むつまじい夫婦でした。そして、貴子は伊周、隆家、定子、原子と四人の子供を授かります。
 定子は一条天皇の中宮として入内し、清少納言が尊敬と憧憬をもって仕えたほどの才気豊かな美しい女性。伊周は定子の兄として『枕草子』にたびたび登場する美男子。また、隆家は兄とは違う魅力を持ち『栄華物語』などに出現しています。そして、末娘の原子は三条天皇の女御となりました。
なんときらびかに栄華に満ちた一族なんでしょうか。

 でも、栄枯盛衰この栄華は道隆が四十三歳の若さで亡くなってしまうと、またまた政権争いが起こり兼家の末弟のあの道長に二十二歳の伊周は蹴落とされてしまったのです。それどころか、弟の隆家ともども官位を剥奪され、九州へと流されました。流される為に引き立てられてゆく息子の体に縋りついて貴子が号泣した
と『栄華物語』に出ています。

 兼家の死後は直ちに髪をおろしていた貴子でしたが同じく落飾した定子と手を取り合って泣き暮らしたと伝えられています。その定子も不幸に追い打ちをかけるように二人目の皇女を出産すると亡くなってしまいました。もしかしたら「愛されて幸福の絶頂にいる今、死んでしまいたい」と歌い上げたように
若い頃に死んでいた方が幸せだったのでしょうか。

 貴子は夫の兼家が没した翌年に悲哀に包まれたまま跡を追うように亡くなりました。
 けれど、後年に復活した伊周が太政大臣、左大臣、右大臣の三大臣を独占したことから「儀同三司の母」という尊称で呼ばれるようになったのでした。長命であれば穏やかな晩年を過ごすことができたでしょうにお労しいことです。


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★★五十三番 道綱の母★★

2014-09-24 | 百人一首

みちつなのはは(936~995)     

なげきつつひとりぬる夜の明くるまは いかに久しきものとかは知る


 いうまでもなく『蜻蛉日記』の作者です。父は藤原北家長良流、伊勢守正四位下藤原倫寧(ともやす)で母は源認女と推測されています。本名は例によって不明。兄に理能(母は藤原春道女)、弟に長能(母は源認女) がいて、菅原孝標女は姪にあたります。
 天暦八年(954)に右大臣藤原師輔の三男兼家と結婚して、翌年に道綱を生みました。
 天禄三年(972)には夫の兼家の旧妻である源兼忠女の娘を養女として引き取りました。
 日記の記述は翌年の天延二年(974)までなので、以後の生涯は不明です。
この日記が『蜻蛉日記』で歌人としての評価も高く、藤原師尹五十賀屏風歌、正暦四年(993)の東宮居貞親王帯刀陣歌合などに詠進しています。また、『傅大納言殿母上集』という家集も残されており中古三十六歌仙の一人でもありました。『尊卑分脉』には「本朝第一美人三人内也」とありますので美しい人だったのでしょうね。
『小右記』によりますと長徳元年(995)に死去とあります。享年五十九歳。

 例によって名前がわからないので蜻蛉と呼びますが、この蜻蛉の父の倫寧は藤原氏でも政権の中枢から離れた不遇にちかい中級貴族ででした。蜻蛉は文章生出身であった父の教育を受けて和漢の学も和歌の素養もある、美しい少女だったのでしょう。
 蜻蛉は十九歳の折に摂関家の御曹子の兼家(のち摂政関白となり子の道長、孫の頼通とつづく藤原氏全盛期の基礎を築いた)に熱心な求婚されました。まさに玉の輿ですが、既に兼家には時姫とう妻が居て長男も生まれていました。だからといって蜻蛉は側室ではなく大勢いる妻の一人です。兼家は生涯正室を持たないで何人もの妻たちの家を廻っていたのです。

