小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

遍路初日 

2015-04-29 | 四国遍路 阿波(徳島...

「観梅苑」という名の通りその民宿は梅園の中にあった。梅農家が民宿を始めたような感じ。梅干し販売所が傍にあった。
早めに着いたので一休みしたから散策に出かけた。
この宿へは大きな鳥居をくぐって立派な並木を左折したので、その並木の先が気になっていた。聞いてみると大きな神社があるという。
石灯籠と桜が両側に並ぶ長い道の先には赤い橋があって由緒ありげな鳥居があった。






阿波の国の一の宮「大麻比古神社」
地元では”おおあさはん”と呼ばれ、古くから信仰を集めています。忌部氏の祖先を祭り、大和朝廷とも関連の深い歴史のある神社で、現在は徳島県の総鎮守として信仰を集めている。境内は大麻山県立自然公園に指定されている。また、樹令 約千年余の楠が大麻比古神社の御神木として崇められている。



柏手を打ってお詣りしていると若い神官が本殿の扉を閉めにきた。多分、17時なのだろう。神官がこの神社の由来やら裏山にあるドイツ橋のことを教えてくれた。
ドイツ橋!そうだった。時間があればドイツ館に行きたかったのだと思い出した。ドイツ館とは「第一次世界大戦中のドイツ人捕虜収容所(板東俘虜収容所)の記念施設として、1972年に創設された。捕虜の人権尊重と自主的な運営を許し、地元民との交流も活発に行われたため多くのドイツ文化が伝えられた。そのひとつとして音楽の分野ではベートーベンの第九がこの収容所において日本国内初演された。建築物では、近くの大麻比古神社に彼らによる石造りのアーチ橋(ドイツ橋)も残っている。こういった当時のエピソードを紹介するための施設である。」(by  wikipedia)











ドイツ館の傍には道の駅もある。しかし、どちらも5時までだったから間に合わない。
追いかけてきた神主さんが帰国を前に記念として母国の土木技術を生かし近くで採れる和泉砂岩を使って造られたというドイツ橋への門をあけてくれた。
新緑の木々と小さな川の流れに石畳もアーチ型のかわいい橋がおとぎ話の国に迷い込んだような感じで前日に来た甲斐があった。

入浴して食堂で夕食。お遍路さんは先を急ぐので一番札所で止まる人は少ないのか二組の方しかいなかった。





部屋からは梅園の向こうに建つドイツ館が見えた。
朝食は7時からということで8時出発を決めて早々に寝床に潜り込んだ。
いよいよ、明日から本格的な歩きが始まる。大丈夫かなあ、私の足。
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遍路日記一日目  1

2015-04-28 | 四国遍路
‥‥一日目‥‥
和歌山南港を10時35分発のカーフェリーでリュックを背負って徳島に向かう。
厚い雲の中から雨が海の上に降り注いでいて、雨の中を歩くのは大変だなあとちょっと憂鬱や船内は広く椅子席、畳席、wi-fi席などもある。

2時間で徳島港へ到着。徳島駅行きのバスは1時間に2本。
15分ほどで徳島駅に着く。雨はバスに乗ってる間にやんでくれた。



港からバスに乗ったのは私を入れて3名。中年のおじさんと高齢者のおじさん。
高齢者のおじさんは正式ではないけれどリュックを背負って慣れたお遍路さんっぽい。足が少し不自由に見えた。
中年男性は大阪から来て一日徳島で遊ぶらしい。

徳島駅から一番札所の霊山寺までの直行バスがある。
そこで友人二人と待ち合わせている。
この一番札所や寺前の店で参拝用品一式を買い、遍路作法なども教わることになっているらしい。



参拝用品
白衣、菅笠、金剛杖、経本、納め札、線香、ローソク、頭陀袋(巡拝バック)
輪袈裟、数珠
白衣 通販で袖無しを購入済み。
菅笠 つばひろのレインハット使用。
金剛杖 山歩き用の二本のポール。
納め札 ネットから印刷し書き込み済み
線香、ローソク、数珠は自宅にあるもの。

