つれづれのこと(みーたんの庭)

ローカリズム推進楽会、大好きな山野草・山菜・野草、日ごろの料理講座の案内などを綴っていきたいと思います。

カウナス、杉原記念館~トゥラカイ(6月23日)

2012-07-16 | ロシア、バルト三国、フィンランド


ヴィリニュスのバスターミナルから小さなバスに乗って

カウナスへ向かった。
日本のシンドラーと呼ばれる「杉原千畝」記念館に行くために。

リトアニアの第2の都市、カウナスは
リトアニアの首都ヴィリニュスからバスで1時間ちょっとの距離


途中の高速道路からの車窓は。。。黄色一色!!

菜の花です。


まっすぐな道路を小さなバスはものすごいスピードで走り・・・
予定より早めにカウナスのバスターミナルに到着。  


 


バスターミナルのインフォメーションで場所と道を聴いて
歩き出したのですが  記念館が見つかりません。

小高い丘の上のような気がして登って行ったら
行き止まり 

運よくそこの家のマダムが外に出てこられ。。。

地図を示して道を尋ねると

”Oh”

しばらく考えて山道で大丈夫と言ったんだと思う。。。た・ぶ・ん

自宅の裏山の小道を教えてくれた。

まさかこんな山道を登るとは思っていなかったけど

丁寧にお礼を言って、
キツリフネソウのたくさん咲いている道を登った。

この道の脇が全部キツリフネソウ




ちょっと登ったらアスファルトの道があり
閑静な住宅地があった。

ここだ!

道を尋ねてからわずか10分もしないところに「杉原千畝記念館」はあった。

間違って反対側へ行ってたようです。
こんな階段のあるいい道があったのに。




この道路、この門の前・・・

ここは数十年前・・・ポーランドからナチスに追われ
リトアニアにやってきたユダヤの人たちが
領事代理であった杉原千畝に 
日本の通過ビザを求めて押しよせて来た場所なのだ。


と思うと胸が熱くなった。




この時は私たち二人だけ

日本語の話せるスタッフはいなくて
英語での説明だったので、ちょっと消化不良気味


15分間にまとめた日本語のビデオを見て当時のこと
政府との交渉などいろんな彼の苦労が理解できた。

シンドラーもたくさんのユダヤ人を雇い入れて命を助けたが

この杉原千畝も自分の意思で
日本の通過ビザを発行した。
汽車で現地を離れるまで、夜も寝ないで書き続けたという。


政府の方針に反して、ビザの発給を決めたこの精神!

戦後、彼に助けられた人が、
お礼が言いたいと杉原千畝の消息を探して分かった彼の行い
胸のポケットからクシャクシャになったビザを取り出して
”私の宝です”と言ったそうです。

当時6000人にも及ぶ人たちが第3国を通じて、世界の各地へ散って行った。

いまはこの領事館は一部が当時のまま保存されて
記念館になっている。


この素晴らしい日本人に誇りを感じて、この地を離れた。




閑静な住宅地には西洋バイカウチギが咲いていた。

記念館で時間を費やしたために、他は観光できず
バスターミナルでお昼を買ってバスに乗り込んだ。

大きな餃子みたいなものは「羊肉のキビナイ」
これなちょっと臭くて口にあわなかった。

大きな方は中にミンチ肉が入っていて、皮で包んで油で揚げたもの
この方は美味しかった。




娘夫婦とヴィリニュスのバスターミナルで待ち合わせ

エストニアの友人夫婦が、赤ちゃんを連れて一緒にターミナルに来ていた。

可愛い赤ちゃんに別れを告げて、トゥラカイ行きのバスに乗った。


30数分で到着。

きれいなところです。

湖とトゥラカイ城が青空に映えています。

この日は何かイベントがあったらしく、大勢の新婚さんのカップルが!


現在はこの城の本丸、城壁ともに博物館になっている。




島を一周散策


通りにはクリミヤから傭兵として連れて来られた
トルコ系のカライメ民族の家が並んでいた。

今でも民族性を守りながら約200人が暮らしているそうだ。

黄色い郵便ポストとルイヨウショウマ




ヴィリニュスに戻り
レストランで夕食

この日は チリコンカルネ、ナチョス、
トルティーカ(チキン、チョリソー、ドライトマト、サボテンの葉)




夕食を終えて
また街を歩く。。。

こんな可愛いオブジェもあったりして 

大聖堂の前は灯りは付いているものの、まだ空は明るい。

人間の鎖の敷石の上で、また人が回りながらお願いをしていた。




こうしてリトアニアの最期の夜は終わった。
明日はバスでラトヴィアへ・・・

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島ブログランキング

広島ブログ