小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

二月十一日、十二日

2016-03-31 | 嘉永四年 辛亥日記


二月十一日  
学校へ出る。
山口、秋田より返書がくる。
そのほかは何事もなし。
唐詩選の会に七、八人来た。
小梅は舞妓の絵を描く。


二月十二日  
曇るる。風呂を焚く。
今日は家にいる。
昼過ぎに九右衛門殿が礼に来た。昨日が忌み明け。
あり合わせで酒を出す。
今日も小梅は画を描く。
しかし、ここ四,五日は気分が優れず何事も出来かねない。
画の彩色も悪い。
夜、岩一郎は市川へ行く。
山源に足袋を取りに行った。


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紀州十三代藩主 徳川慶福

2016-03-29 | 嘉永四年 辛亥日記

後の第十四代将軍徳川家茂です。
弘化3年(1846年)閏5月24日、紀州藩第11代藩主・徳川斉順の次男として江戸の紀州藩邸で生まれました。祖父は十一代将軍の徳川家斉で十三代将軍の従弟に当たります。
実父の斉順は家茂が生まれる前に亡くなっています。幼名は菊千代。
第十二代藩主の徳川斉彊が死去したために養子となって四歳で十三代紀州藩主となりました。勿論、四歳では政務は執れませんから、隠居されていた十代藩主の徳川治宝が行っていました。治宝が亡くなると家家老の水野忠央が実権を握りました。そして伊達千広(陸奥宗光の父)をはじめとする藩政改革派を弾圧しました。
伊達千広は一般的には陸奥宗光の実父として知られていますが、なかなかの人物で劇的な生涯を送った人なので後日調べてみたいです。
家茂は紀州藩主としての治世は9年2か月であり、この間、江戸に居続けたまま将軍となったため、江戸参府も紀州帰国もなかったので本当に名前だけの藩主だったようです。

時は幕末となっていました。
第十三代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、家定の従弟にあたる慶福は徳川氏の中で将軍家に最も近い血筋であるということで、彦根藩主井伊直弼大老らの支持を受けて十三歳で第十四代将軍とされてしまいました。と同時に名前も慶福から家茂と変わりました。実権は井伊大老が握っていた上に、ライバルだった一橋慶喜(二十三歳)が後見についたので若さもありますがなかなか思い通りにはならなかったのでしょう。
家茂といえば皇女和宮との公武合体結婚がよく知られています。政略結婚ではありましたが、徳川家歴代の将軍と正室の中で最も夫婦仲が良かったということです。
文久三年(1863年)には将軍としては229年振りとなる上洛を果たし、義兄に当たる孝明天皇に攘夷を誓いますが慶応二年(1866年)、家茂は第二次長州征伐の途上大坂城で病に倒れました。京都や江戸の著名な医師が多数派遣されましたが、薬効の効果なく同年七月二十日の薨去しました。二十一歳の若さでした。



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「紀州藩十代目藩主徳川治宝」

2016-03-28 | 嘉永四年 辛亥日記

歴代の紀州藩主の中で一番輝き業績を多く残したのが第十代の徳川治宝公(はるとみこう)です。
明和8年6月18日(1771年7月29日)、第8代藩主・徳川重倫の次男として生まれました。幼名は岩千代。
八代藩主の重倫が隠居したとき、岩千代はまだ幼少だったので、成長するまでの中継ぎとして、大叔父である松平頼淳改め徳川治貞が第九代藩主となり、安永6年(1777年)には治貞の養嗣子という形をとって次の藩主になること決められました。
なんだか手続きがややこしいですね。治貞公に実子がいれば一騒動起こったかもしれません。
治宝公は天明2年(1782年)3月7日には元服し時の将軍の徳川家治の一字を賜って治宝と改名し、寛政元年(1789年)10月26日、治貞の死去に伴って第 十代目の藩主に就任しました。十八歳の若い殿様です。
治宝公は「数寄の殿様」という名で庶民から慕われていました。つまり、趣味が多くそれを藩政に反映させたからでしょう。
学問好きで知られた治宝は、紀州藩士の子弟の教育を義務化し、和歌山城下には医学館を、江戸赤坂紀州藩邸には明教館を、松坂城下には学問所を開設するなど文武両道において若者の教育に力を入れました。現在、これら藩校の蔵書は紀州藩文庫に保管されています。
当時の松阪城下は紀州藩の藩領となっていて、松阪城は当地を統括する城として城代が置かれていました。そこで治宝公は学問所を設置したのでしょう。紀州の藩校の教師たちが出張講義にでかけていた資料なども残っています。
治宝は本居宣長に吹上御殿で講義をさせたり、『紀伊続風土記』の新撰を命ずるなど文化・芸術面での功績が非常に大きいのです。
書画、雅楽にも親しみ琵琶の演奏もしたそうです。
また茶道の表千家や楽家(楽焼き)を厚遇して文化の向上に努めました。今でもお庭焼きは有名ですね。
和歌浦の不老橋や表千家の総門も作らせたそうです。

