小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

金子みすゞ  終わりに

2014-04-11 | 金子みすゞ
金子みすゞの短い生涯を駆け足でめぐってきました。
最後に下関の「上山文英堂」の店員としてやってきた日と自殺する日に写真店で撮影したみすゞの写真を掲載します。

         

また、これら(ここにはその一部ですが)を素に書いた脚本に飛べるようにしました。
よければお読みくだされば幸いです。「みすゞ哀歌」



参考文献&写真
「金子みすゞ全集」(JULA出版局)
「金子みすゞの生涯」(矢崎節夫著・JULA出版局)
文藝別冊「総特集金子みすゞ」(河出書房新社)
「金子みすゞ」「金子みすゞと女性たち」(江古田文学)
その他
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みすゞと男たち  詩人・西条八十

2014-04-07 | 金子みすゞ
 西条八十は有名な詩人。
 明治二十五年、東京、牛込生まれ。早稲田大学英文科卒業。大正八年に詩集「砂金」、翌年には訳詩集「白孔雀」を出版して詩人として認められる。貧乏詩人で盲目の母との二人暮らしだったが、春子と結婚し、母校の英文科講師となり、フランス留学後には仏文科教授となり、ようやく生活が安定した。
 このフランス留学の時期がみすゞの投稿作品が選ばれなくなった時に当たる。鈴木三重吉らの童謡運動にも参加して、多くの童謡詩を作り童謡誌「童話」の選者でもあった。その芸術性は北原白秋と並び称された。
 だが、昭和以降は「東京行進曲」「青い山脈」など、主に流行歌の作詩に転向して芸術的には見るべきものを残していないが、莫大な財は築いた。

 テルが詩を書き始めたのは八十の詩に触れて自分と同じ臭いを感じたからのようだが、確かに当時の八十の世界観の多くがテルの内部と共通するものが感じられる。テルは八十のような詩が書きたいと思い精力的に八十が選者を務めている雑誌に投稿を始めた。
 テルの詩はたちまち八十の琴線に触れ入選、特選を重ねていった。八十にしても同じ匂いのする新進詩人の登場は嬉しかったのだろう。というより、無意識に近い感覚で選んでしまっていたのではなかろうか。詩の上に於ける肉親のような感覚だ。 筆まめなテルはその都度礼状を書き更に精進に励む。

 そんな構図の中で八十が渡仏し、その間にテルの事情も大きく変化する。結婚である。
 八十が帰国した頃は啓喜と正祐の確執でテルの周囲はもめ事が多く詩を書くどころではなかったのではないか。
 夫婦で文英堂を出て出産。ようやく、テルが作詩の世界に戻っていけると思った矢先「童話」が廃刊となった。テルは投稿場所を失ったが八十の強い推薦のおかげで「童謡詩人会」の入会が認められるという朗報が舞い込んだ。「大漁」と「お魚」の二編が「日本童謡集1926版」に著名な詩人たちの詩と共に掲載されもした。
実生活の暗さに反してなんと輝かしい世界であろうか。

 八十は「童話」が廃刊になってから「愛誦」という雑誌を主宰し始め、テルの詩は度々誌面を賑わした。何通もの手紙が八十の元に届いたことだろう。一度でもお会いしたいという思いも伝えていたのだろうか。
 八十は九州へ講演に行く途中、連絡船に乗る待ち時間を利用してみすゞに会ってみようと時刻を知らせた。編集者も一緒だったのだろうし、時間は僅かしかなかった。