百人一首に採られたこの歌は道綱が生まれた直後の若い頃のものだとされています。
 …あなたがおいでにならなくて一人で寝る夜というのは空が明るんでくるまでがどんなに長いかということを知っておいででしょうか…悶々とよその女の元にいるだろう夫を思い眠れずにいる姿が目に浮かぶようです。
用があると言って夕刻に出て行った兼家が町の女の家に行ったことを知って蜻蛉は夜明けに門を叩いた兼家を家に入れずにこの歌に萎れかけた菊の花を添えて贈ったのです。
兼家はたいして怒らず
げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸も おそくあくるはわびしかりけり

の歌を返しました。蜻蛉は夫が悪びれもしないでしれっとしているのでと、また腹が立つのでした。

 「かげろふの日記」は、蜻蛉が四十歳近くなってからの、成人した道綱や養女と共に落ち着いた暮らしの中で心の余裕ができたのか過去を振り返って書き始めたものです。兼家の求婚を受けた日から二十年間の生活と心情の回想録だといえましょう。
冒頭で作者はいいます。
 「世間ではやっているたくさんの物語を読むとつまらない作り話が多いようです。平凡でつまらない私ですけど、いっそ私のありのままの身の上を書いてみようかと思います。玉の輿だと言われるような結婚の実態がどんなものだったか…私がこんなに不幸せなのが女として思い上っていたからなのか…そんな批判の材料にでもしていただければいいのです」

 日記の中で蜻蛉は夫のほかの妻や愛人を呪い雑言を吐いています。また、実際に出家して尼になろうとして兼家に連れ戻されたりもしています。夫を独占したかった蜻蛉に遊び人の兼家の取り合わせは不幸な巡り会いだったかもしれませんが、それだけ一途に夫を愛せたのは幸せなのではないでしょうか。兼家も尼寺から急いで取り戻していますし、とぎれとぎれとはいえ最後まで通ってきています。やはり蜻蛉を愛していたのです。ただ、彼女だけを愛していたのでなかったところに蜻蛉や多くの女たちの悲劇があったのでしょう。

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☆☆ 三十八番 右近 ☆☆

2014-09-21 | 百人一首
  うこん(生没年不詳)

忘らるる身をば思わずちかひてし 人の命の惜しくもあるかな

 この人は十世紀はじめの藤原南家の右近少将季縄(季綱とも)の娘です。そこから右近と呼ばれるようになりました。彼女自身の名前は文献に残っていないようです。但し、恋多き女性だったらしく『大和物語』の八十一段から八十五段まで右近の話として載っています。
 醍醐天皇の皇后穏子に仕える女房で、元良親王・藤原敦忠・同師輔・同師氏・同朝忠・源順らと交渉があったことが遺された歌から窺えます。中でも右近が一番愛したのが権中納言藤原敦忠。敦忠は容姿端麗、歌人としても管絃の道にもも秀でた公達でした。しかも、左大臣藤原時平の三男という御曹司でもあったのです。
万葉集の四十三番の《あひみてののとの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり》が敦忠の歌として選ばれています。あなたと会ってからのことを思うと昔は悩み事もなかったことよ。そんな意味でしょうか。右近にとって敦忠は初恋の人だったのかもしれません。
《忘れじとたのめし人はありと聞く  言ひし言の葉いづちいにけむ》
…私のことは忘れないと仰ったあの方は今も無事でいらっしゃると聞いておりますのに何の音沙汰もありません。あの約束は一体どこに行ってしまったのでしょう。という歌が『大和物語』八十一段に右近の歌として出ています。
 敦忠は大変に女性たちにもてたようです。やがて、次々と違う女性と恋に落ちてゆきます。右近もまた前述の公達と交際をするのですが敦忠が忘れられませんでした。しかし、和歌がいくら上手でも相手が左大臣の御曹司となれば一介の女房にしか過ぎない右近にはどうすることもできません。そこで詠いあげたのが万葉集三十八番の歌でしょう。
 「いつかは忘れられる身であることも考えもしないで愛を誓った私たち。なのに心変わりをしたあなたにはきっと神仏の罰が当たるでしょう。でも、罰が当たってあなたが死んでしまうなんて、厭!」そういう意味でありましょう。切ないですね。
 敦忠の父は菅原道真を陥れた人でした。その為に道真の祟りを受けて一族がみな早世したと伝えられています。敦忠もまた三十七歳の若さでこの世を去りました。それを聞いた右近は気味がいいと思ったのでしょうか。そんなことはありますまい。きっと何日も泣き明かしたに違いありません。
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☆☆  十九番  伊 勢 ☆☆