というわけで寺前店で買ったのは経本だけ。
お店の人に「山歩きが目的ですか、お詣りが目的ですか」と言われてしまった。
輪袈裟は白衣の脱ぎ着の時に邪魔になるらしいのでパス。
金剛杖につける鈴は熊よけだったらしいが最近はうるさいので使用しない人が多い。

お腹がすいていたのでうどんを食べるつもりだったのに売り切れ。
がっかりしてると友人二人がやってきた。友人たちが買い物をしている間にソフトクリームをなめてお腹を騙した。





いよいよ参拝。
本堂でしきたりの説明を聞く。その内になれるだろう。

一番札所 竺和山 霊山寺(りょうぜんじ)
ご詠歌  霊山の釈迦のみ前に巡りきて よろずの罪も消え失せにけり
天平年間に聖武天皇の勅願を受けて行基が創建した。



手を洗いうがいをして一礼合掌。納め札を納め札箱に入れて拝む。
お詣りの邪魔にならない端によってお経を唱える。
本堂を終えたら大師堂で同じ事をくりかえす。


このあと、本日の宿、民宿観梅苑へ向かった。

10:35  和歌山南港発
12:50  徳島港着
13:05  バス発車
13:35  徳島駅発車
14:30  霊山寺着
16:00  徒歩10分で観梅苑着
歩数計  10989歩 
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遍路のはじまり

2015-04-24 | 四国遍路
よろよろとお遍路に行ってきましたので「百人一首の女たち」を中断して当分は「遍路日記」を書いていきます。

四国遍路は、徳島県・高知県・愛媛県・香川県の四国四県にある、弘法大師ゆかりの八十八ヶ所の霊場(札所)を時計回りに巡る、全長約1,400kmにおよぶ壮大な巡礼の旅です。その八十八の霊場を巡拝するのがお遍路さんと呼ばれています。

四国八十八ヶ所の霊場は弘法大師(空海、774~835年)が開かれたもので、伊予国温泉郡荏原村(現在の愛媛県松山市)の長者・衛門三郎が自分の非を悟り、弘法大師のあとを追って四国を回ったのが遍路の始まりだといわれています。

巡礼者は、お寺を一つ一つ詣ることで、自分の迷いを解き、身も心も清らかにして八十八の煩悩を取り除き、悟りを開いていくのだそうです。
四国遍路は、歩いてめぐる「歩き遍路」が一般的ですが、最近では道路が整備され、マイカーやタクシー、団体バス、ツアーを利用する人も多いようです。

お遍路といえば白衣に金剛杖と菅笠が普遍的スタイル。
杖や笠には「同行二人」(どうぎょうににん)と書かれていますが、一人は自分でもう一人が弘法大師ということで、何処に行っても弘法大師と二人連れだから守って下さるという意味があるそうです。
また、かっては命がけの道中だったので行き倒れた時は杖が墓標となり笠で顔を隠したそうです。

どこから始めてもよいお遍路ですが、一番札所から番号順に巡る「順打ち」が一般的な巡礼方法。八十八番から巡礼することを「逆打ち」といい、順打ち3回分のご利益があると言われています。その他、「通し打ち(すべての霊場を一遍にめぐりきること)」「区切り打ち(適当に区間を区切って巡る)」「一国参り(一つの県を国として巡ること)」などがあり、自分の体力やペースにあわせ、巡り方が選べます。

巡る順番や数、期間が自由なだけでなく、巡礼の手段も自分にあわせて選択でき、。「歩き遍路」「車遍路」「ツアーバス遍路」などの方法があり、何回に分けて行ってもいいのが嬉しいです。
阿波国(徳島県)の霊場を「発心の道場」、土佐国(高知県)の霊場を「修行の道場」、伊予国(愛媛県)の霊場を「菩提の道場」、讃岐国(香川県)の霊場を「涅槃の道場」と称されています。
今回はは徳島県を回る区切り遍路を計画しました。1番から23番寺を歩いて回る予定ですが、初めてのことで、さて、どうなりますか。
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六十二番★★…清少納言…★★

2015-04-11 | 百人一首

清少納言(966年?~1025?)