★(前略)私は予め打電しておいたが、夕ぐれ下関駅に下りてみると、プラットフォームにそれらしい影は一向見あたらなかった。時間をもたぬし私は懸命に構内を探し回った。やうやくそこの仄暗い一隅に、人目を憚るように佇んでいる彼女を見いだしたのだったが、彼女は一見二二、三歳に見える女性でとりつくろはぬ蓬髪に不断着の儘、背には一二歳のわが子を負っていた。
作品に於いては英のクリスティナ・ロゼッテ女史に遜らぬ華やかな幻想を示してゐたこの若い女詩人は、初印象に於いては、そこらの裏町の小さな商店の内儀のやうであった。しかし、彼女の容貌は端麗で、その眼は黒曜石のやうに深く輝いてゐた。「お目にかかりたさに山を越えてまゐりました。これからまた山を越えて家へ戻ります」と彼女は言った。(後略)…『蝋人形』昭和六年九月号「下関の一夜」より…★

 みすゞは手紙と違って寡黙だったらしい。多分、八十は地方の良家の娘か若奥様を想像していたのだろう。自殺を知ったのちの文章でありながら、初見での落胆ぶりをこの文章から感じるのはおかしいだろうか。

 みすゞは自分の詩集を出版することを、実は、熱望していた。
 八十も協力しようというようなことを言っていたのかもしれない。しかし、一部でしか知られていない詩人の詩集を出版したところで営業的には無理なこと。出版社も利潤を追求する企業なのだから仕方ない。結局は八十も苦労してかき集めたお金で処女詩集を出版に漕ぎつけたように自費出版か買い取る契約しか方法はなかったと思う。
 八十も協力しようというようなことを言っていたのかもしれない。しかし、一部でしか知られていない詩人の詩集を出版したところで営業的には無理なこと。出版社も利潤を追求する企業なのだから仕方ない。結局は八十も苦労してかき集めたお金で処女詩集を出版に漕ぎつけたように自費出版か買い取る契約しか方法はなかったと思う。
 下関でみすゞに会った八十は詩集の出版は無理だと判断したのだろう。前書きや推薦文はいくらでも書く用意はあったが、私財を投じてまで協力する気はなかったのではないか。だから、下関駅で会った翌々年に手書きの三冊の詩集が送られてきてもあまり気にとめなかった。「金子みすゞの生涯」の著者の矢崎氏が八十の娘さんに家捜しをして貰ったが出てはこなかった。
 遺書代わりとも考えられるその三冊の詩集を八十はどう受け取ったのだろうか。
先に引用した「下関の一夜」を書いたとき(それはみすゞの死から一年半後のこと)その詩集は八十の傍にあったのだろうか…。

 昭和四十五年八月没。享年七十八歳。

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みすゞと男たち  伯父&義父・上山松蔵

2014-03-24 | 金子みすゞ
伯父&義父・上山松蔵
 上山松蔵は旧姓を石田松蔵といい、文久二年(1862)に兵庫県の農家に生まれた。十歳の頃、大阪に出て書店に奉公に出た。ここで上山という老女の養子となって石田から上山に改姓し、独立。山口県の萩で書店を始めたがうまくいかず、店を下関に移し「上山文英堂」として開店した。三十九歳でテルの母の妹、フジと結婚。
 文英堂が大きくなったのは日露戦争の折に中国に日本人で最初の書店を出したことにあるという。外地での兵士たちは日本語で読めるものに飢えており、どんな本でも、定価よりも高くてもいくらでも売れた。松蔵は商才にたけており、五店にもふえた中国各地の支店に定価を貼り替えた書籍や雑誌を次々と送り込んだという。
 その支店の一つを任されたのがテルの父親で反日感情のトラブルで殺害された。それは、テルの夫になった啓喜が若くして株で大金を掴み花街で派手に札びらを切っていた頃でもある。

 松蔵は戦争が終結して不景気の波が襲ってきても、株屋の啓喜とは違い、しっかりと基礎固めをすませ、本店の他に三軒の支店を持ち九州方面への卸しもやりと、大きな規模の書店を作り上げていた。
 その経営方針はかなり厳しいもので、常時五,六人居る店員は朝の五時から夜は十一時頃まで休む間もなく働かせた。しかも、暇な時期になると茶碗を割った程度のしくじりを盾にとって解雇し、多忙な時期になると職安から新しく雇い入れるという技を多用していた。店員は常に初任給で使おうという魂胆だったのだろうか。いずれにせよ、ローマ字入りの下関の地図を発行したり紙質にも詳しくやり手だったことは間違いない。