2014-09-19 | 百人一首

いせ (生没年不詳)

  難波潟みじかき芦のふしの間も 逢はでこの世をすぐしてよと

九世紀末から十世紀はじめの伊勢守だった藤原継蔭の娘だったことから「伊勢」と呼ばれてます。 悲しいことにこの当時の女性たちの殆どは誰それの娘とか妻、あるいは役職名しか残っていません。 ですからこの人も「伊勢ちゃん」と呼ばれていたわけではないのです。
 伊勢は美しく気だても良く賢い娘でした。そこで、宇多天皇の中宮温子にお仕えすることになりました。内裏には大勢の公達が出入りをしていて多くの男性から求愛されましたが、伊勢の心を捕らえたのは藤原仲平でした。
仲平は関白太政大臣藤原基経の次男坊でしたから受領の娘の伊勢とは身分に大きな差がありました。父の継蔭は身分違いの恋をたいそう心配しましたが、果たして、仲平は出世してゆき大臣の姫と結婚して伊勢は捨てられてしまいました。
 深く傷ついた伊勢は当時の父の任地だった大和に戻っていきます。人々の口さがない噂からも逃れたかったのかもしれません。大和の伊勢の元には仲平の兄の時平から頻繁に文が届けられましたが、伊勢の心は仲平にあったようです。難波潟の歌は短い逢瀬の時も作ってくれない、これっきりだというの?と切ない思いを詠ったものなのです。
 一年ほど経った頃、温子中宮から出仕のお誘いがあり、泣き暮らしていた伊勢でしたが父の勧めもあって再度内裏へとあがりました。仲平がまたも文を送ってきましたが、伊勢はきっぱりと拒絶します。生まれ変わろうと再度の出仕に踏み切ったのですから同じ事は繰り返せません。
この頃から伊勢の歌は高く評されるようになっていき、公的な屏風歌で広く名前が知られるようになりました。そして、そんな伊勢に求愛したのが宇多天皇でした。お仕えしている中宮の温子には申し訳ないことでしたがこれは断れません。宇多天皇には大勢の后がいましたが、伊勢は寵愛を受けて行明親王を生みました。「伊勢の御息所」と呼ばれるようになった伊勢に中宮温子は以前と変わらずやさしく接してくださいますし、伊勢も慕って心から仕えていました。
 幸せは長く続きませんでした。幼い行明親王が亡くなり、宇多天皇は譲位して出家され、間もなく温子も薨じたのです。悲しみに沈む伊勢を慰めたのは若き貴公子、宇多天皇の第四皇子の敦慶親王。すでに伊勢は三十歳をこえていましたが二十五歳の親王のプロポーズを受けました。う~ん、よほど魅力ある女性だったのでしょうね。

 伊勢は敦慶親王の子供を産みます。今度は皇女で後には有名な歌人となった中務(なかつかさ)です。
 晩年は現在の大阪府の高槻市で過ごしたとの伝えがあり、伊勢寺では毎年十二月には「伊勢姫忌」が開催されています。

 伊勢の歌の評価は高く古今集・後撰集・拾遺集の三代集のいずれにも女性歌人としては最多の入集数を誇こっています。また、藤原公任の撰になる『三十六人撰』では貫之・躬恒に並ぶ十首を採られ、古今集時代最高の歌人の一人としての扱いを受けています。定家の評価も高く『八代抄』に採られた二十三首は、和泉式部・式子内親王に次ぎ女流では第三位にあたります。
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★★ 九番 小野小町 ★★

