職業柄なのか様々な式典やイベントなどに出席を致しますが、よく流れる曲はダントツで「君が代」であります。
君が代の経緯については断片的に知っているだけでしたので、よくよく調べてみると、興味深い内容がありました。
「君が代は第三まであった」「君が代の作曲者に外国人もいた」「君が代には長い歌詞で二番まであった」この事実の経緯が紹介されていました。
私も音楽家(邦楽)の端くれですので国歌の君が代について最近興味深くなり、研究したいと思っています。
さて、君が代の作曲者に林廣守、奥好義、フランツ・エッケルト(ドイツ人)の名前が出てきます。
日本国歌の君が代の作曲者の一人に外国人が居たのには正直驚きました。
歌詞は古今和歌集の中から抜粋したそうです。
君が代の経緯は明治維新後に日本に国歌がないので、薩摩藩軍楽隊の音楽教師であるジョン=ウィリアム・フェントンが第一の君が代を作曲、歌詞の作成を薩摩藩砲隊長の大山巌に依頼しました。
しかし、第一の君が代は6年間使用されただけで、その後に第二の君が代作成にフランツ・エッケルトも携わりました。
明治12年ドイツから音楽教師として来日し、21年間滞在致しました。
昭和天皇の御大葬の時の「哀しみの極み」は明治30年にエッケルトが作成した曲です。
第二の君が代の歌詞は、当初「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて、苔のむすまで、うごきなく常盤かきはにかぎりてあらじ」
二番「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜はいる磯とあらはるるまで」
この長い歌詞は明治14年発行の小学唱歌集初編に掲載されていましたが、結局この長い歌詞は普及しませんでした。
第三の君が代は文部省自らの作成でしたが、結局は第二の君が代が採用されました。
平成11年8月に正式に国旗と国歌が立法化し、日の丸が国旗、君が代が国歌となりました。
君が代を大切にしたいと思います。
君が代の経緯については断片的に知っているだけでしたので、よくよく調べてみると、興味深い内容がありました。
「君が代は第三まであった」「君が代の作曲者に外国人もいた」「君が代には長い歌詞で二番まであった」この事実の経緯が紹介されていました。
私も音楽家(邦楽)の端くれですので国歌の君が代について最近興味深くなり、研究したいと思っています。
さて、君が代の作曲者に林廣守、奥好義、フランツ・エッケルト(ドイツ人)の名前が出てきます。
日本国歌の君が代の作曲者の一人に外国人が居たのには正直驚きました。
歌詞は古今和歌集の中から抜粋したそうです。
君が代の経緯は明治維新後に日本に国歌がないので、薩摩藩軍楽隊の音楽教師であるジョン=ウィリアム・フェントンが第一の君が代を作曲、歌詞の作成を薩摩藩砲隊長の大山巌に依頼しました。
しかし、第一の君が代は6年間使用されただけで、その後に第二の君が代作成にフランツ・エッケルトも携わりました。
明治12年ドイツから音楽教師として来日し、21年間滞在致しました。
昭和天皇の御大葬の時の「哀しみの極み」は明治30年にエッケルトが作成した曲です。
第二の君が代の歌詞は、当初「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて、苔のむすまで、うごきなく常盤かきはにかぎりてあらじ」
二番「君が代は千尋の底のさざれ石の鵜はいる磯とあらはるるまで」
この長い歌詞は明治14年発行の小学唱歌集初編に掲載されていましたが、結局この長い歌詞は普及しませんでした。
第三の君が代は文部省自らの作成でしたが、結局は第二の君が代が採用されました。
平成11年8月に正式に国旗と国歌が立法化し、日の丸が国旗、君が代が国歌となりました。
君が代を大切にしたいと思います。