小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

崇徳上皇3 西行と清盛と後白河 

2016-07-21 | ちょっと寄り道
 
 西行は俗名を佐藤 義清(さとう のりきよ)という北面の武士で清盛の朋輩として共に御所の護衛をしていましが、その一方で和歌に優れた才能があり朝廷へも自由に出入りができました。
 源氏物語に書かれているように官位の高い宮廷人にはサロンがあり、囲碁や貝あわせ、蹴鞠、歌会、演奏会など優雅な集まりがありました。中でも歌会は盛んで身分の上下に関係なく強い絆が結ばれていたりしたようです。
待賢門院璋子のサロンはとりわけ華やかで西行の歌才が愛されていました。
 崇徳天皇もここの常連で西行との歌論などで賑わって歌会も盛んでした。璋子が落飾した折に一緒に尼になった堀河の歌も百人一首に選ばれています。一説には西行が生涯璋子を思い続けていたとありますが、崇徳とも固い友情で結ばれていました。清盛から天下の情勢を聞くにつけて心を痛めていた西行ですが宮廷内の権力争いの渦を見て嫌気がさして出家したそうです。璋子と崇徳が凋落していく有様に対してなんと無力な自分を呪ったのかもしれません。漂白の歌人西行はひたすら亡くなった方への菩提を弔い、権力を掌中にした清盛へは各地の情報を知らせ、寺の建立や改修を請うたのです。
 西行は讃岐院の没した三年後に崇徳が荼毘にふされた地へ赴き近くに庵をむすんでしばらく滞在して冥福を祈ったといいます。

歌人 崇徳上皇
「久安百首」「詞花和歌集」などの歌集があります。
    
   瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
   ここもまたあらぬ雲井となりにけり空行く月の影にまかせて
   浜千鳥跡は都に通へども身は松山に音をのみぞ啼く
   命あれば茅か軒端の月もあり知らぬは人の行末の空
   啼けば聞く聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎす
   (上皇の遺跡の多い付近ではホトトギスが全く居なくなった)

西行
勅撰集『詞花集』『千載集』『新古今集。家集『山家集』『山家心中集』『聞書集』、

   今宵こそ思ひ知らるれ浅からぬ 君に契りのある身なりけり
   世の中を背く便りやなからまし 憂き折節に君逢はずして
   松山の波の景色は変らじを かたなく君はなりましにけり
   身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
   よしや君昔の玉のゆかとても かからん後は何にかはせん

 このように崇徳院と西行の心のつながりは強く固い物でした。
 一方、清盛は全くの硬派です。
 祇園女御という女性が居ました。白河法皇の色好みは見境がありませんでした。男子が生まれれば僧にし、ときには「おぼえがないのう」ととぼけられるのです。中には愛着を感じていつまでも傍に置いておく女性も何人もいました。祇園女御もその中の一人で待賢門院璋子を最初に養女にした人です。白河法皇はこの女御の妹にも手をつけました。そして、海賊退治などで名をあげてきていた平忠盛に下賜したのです。当時、忠盛は女御の屋敷の警護もしていました。その頃は高い位の人から女人を下げられるのは名誉なことでした。その妹は男の子を産むと亡くなりました。その子が清盛で法皇の命名だという説もあります。しばらくは祇園女御の元で育てられましたが、忠盛が藤原宗子(出家してからは池禅尼)を正妻として迎えたので忠盛の元に引き取られました。
 宗子は崇徳の皇子の重仁の乳母になります。天皇の乳母ともなると大変な出世です。また宮廷で大きな力をもつことになりました。本来なら保元の乱では崇徳側につくべき清盛がなぜ後白河の方へ味方したのか。
この点については多くの学者さんたちが史書や古書を読み解きつなぎ合わせて各自の説をたてられておられますが、そうした本でさえ理解できない複雑な世界で簡潔に説明できません。
 無数の貴族とその縁戚関係、寺社仏閣。さらにフリーセックスによる子沢山などが複雑に絡んで、出世競争に権力争い…天皇家だけでなくどの貴族の家にでもある跡目争い…本に出てくる人名整理も大変!おまけに名前も位階もころころ変わりますし。ですから個人的情緒的になんとなく好きになった清盛の思いを想像するだけです。そして、その清盛はわたしがそうだったのではないかという清盛像でしかありません。

 一方、後白河法皇は「うつけ」と周囲から無視されて育ってきたので誠に自由人でした。庶民が歌う今様=遊女(あそびめ)や傀儡子(くぐつ)などの女芸人によって歌われ、広められた流行歌)が大好きで女芸人に弟子入りして、今様を伝授され、ついには自らも歌い作るまでになってしまいました。そし崇徳が和歌を遺したように後の世にも残しておきたいと後白河が遺したのが「梁塵秘抄」です。

   遊びをせんとや生まれけむ
   戯れせんとや生まれけむ
   遊ぶ子どもの声きけば
   わが身さへこそゆるがるれ

 こうした今様を通して後白河は人の心の複雑怪奇さを学んだのでしょうか。それに「うつけ」と馬鹿にされていた不遇時代との相乗によって頼朝に「日本国第一の大天狗」と唸らせるほどの不可解な独裁者へと育っていったのかもしれません。清盛の力を利用しつつ二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代にわたって院政をとり、清盛を天皇の外祖父まで引き上げた段階で頼朝に平家討伐を命じました。また義経に頼朝追討の令をも出します。武家勢力から朝廷を守り抜くために奮迅努力し続けたのが後白河法皇だったのでしょう。
 崇徳上皇はどこか源実朝を彷彿させられます。
 世界に向けて(子供の頃から地球儀を持っていたらしい)飛び立つために権力を掌握しようとした清盛は武士でも貴族でもなかったような気がしています。

清盛  1118年生~1181年没
西行  1118年生~1190年没
崇徳  1119年生~1164年没
後白河 1127年生~1192年没


 過日、京都の花園にある法金剛院に行った写真がでてきたのでアップします。
 花の寺としても有名です。

            


コメント
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