 松蔵がどういう経緯でテルの母親の妹フジと結婚したのかはわからないが、この結婚がテルの父親の死をはじめとし、金子家に多大な影響を及ぼした訳で運命をも左右したのである。
 若いときの遊びが祟って子供が出来なかったとの説もあって、松蔵は正祐を養子に貰い受けたのだが、その溺愛ぶりにはいささか驚かされる。フジの死後は正祐の為にと実母のミチと再婚までしている。一代で築いたものをわが子に継がせたいのは当然ではあるが、その正祐とその姉であるテルへの接し方の違いを見ると首を傾げたくもなってくる。あまりにも正祐には甘すぎるし、その出生の隠し方も異常である。徴兵検査があることなどは当然知っていただろうし、戸籍謄本を見れば一目瞭然なのになぜそこまで悪あがきのようにしてまで隠したのか?
 これが、もし、実子であるのならと仮定すればすべてに納得がいく。妹の後釜として嫁いでいったミチ、テルを引き取って店員扱いをしたミチ、不幸になるとわかっていながら松蔵の意向に逆らえずに啓喜にテルを嫁がせたミチ。すべては、正祐の出生の秘密を守るためではなかったのか?であれば、愛を貫いた近代的な女性としての尊敬にあたいするのだが…。

 松蔵はテルの死んだ翌年(昭和六年)の四月に六十九歳で死去した。
正祐は葬儀に帰省した後、ミチの葬儀(昭和十八年)まで一度も下関には帰っていない。従って彼の文英堂は跡継ぎとして育てた正祐以外の金子家の人々のものとなって、やがて、破産してしまった。皮肉なものである。
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みすゞと男たち  夫・宮本啓喜

2014-03-20 | 金子みすゞ
夫・宮本啓喜

〈廣告塔〉
さやうなら
さやうなら

汽車のうしろの赤い灯は、
はるかの暗に消えました。

あきらめて、
くるり廻れば
はなやかね、
春のいい夜の空。

廣告塔の赤い灯は、
みるまに青くなりました。


 啓喜は熊本県人吉で酒屋と氷の卸業を営む宮本家の長男として明治34年一月に誕生。両親は実直な人で長男の啓喜を溺愛していたらしい。酒も 煙草もやらない父親の唯一の楽しみは芝居を見ることで、幼い頃から啓喜をよく連れて行ったという。啓喜も芝居が好きで役者の真似をして遊ぶのが好きだった。弟妹にも恵まれ、幸せな子供時代である。だが、小学校を卒業する頃に母親が亡くなって、後妻がきた。継母との折り合いは悪く啓喜は飛び出すように家を出て博多に行った。

 博多は人吉に較べると大都会であった。就職先は株屋で仕事見習いとして入った。株屋は一攫千金を夢見る男たちが集まってくる場所だ。時は第一次大戦のさなかで博多の街は活気づいていた。中学を出たばかりの少年は大人たちから可愛がられ、儲かった金で遊郭遊びなどにも連れて行かれた。やがて、見よう見まねでやりはじめた株で大儲けをする。儲かれば貯蓄に回す、などとは思いもよらず、啓喜の花柳界通いは激しいものがあった。おっさん連中にあって、若く、背も高い二枚目。しかも、金離れもよいときていればもてない訳がない。母の愛に飢えていた啓喜にとってちやほやしてくれる女性たちが、たとえお金のためであると知っていても、その瞬間瞬間を幸せにしてくれれば、それでよかったのだろう。

 しかし、よい時期は長くは続かない。それは、大正七年の第一次大戦の終戦で終わり、深刻な不況の時代がやってきたのだ。株式市場の暴落が続き、若い啓喜はもう、この業界で生きていくことが出来ず、一度は熊本に帰る。父親は次男と熊城園という看板を上げて氷にかけるシロップの製造を始めていた。しばらくは手伝ってみたものの居場所がないこともあって卸し代金を持って華やかな博多に舞い戻る。