 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ


 清少納言は古文でお馴染みの『枕草子』を書いた才人です。
 歌人清原深養父の曾孫で父は元輔。元輔の晩年の子供でたいそう可愛がられました。やがて、橘則光との結婚生活に入り則長ほか数名の子供をを産みますが十二、三年ほどで離婚しました。正式な夫婦であったのか、別れの理由は何であったのかなどは一切わかりません。ですが、二人は宮廷で再会し宮中では兄・妹の仲で通っていたといいますから何か深い訳があって別れたのでしょうか。
 随筆の名手であっても個人的なことは書かなかったのですね。
 父の元輔は七十九歳の高齢ながら肥後守として赴任し、赴任先で亡くなります。父を亡くし則光とも別れた納言は薦められて宮廷へ出仕しました。仕えたのは一条天皇の中宮定子(藤原道隆の息女)でした。文献によれば、この時、清少納言は二十代後半か三十歳前後のようです。
中宮の定子は関白藤原道隆の娘でしたが、長徳元年(995)に道隆が没したことで道長が台頭してきたことから一条天皇の愛情も道長の娘の彰子に移りました。長保二年(1000)、皇后に棚上げされた定子は皇女を出産した直後に崩じます。清少納言はその頃に宮仕えを退いたと思われます。
『枕草子』は宮廷暮らしの中で書き始められ、定子の没後も書き続けられていたようですがその後の納言の生涯はあまり記録に残っていません。
 わかっているのは受領階級の貴族の藤原棟世と再婚して、重通と女の子(小馬命婦)をもうけたことと、その小馬命婦が定子中宮のライバルであった彰子に仕えることになったこと程度です。ただ、『赤染衛門集』に、父元輔の荒れた旧居に住む清少納言に触れた歌があって晩年の暮らしぶりを想像できるのですが…。

 さて、この62番の歌ですが選者の定家も難しいものを選んだものです。漢籍の知識がないと理解しにくい歌で、そんなことから清少納言は知識をひけらかす厭な女と受け取られる向きも少ないのかもしれません。 詠まれたのは定子中宮のもっとも華やかな頃でしょう。仲の良い男友達がたくさんいました。
 ある日のこと、納言はその内の一人、大納言行成と自分の部屋で夜更けまで話しこんでいました。行成は「もう、こんな時間だ」と帰って行き、翌朝「鶏(とり)の声に催促されて帰ってしまいましたが、もっと話がしたかったね」といった手紙を送ってきました。それに納言は「あんな夜更けに鶏ですか?きっと孟嘗君の鶏なのね」と返事をしたためます。「孟嘗君の鶏」という故事は中国の史記にあるものです。孟嘗君が秦の宰相であったとき、趙の武霊王の策謀により危うく暗殺されそうになりました。孟嘗君には数千人の食客がいましたが、その中には一芸に秀でた者が多かったのです。
 暗殺の計画を知った彼は密かに逃げ出す計画を立て、夜明け前に函谷関(かんこくかん)の関所を越えようとしたのですが、関所の門は鶏が鳴いたのを合図に開かれることになっていて夜中には通れないのです。彼に従う食客の一人にものまねを得意とする者がいて、鶏の鳴き声を発するとそれにつられて本物の鶏が鳴き始め、まんまと門を開けることに成功し無事に逃げることができました。
 打てば響くような納言の対応に「あれは函谷関の関のことでしょう。あなたとは忍びあいの逢坂の関ですよ」と行成はすぐに返歌を書きます。それに対して納言が贈ったのが62番のこの歌です。
「夜もあけない内に鶏の鳴き真似をして関所をあけさせたのは函谷関のことですよ。私の逢坂の関所は守りが堅いのでだまされてあけることなんてございません」といった意味です。
 歌のやり取りでも知識や機知を使ってかけひきなどもあって楽しい様子が髣髴とさせられます。和歌には切ない相聞歌が多いのですが、こうしたカラリとしたユーモアのあるものも素敵ですね。こんな納言を定子はたいそう愛され、納言も心をこめてお仕えしたのでした。

