「恋仏に会いに行く」という言葉を初めて耳にしたのは
いつのことだったか???30年(年齢がばれますね)くらい
前だったと思います。
何となく気になって、あるいはそのお姿にほれ込んで
悩んだとき、落ち込んだとき、人生の節目節目に無性に
会いたくなる仏像。
私自身もそんな惚れてしまった仏像がいくつかあります。
それも、気の多い性格のせいか、一つではなく
その時の気の持ちようによって「恋仏」変わってくるようです。
目下のところは一昨年見た奈良、興福寺の帝釈天像。
すっきりと、静謐なその姿は世間のあらゆる雑事から超然として
「それでも行くべき道はある」と言っているようです。
そして、もう一つ、同じ興福寺の無著菩薩立像。
こちらは反対に人間界のあらゆる雑事を飲み込み、理解し
一緒に苦悩しながらも「それが人間」「それでも生きていくもの」と
いう「諦観」とそれでも何かを求めようという意思を感じます。
地味な作風ながら、運慶の底力を思い知らされるものだと思っています。
実はもう一つ、一目ぼれで大好きな如意輪観音像があるのですが、
こちらは某お寺様のご本尊様。
ふっくらと豊かで何もかも包み込むような雰囲気が大好きなのですが
観光化されたお寺ではないので、気軽に「会いに行く」と言うわけには
いきません。
あれこれ煩わしいことも多い日常。
思い定めた「恋仏」の姿を眺めることで少しは心のバランスを
取り戻すことも出来るのではないでしょうか?
最近ではお仏壇とは別に、自分が「これ」と思い定めた
仏様をマイ厨子にお祀りして手をあわせる人も多いとか。
平安貴族の「持仏堂」とまではいかないまでも
「my仏像」も一つの選択かもしれません。