 だが、仕事もみつからず将来を悲観して馴染みの芸者と心中事件を起こす。相手は死んで啓喜は生きていた。二人の決意を語る遺書があったので無罪放免となった。
もう、博多にはいられなかった。そこで、関門海峡を渡った。東京に行こうと思っていたのかもしれない。もしかしたら、旅費が足りなかったのだろうか。なぜか、下関の職業安定所を訪ねた。そこで紹介されたのが上山文英堂であった。頭の切れる啓喜はどう動けば気にいられるかということを心得ていて、主人の松蔵の受けも良く信用もされるようになった。数ヶ月で番頭格まで抜擢されている。やっと居場所をみつけたような気分だったのだろう。その思いがさらに啓喜を仕事熱心に向かわせた。

 主人の継子で女将さんの娘であるテルとの縁談を松蔵から打診されたのはその頃だった。文英堂の安い給金では株屋にいたときとは違って花柳界に遊びに出かけることは出来なかったが生来の女好きは直らず人妻や素人娘との火遊びが盛んだったらしい。外泊をきつく松蔵に叱られたりしていた。それでも、松蔵は啓喜の商売熱心を買ってテルの相手に白羽の矢を立てた。
 正祐のテルへの想いが強まっているのを危惧していたのだが、テルの手頃な相手が身近にいなかったのだろう。啓喜としては主人の親戚となるのだから異存はない。いずれはのれん分けしてくれるという約束でもあり、あの正祐坊ちゃんは文英堂を継がないかもしれない。そうすればこの店は俺の物になる。相手の人柄などはどうでもよかった。お金さえあればいくらでも遊べるのだ。ただでさえ女の地位が低かった時代である。詩を書く女などは啓喜の周囲には存在せず理解の範囲を超えた相手であった。

 ま、結婚してしまえばなんとかなるだろう…。それが大きな誤算であったことは結婚して間もなく知ることになる。
大正十五年の二月十七日に結婚式を挙げ啓喜とテルは文英堂本店の二階で新婚生活を始めた。主人代理という立場になった啓喜は以前より一層商売に励んだ。もう、使用人ではない、自分の店のような感覚が仕事に励ませた。ところが、それがいけなかった。坊ちゃんで芸術方面指向の正祐と事あるごとにぶつかるのである。松蔵のやり方を踏襲しようとする啓喜が正祐には阿漕に見えた。そんな男の妻になったテルが可哀相との思いもあった。

 四月に商売でドジを踏んだ正祐は家出をした。理は啓喜にあったのが耐えられなかったのか。それを機会に店は継がないから東京の音楽学校に行かせてくれと松蔵に要望書を出す。正祐に店を継ぐ気がないのであればと啓喜は正祐の不始末を自分のせいにした。
 だが、松蔵は啓喜が正祐をいじめたように思い、首を切る。何人かの女が店に訪ねてくるのも松蔵の不興を買っていた。そして、さすがの松蔵も。首を切るに当たってテルを離婚させようとする。

 しかし、テルは妊娠していた。父親が早くに死んだために幸せとは言えない育ち方をしてきたテルにとってお腹の子供の父親は切り捨てるわけにはいかなかった。だから、ついて行く選択をした。だが、啓喜の方はどうだったのだろうか。
文英堂という宝が掌中から滑り落ちたとき、元の自由な身に戻りたかったのではなかろうか。その反面、一緒に出てくれるということはひどく嬉しかったのに違いない。不運な我が身を嘆きながらテルを連れて文英堂を出ていった。引っ越したのは文英堂から歩いて十五分くらいの距離にある借家。啓喜はこの家から職探しに出ていき、職を転々としたらしい。翌年、長女のふさえが誕生。貧しいながらも家庭というものが成立した。
母親を早くに亡くし、継母との折り合いが悪かった啓喜にとって温かい自分の家庭を持つことは心中によって一度は諦めた「夢」であった。ふさえの誕生は啓喜とテルに希望を与えた。