2014-09-11 | 百人一首
 平安時代の歌人です。六歌仙、三十六歌仙の一人。絶世の美女でありながら謎の多い人です。
その美しさから「小町」が美人の代名詞となっています。「うちのおばあちゃんね、××小町って言われたくらい昔は美人だったんだって」「へえ、信じられない~」ってな具合です。
 出羽郡司小野良真の娘で小野篁の孫との説もありますが真偽のほどは不明で、実名も履歴も一切わからないことからたくさんの説話が生まれたようです。しかし、歌は上手で相聞歌なども残っていますから実在はしていた、なのに実像は見えてこないという想像力を掻きたてられる女人であります。
 歌集に残された歌を辿ってみますと、仁明朝(833~850)に仕えていた女官であろうと推察されます。『古今集』には阿部清行や小野貞樹、文屋康秀との贈答歌が載っています。また、『後撰集』には遍昭との贈答歌が見られます。

 では小町の歌はどう評価されているのでしょう。紀貫之は「あはれなるようにてつよからず、いはば、よき女のなやめるところあるに似たる」と書いています。趣きがあって控えめで、悩みを持った貴婦人のような風情がある、ということでしょう。時代に先立って華麗な技巧と大胆な着想に富んだ歌を多数生み出しています。また、女性の立場から恋を情熱的に詠いあげた点が大きな特徴だとされています。
 これは平安女流文学の原点だといえます。さらに漢詩の表現が多く取り入れられているところから、豊かな知識を持った教養のある女性であったとも推察されます。
かぎりなき思ひのままに夜もこむ夢ぢをさへに人はとがめじ

小町はたくさんの恋をします。しかし、いつの世も男というのは多情なもので小町もずいぶんと枕を涙で濡らしたようです。その一方で百夜通ってきた深草の少々には最後まで靡かなかった頑固さも持ち併せていたようです。絶世の美女もいつかは年を取ります。その落ち着いた頃に昔なじみの小野貞樹と結婚しました。

今はとてわが身しぐれにふりぬれば 言の葉さへにうつろひにけり…小野小町
今の私はすっかり年を取ってしまいましたもの、あなたの言葉も心もかわってしまったことでしょう。
人思ふこころ木の葉にあらばこそ 風のまにまに散りも乱れめ…小野貞樹
君を思う気持ちが木の葉のように軽いものだったらとっくに風に吹かれて飛んでいってしまってるよ。

小町はゆるやかでしっとりとした数年を持つことができたのでしょうか。やがて、夫がこの世を去ります。その後のことは不明です。しかし、小町伝説は日本中の至るところにあるといっても過言ではないくらいに存在しています。
『玉造小町壮衰書』という漢文の本も書かれました。
 在原業平との恋の話ですが、この本の中の小町は美人であることを鼻にかけた厭な女で、そのために晩年は落ちぶれて乞食になって死ぬという設定になっています。
なぜ小町伝説が全国に散らばっているかといえば、物語を語って全国を歩いていた巫女や比丘尼が小町の逸話を持って放浪していたからだと思われます。語り継がれていくうちに脚色が進んで原型が消えていきました。美女への敵愾心や反発もあったのかもしれません。
 この語り部、比丘尼が旅先で亡くなって埋葬されると「小野小町の話をしていたおばあさんのお墓」がいつしか「小野小町のお墓」と呼ばれるようになっていったのでしょう。もしかしたら、小町は世界中で一番たくさんのお墓を持っているのかもしれませんね。
お墓があれば歌碑も建ちます。それが人情でしょう。句碑の多いのが放浪の俳人山頭火で500基以上ありますが、小町の歌碑もそれに負けていないのではないでしょうか。山頭火といえば彼が好むんだ山口県の川棚温泉にもお二人の歌碑と句碑がありました。丹後の大宮町には小町の像もありました。
 どこかに旅をするときには頭の隅に小町の像や歌碑のことを入れておくと楽しみもふえるかもしれません。

九重の花の都に住みはせて はかなや我は三重にかくるる
この歌が小町の辞世の歌だと言われています。



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