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☆☆…六十一番  伊勢大輔 …☆☆

2015-04-10 | 百人一首
六十一番.…伊勢大輔…(989?~1060)

いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな

 
 神祇伯正三位大中臣輔親の娘で歌人として高名な能宣は祖父、頼基は曾祖父にあたります。
 つまり、伊勢大輔は大中臣家重代歌人の系譜に連なる歌人であります。大輔は「たいふ」と読み宮仕えの折の役職で、例によって本名はわかりません。
寛弘四年(1007)頃から上東門院彰子に仕えたので、紫式部や和泉式部とも親しい間柄でした。
 61番に選ばれたこの歌は、歌としての評価はそう高いものではありませんが、成り立ちからすっかり有名になったといわれています
 まだ、大輔が彰子中宮の元に出仕して間もない頃のことでした。春爛漫のある日、中宮やその父の道長を囲んで談笑していました。華やかなその場に控えているだけで若い女房たちは晴れがましく誇らしかったことでしょう。そこへ奈良の僧都から立派な八重桜が届きました。
 宮廷の儀式として使者から桜を受け取って主上にお渡しする係の人が決まっていました。この場ではあの紫式部でした。紫式部はその役目を新人の大輔に譲りました。古参の式部は後進を育てなければと思っていたのかもしれません。咄嗟の思いがけないなりゆきに人々は驚いて緊張します。
 一番驚愕したのは名指しされた大輔だったでしょう。なにしろ、桜を中宮に差し出すだけではなく和歌を添えなければならないのです。それも速攻で詠まなければいけません。代々歌人の誉れ高い家の娘として知られていますから座の人々も興味いっぱいで大輔を見ています。祖父や父の名を汚してはいけないというプレッシャーもあったでしょう。
 呼吸を整えると大輔は透き通る声で詠い始めました。その歌がこの「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」だったのです。奏詠が終わると大輔は震える手で八重桜を中宮に差し出しました。中宮もも道長も満足げに微笑まれて、その場の人々も「さすがに血は争えない」と感心していました。
思いがけず、滅多に歌を詠まれない中宮が
九重ににほふを見れば桜狩 重ねてきたる春かとぞ思ふ
と返歌を下さったのも大輔には記念すべき歌人としての華やかなデビューとなりました。
 若手を推薦した紫式部といい励ましの歌を返された彰子中宮といい華やかな内裏でのエピソードには爽やかで心温まるものも少ないのでしょうね。それらは歌集や詞書、随筆、日記などから推量を重ねていって伝わってくるものなのでしょう。

 その後、大輔は彰子の政敵?である中宮定子のいとこの高階成順(なりのぶ)と結婚しました。歴史上でも有名なお二人の中宮とも縁の深い歌人としての生涯をおくったといえます大輔の歌は後拾遺集に27首、新古今集に7首、また、代々の勅撰集に50首ほど入集しています。また、家集に『伊勢大輔集』があります。
 康保三年(1060)頼通主催の志賀僧正明尊の九十賀に歌を詠んだ歌が最後の記録として残っています。1007年に宮廷に10歳くらいから仕え始め最後の歌が1060だとすると六十五、六歳で亡くなったのでしょうか。
勅撰歌人の康資王母、筑前乳母、源兼俊母などの勅撰歌人を産みました。幸せに充実した一生を送ったことでしょう。

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