啓喜はやりなおそうと思ったのか、テルとふさえを連れて熊本の実家に向かった。長男でもあることだし、商売には自信もある。家業を継ごうと思ったのではなかろうか。しかし、順調に発展している家業は父と弟の苦労の結果であった。右に記した「広告塔」という詩には見知らぬ土地へ流れていくテルの哀しみと決意が揺れているように感じてならないのだが、本当のところテルの気持ちはどうだったのだろうか…。

下関での啓喜は評判が悪いが弟妹たちにはやさしい兄だったようで雑誌や教科書などを送ってやったり下関に呼んで観光させたりもしている。だが、父親にすれば極道者で一度は勘当した啓喜に家督を譲るわけにはいかなかった。父親は筋を通す人であった。家督は共に商売に励んできた次男のものである。

やはり、人吉には啓喜の居場所はなかった。一家はひと月あまりで下関に舞い戻った。しかし、期するところがあったのか、下関に戻った啓喜は「辰巳屋」という名の菓子問屋を始めた。射幸心を煽るということで警察の取り締まりの厳しかった籤つきの駄菓子も扱った。これは警察との関係でどうにでもなるもので別段お咎めもなく商売は軌道に乗り始めた。しかし、テルは子供の心を弄ぶようなあたりはずれのある商品を扱うことを厭がった。店を手伝うこともなく、家事と育児の間に細々と詩を作っていた。啓喜はそんな妻が不満だった。

詩を作る妻。従順だけど、どこかで自分を蔑んでいる妻。
 テルはかって勤めていた商品館気付けで投稿仲間との文通を続けていた。筆まめなテルの手紙は相当数あるらしい。手紙を書いているときのテルは楽しそう、そんな顔を向けられたことのない啓喜は家庭がくつろぎの場ではなかった。ふさえは可愛かったが、妻は別の世界の住人だった。金を稼ぐということがどんなに大変かを知らずに金を蔑む妻であった。あの正祐とは文英堂行けば、今もブンガクや音楽などの話をしてるらしい。それも、面白くなかった。商売がうまく行き始めると啓喜は無条件に自分を受け入れてくれる遊郭へと通い始める。丸ごと包み込んでくれるような女たちの中に母がいた。妻にはないあたたかさがそこにはあった。

 しかし、そこにも落とし穴があった。知らない内にとんでもない病気をうつされていたのである。淋病だ。
それは、テルの発病によって発覚した。テルは、そのことを周囲に隠し抜き、啓喜を責めることもしなかった。まだ、騒ぎ立ててくれた方が、非難してくれた方がどんなに救われたことか。啓喜は妻に詩作と文通を禁じた。そのくせ、自分は遊郭に逃げ込む。家庭は地獄となっていき、啓喜の外泊がふえた。

 啓喜が家を空ければテルの時間がふえる。妻が、自分の詩集を手書きで作り始めたことを啓喜は知らなかった。悪化していく妻の姿が自分を責める。順調にいっていた辰巳屋が音を立てて崩れていく。ふさえを鎹としたガラス細工のような家族であった。立派な店舗は人手に渡り、二年の間に三度もの引っ越し。下関にあった一番格の低い遊郭のまわりばかりを転々と、家賃の安い家へと移っていった。

 ついに、妻から離婚を申し出られる。テルは病状を隠していたこと…経済的なことからかなり悪化していた。まともに歩けないほど…。当然の成り行きではある。啓喜はあっさりと離婚を承諾した。だが、こうなってしまったのは、啓喜一人のせいなのだろうか。
 妻子が出ていった後で啓喜は考えた。このままでは死ぬしかない。せめて、ふさえが居てくれたら立ち上がれるのではないか。親権は自分にある。ふさえを取り戻そう。父親としての思いに偽りがあったとは思えない。だが…迎えに行くと伝えた日の朝、テルは自殺してしまった。