ところが、文政6年(1823年)に紀ノ川流域で「こぶち騒動」と呼ばれる大規模な百姓一揆が勃発して、その責任を取る形で治宝公はその翌年藩主の座を養子としていた斉順(将軍・徳川家斉の七男)に譲ります。これは財政援助を行っていた幕府の強い圧力が背景にあったからのようで隠居となっても西浜御殿で藩政を行い続けました。
大好きな養翠園は西浜御殿の別邸で,池泉回遊式庭園で池に海水が混じっていて淡水魚が泳いでいます。船着き場があって驚いたりしました。
さて、弘化3年(1846年)に十一代の斉順公が死去しました。そこで問題になるのが十二題藩主を誰にするかでした。治宝公には娘しか誕生していません。もめた末に斉順公が当主を務めていた清水家から斉彊公を新藩主に迎えることになりました。
隠居後もこうして権力を保持し続ける治宝公に藩主側との軋轢が多々あったようです。しかし、紀州藩主としての治世は隠居政治期間を入れると64年もの長きに亘り、その歴史に残る功績も多く、歴代の紀州藩主のなかでは一番の名君として名を残しています。


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二月十日

2016-03-26 | 嘉永四年 辛亥日記

 
朝、藤四郎も一緒に一盃吞む。
で、八時に出るところが十時になって学校へ出た。
栗山の願書を差し出すために湊御殿へも行く。昼頃に帰る。
藤輔、浅之助、江川なども来て、支度していわとの神社へ参る。
これは山本省太郎殿の病気平癒を祈るため。
札五枚御初穂とありあわせの菓子を一箱持参した。
木本やから蛸を一鉢持参し、酒を田中店へ取りに行く。
その時、北野が来合わせて一緒に酒を吞む。
夕方過ぎに帰った。
今日から七日祈祷するとのこと。
お礼は江川甚蔵が山本へ持参する。
真菜を引いて漬けたが塩は梅本で借りた。
夜は金比羅へ岩一郎も母君も参り、岩橋左内での会(勉強会)から了吉も同伴して十時過ぎに帰宅した。



湊御殿
http://wakayamacity-bunkazai.jp/minatogoten/

紀州徳川家の別邸です。
ご隠居の十代藩主の徳川治宝公がここで政治を行っていました。
この日記の嘉永四年当時の藩主は十三代の徳川慶福で五歳でした。菊千代様と書かれています。


十代藩主の治宝公と十三代藩主の慶福公(後の十四代将軍徳川家斉)については明日にでも書きます。



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二月七日、八日

2016-03-23 | 嘉永四年 辛亥日記

二月七日 

快晴だが風が強い。
昼過ぎ、御駕町へ桑の枝と桃の枝に真菜を添えて持たせてやる。
安兵へも染め物の具合が良いと手紙をやった。
その後、内田の女のいさがきて行き違いだった。
伊藤泰蔵の養子の千二郎が入門。魚一籠(イトヨリ五匹)贈られる。
主人は三浦公へ稽古に行く。
田宮楠之丞が桑の枝を一本持参したので内田へ書面と一緒に持たせてやる。
今日は初甲子だ。
田中が茶の粉を持ってきた。



二月八日 


おおいに暖かい。
主人は学校の当番の後山中殿と岡野へ行った。
羊羹を二箱求めたが代金が不足していたので一箱は預けてあるそうだ。
山口らへ贈る予定らしい。
一箱十匁づつ。箱代が一匁五分。
八時過ぎに帰ってきた。




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