小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

遍路日記‥‥三日目‥‥2  

2015-05-10 | 四国遍路

20分ほど歩くと小豆洗大師の小さなお堂があった。弘法大師像を納めている。
堂の脇には約三メートル四方の井戸があり、さまざまな言い伝えが残っている。



何の変哲もない田舎道を歩き続けていると閉店したような酒屋さんの前に長椅子やベンチが置かれ、お茶も入れられるようになっていた。
これもお接待。しばらく休憩させていただく。
「ご自由にお持ち帰りください」の文字になにかと思えば小さな手製の布袋だ。
お賽銭用の小銭入れらしい。記念に一ついただいた。ありがとうございます。





ひたすら歩くとようやく山門が見えてきた。


やれ嬉しや‥‥しかし、そこから門前町らしき道がある。遍路用品販売店や表具屋さんやうどんやさんなどが並んでいる。表具屋さんから女性が出てきて荷物を預かってくれるという。ありがたいお接待!身軽になって元気に?歩き出す。





だが、長い。なだらかな登りの土道が続き、やがて333段の石段が始まる。
横には車道も本道まで続いている。
階段の踊り場に当たるようなところにお地蔵さんが並んでいらっしゃる。



ここでリタイアする人も多い。ちょっと休憩して登り始める。
女坂に続き男坂とあって、ここでは一段上るたびに一円玉を置いていく風習があるらしい。
やっと切幡寺本殿に到着した。12時40分。

   


十番札所 得度山 切幡寺
ご詠歌 欲心をただ一筋に切幡寺 後の世までの障りとぞなる

縁起によると、修行中の弘法大師が衣服を繕うとして近くの民家の機織り娘に布を所望すると織っていた布を切って渡してくれた。
それにいたく感動した大師は娘の願いを聞いて千手観音像を造ったとされている。
この寺で目立つのは多宝塔。豊臣秀頼が秀吉の菩提を弔って建立したもので重要文化財となっている。遠目にも素晴らしい。





ゆっくりと戻ると表具屋さんがお茶を出してくれた。
ザックを預かってもらったし申し訳ないのでお経が書かれた手ぬぐいを買った。謎解き絵みたいで面白い。
再度歩き始めたがもう一時近く、お腹がすいていた。
食べられそうな所のない平坦な道が尽きそうもなく続いていた。
教わったうどんやさんへの目印は四国電力変電所。そこを左折してゆくと道なりの左側にあるという。
変電所らしきものが見えてくると同時に「八幡」という、うどんやさんの大きな看板が目立つ。そんな名前じゃなかったよね。
やっと目指す幅広の道路に出た。右へ行けば八幡‥‥法輪寺で教わった「やまじゅう」は左。
八幡はみえたけどやまじゅうは影も形もないけれど、左折した。
重い足をひきずって進むと、あった!駐車場ように場所をとってるのでかなり建物は引っ込んでいる。14:00だ。





山かけうどんを頼んだ。天ぷら盛り合わせ一皿を三人でつっつく。
四国に来てやっと食べられたうどん。
なんというコシの強さ。出汁もおいしい。食後にはコーヒーがついてきた。
昼時を過ぎていたので店内も空いているからゆっくりできた。
そこへ浜松夫妻が入ってきた。再会を喜び合う。
奥さんの話によると殆どのお遍路は「八幡」に行くが、元ではこの「やまじゅう」が一番評判のいいうどんやさんだそうだ。
やはり地元情報というのはありがたい。
朝の7時半から歩きづめで足が悲鳴をあげていた。
本来なら吉野川の川島潜水橋を渡って次の藤井寺に向かうのだがタクシーで今夜の宿へ行くことにした。
ハイライトの一つなので心残りだけど仕方ない。
こんな時は一人で来れば良かったと思う。
川島橋近辺の宿に泊まるとかいろいろと応用がきくのだ。今はめんどくさいから流れに身を委ねる。
そして、そういうことは幾つも起こるのだろうなとちょっと不安でもあった。
さて、呼んでもらったタクシー。
運転手は若い女性だった。「ハチキン」というのだろうか。
男勝りで美しい。ちょっと取っつきにくいけれど根は親切。
15分ほどで今夜の宿の「民宿吉野」に着いた。15:20着。
藤井寺から焼山寺に向かう人には便利な宿と定評がある。予約しておいてよかった。
三人なので4畳半の部屋が二つ。仕切りを外してあるので広い。
一休みしてから十一番札所の藤井寺に向かった。
コメント
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