「あなたがふうちゃんに与えられるのはお金であって心の糧ではありません…」啓喜にはむごい遺書が遺されていた。「命を投げ出してみすゞは娘を守った」と後世の人が語り継ぐほどに啓喜は悪人にされてしまった。だからこそ、なんとかしてふさえを自分の手で育てたかった。啓喜は頑張った。法律を味方につけた啓喜の願い。一度は上山家も折れたものの、松蔵と父親の話し合いの結果ふさえは取り上げられてしまう。 もう、こんな所には居られない。啓喜は上京した。それと同時に、資料の中から姿を消すのである。
 七年後の昭和十二年に再婚。子供にも恵まれて、やっと平穏な家庭を築いたようだ。
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みすゞと男たち  弟・上山正祐

2014-03-16 | 金子みすゞ
〈お菓子〉
いたづらに一つかくした
弟のお菓子。
たべるもんかと思ってて、
たべてしまった
一つのお菓子。

母さんがふたつツていったっら、
どうしよう。

おいてみて
とってみてまたおいてみて、
それでも弟が来ないから、
たべてしまった、
二つ目のお菓子。

にがいお菓子、
かなしいお菓子。

 みすゞの二歳年下の弟。生後一年で母の妹である子供の居ない叔母のフジの元へ養子として貰われていった。養子であることは絶対の秘密であることが約束されていた。それは、叔母で養母となったフジが姉のミチのいる仙崎にも余り来なくなったことでも窺われる。正祐はフジの夫である松蔵からも我が子以上に溺愛されて育った。そのために我が儘なお坊ちゃんに育ってしまった。

 下関の商業高校を卒業した春、仄かに恋心を抱いていた二歳年上の従姉のテルがやってきた。同じ屋根の下での起居が出来ることにさぞや胸をときめかせたことだろう。伯母だと思っているミチの娘であることは知っている筈だった。なのに何故テルは自分の立場を主張せずに使用人扱いで甘んじたのだろうか。

 正祐は書店経営者の修行としてテルが来た翌月に東京の大きな書店に送り出された。跡取りとしてのこの道は松蔵が用意したものである。
 だが、その年の10月、関東大震災に遭遇して帰ってきた。五ヶ月余りとはいえ、日本橋の本屋で働いていたのであるから東京の文化をしっかり吸収してきたことあろう。帰ってみれば、自分が勧めた詩作に励んだテルはすっかり投稿童謡作詩家として知る人ぞ知るという立場になっていた。さぞ、眩しく嬉しかったことだろう。

 その後、再建なった東京へは出ていかず文英堂の若旦那として店を手伝うことになる。松蔵も還暦を過ぎた年で、もう、正祐を遠くに出すのが心配だったのかもしれない。早く嫁でも迎えて店を渡し、孫の顔が見たいくらいの心境だったのだろうか。しかし、正祐はまだ十九歳。一途にテルへの思慕を募らせ、作曲やオルガンに夢中になっていた。
 二十二歳の時、徴兵検査の赤紙がきて正祐は初めて自分が養子であることを知り驚愕、自分の置かれた立場を思う。その驚きと怒りの嵐が去った後は家業に精を出そうとし始める。この時はまだ、ミチが実母でありテルが実姉とは知らされていない。なぜ、戸籍を見なかったのかという疑問が残るが…。
 今は、しっかり店の仕事をしてテルちゃんと結婚できるようにしたい。そう思っていたのだろう。当時、いとこ同士の結婚はそう珍しいことではなかった。

 しかし、正祐の思惑ははずれる。頭の切れる働き者の番頭として宮本啓喜という四歳年上の男が雇われて松蔵の信頼を得ていた。丁寧な態度ではあるが啓喜は正祐の商売上のミスを注意してくる。坊ちゃんの甘さを指摘してくる。松蔵は正祐にテルへの思いを断ち切らせる為に見所のある男としてそんな啓喜にみすゞを娶らせようとする。正祐には納得のいかない縁談だった。「建白書」を松蔵につきつけて訴え、みすゞに駆け落ちを迫った。そして、遂に、実の姉弟であることを知る。 みんなが知ってることを自分だけが知らなかったこと、恋する人が姉であったことは大きな打撃を正祐に与えた。それでも、啓喜との縁談は断わるべきだと説得する。正祐には啓喜がまともな男にはどうしても思えないのだ。

 結局、みすゞは啓喜の妻となった。親戚になったから啓喜は使用人達の中ではトップの座を占め、以前より商売に励んだ。正祐も敵愾心を燃やして商売に勤しむ。だが、所詮は坊ちゃん育ち。成り上がっていこうとする啓喜の迫力には追いつかない。ついに、些細なことで切れた正祐は家出を試みるが松蔵に探し出される。負けた悔しさがそう言う形でしか動けない正祐に苛立ちながらも松蔵は新婚間もない啓喜を馘首する。正祐はどこまでも大切な跡取りであった。
 啓喜がテルを連れて文英堂を出ていく姿を正祐はどんな思いで見送ったのだろうか。早晩、帰ってくると踏んでいたのか。だが、テルは妊娠していた。父を幼くして亡くしたテルには子供の父親は無くてはならない存在なのである。

 もしかしたら、この頃の正祐は急速にテルへの興味を失っていってたのかもしれない。青年期特有の潔癖さから、腰に丸みを帯び、やがてお腹の膨らんでゆくテルの姿は不潔にさえ思えたとも思われる。そして、正祐が愛したテルはみすゞとなって昇華されてゆく。その一方でライバルを失ったことで商売への熱意も薄れ作曲やミニコンサートを開いたり、シナリオの勉強などに精を出していた。心は東京に行っていた。
 たまに来るテルはいつも赤ん坊をおんぶした所帯じみた姿であり、もう、かってのように文学や音楽や詩の話を持ちかける雰囲気は持ち合わせていない。正祐はそんなテルに「テルちゃんは平凡になった。みすゞはどこにいった」と詰ってしまうのである。
 テルにとって一番大切な物が詩作でなく赤ん坊にいってしまったことが二十二歳の正祐には寂しい限りだった。

 もう、ここには居たくなかった。正祐は執拗に上京の許しを松蔵に乞う。根負けした松蔵は期限付きでそれを許した。許さなければ家を出て行ってしまうよな迫力があったからである。二十三歳でようやく正祐は上京する。それも本屋修行ではなく、自分の夢を叶えるために。運良く文藝春秋社の「映画時代」の編集部に入社できた。シナリオを学べる職場であった。充実した一年半の月日が流れ、恋人もできた。
 そこにテルの死が伝えられて帰省。テルは自死。そこまで追い込んだ責任の一端を感じたのだろうか。離婚問題や娘の親権の問題での相談の手紙の往復はあったが、仕事に紛れて真剣に相談に乗れなかったようだ。そこまで追い込まれていたとはと慟哭したのだろうか。遺書と共に三冊の手書きの自作詩集が遺されていた。

 テルの葬儀一切が終わると倉橋五百子を呼び寄せて結婚し、文英堂に腰を落ち着けたかに見えたが、翌年、松蔵が亡くなると「成功するまでは絶対に帰らない」と再度、上京し三十七歳の時の母のフジの葬式まで一度も帰りはしなかった。帰省はしなかったがフジの生存中はよくお金の無心はしてきたらしい。やはり、坊ちゃんだ。
 葬式がすむと東京にとって帰り、以後は東京で暮らし、後年は「劇団若草」を創設し、その方面では知られる人フジとなっていた。おかげでフジの葬式は立派であったという。
 祖母にあたるミチに育てられていたテルの遺児の房江をミチの死後、正祐は面倒をみたのであろうか。それとも、遠い存在でしかなかったのだろうか。興味のあるところである。
 平成元年没。享年八十四歳。
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