クリアな映像でデペッシュモードの「Just Can’t Get Enough」を意識を持って視たのは、今になってのこと。メンバーがみんなかっこいい。失礼な言い方だが、ヴィンツ・クラークまでもが(!)かっこいい。
当時のリアルタイムは、映像より音楽そのものの方が重要だった。それは今も変わらない。あくまで映像は補足に過ぎない。
数少ない情報として、雑誌類の小さい白黒写真付き記事は重要だった。
まるで顕微鏡で見るみたいにして、印刷の荒い目一つ・一つを大事に見ていた世界。
カメラ片手に街をほつき歩き、デペッシュモードのファーストアルバム「スピーク&スペル(1981)」を聴いた後。セカンドアルバム「ブロークンフレーム(1982)」とヤズーのファーストアルバム「Upstairs At Eric’s(1982)」を聴く。そんな日がこのところあった。長年「パンドラの匣」だった2枚を開封する。
1982年の名盤2枚が何ともよく似ているなと思うのは、それは当たり前でヴィンツ・クラークが居たバンド・デペッシュモードと、彼が創ったヤズー。この時点における両者は双子関係にあった。
ヴィンツ・クラーク(当時はヴィンセント・クラークと呼んでいた)は、人前で演奏するとかツアーを行うことを極度に嫌ったことが、デペッシュモードを脱退する起因になったと言われている。
描いているヴィジョンが違う、そう彼は言ったそうだが、そういう「逃げ」は誰もが見られたくないものを隠すときに吐く言葉。それはオトナになって分かるもの。
自分も似たような性格なので、何だか身につまされる。
しかし彼が言う言葉は極めて真面目な真実を示している。
電子音楽から始まりテクノに至るなかで、この手の音楽は肉体を伴わない音楽でありヘッドフォンの中でこそ成立するもの、という意識があり、それがわれわれには新鮮であり・同じ想いをした者たちが集まった。そこからすれば、観衆を前に演奏することは元々目的とされておらず、違和感があり、演奏を行ってもレコード以上のものを産む労力を費やすならばスタジオで次の構想を練った方が良い。そういう発想。
(DJが既成のレコードを掛けることからミキサーとしての役割になり、クラブという肉体を伴うことになるのはのちのことである。)
YMOのワールドツアーがなぜ革命だったか?は、あれだけ電子楽器を使いながらもレコード/ヘッドフォンには無いものを公然と示したことであり、しかしそれを創り出したのは彼らの演奏技術ゆえのことだった。
仕事をしていると、よく時間と労力を掛けていることを、本人の気概だとか・気合いだとか・・・そんなことがくだらなくて仕方が無かった少年。そして、今も大して変えられない。「しっかりと」「頑張って」その手合いの言葉は、どこぞかのクニの政治家や市民が、何もしていないのに平気で使う常套句である。
この手合いは、ユーリズミックスのライヴが望まない「ロック的」であり、自分の中の世界と距離があった体験にもつながる。ロックはライヴが大好きだ。渋谷陽一先生ではないが、ロックが必要な状況というのは、その時代が不幸なのである。
90年代近くに聴いたデペッシュモードのライヴがエネルギッシュな意外さを越えて、一つ別の次元に突入していく感を持つ。そこに自分が次第に呑み込まれたのもそういうことだろう。
70年代からの流れの後、80年代に様々な音楽は産まれたが、その後エレクロニックポップ等々ニューウェイヴが「ポップ化」し、ライヴが当たり前という認識は、他の音楽と同じ平面に平準化されていく流れの不幸でもある。
デペッシュモードを脱退したヴィンツ・クラークが、1曲だけ・・・とアリソン・モイエ(当時はアリソン・モエットと呼んでいた)と2人で作ったのが「オンリー・ユー」(1982年春)。そして7月のセカンド・シングル「ドント・ゴー」。共に大ヒットとなり、ユニットとしてアルバムを創るに至る。
自分がヤズーという存在を初めて知ったのは、1982年春に始まったピーター・バラカンさんの「スタジオテクノポリス27(土曜深夜3時・FM東京)」第一回目放送で掛かった「オンリー・ユー」。一回聴いただけで魅かれたが、このヴォーカルは男性か?女性か?よく解からなかった。それが女性なのだと知るのは雑誌に載った2人の姿。
ファーストアルバム「Upstairs At Eric’s」がイギリスで9月に発表される。国内発売されたのが11月28日。そんな1982年の流れ。
最近、アリソン・モイエの海外インタビューをYOUTUBEで見て、彼女が未だ若々しくにこやかな顔で笑った姿を見て安堵した。また、80年代当時激太りした姿から想像つかないほどスリムになっている。憧れの人たちが急に老いた姿を見てショックなことが多い中の救い。
そこでまたこの方はやはりすごいと思うのが、1982年ヤズーデビュー当時の彼女が21歳だったということ。(それは何も彼女に限らず、お世話になった人たちはみんなそうなのだが。)
才能が豊かな人は早熟なものだが、聴いている側の高校生と5歳しか違わないことに天才と凡人の違いを改めて認知する。
当時の彼女は、学校卒業後美容師の見習いや保険の仕事をしながら無名のバンドに属していたという。マディ・ウォーターズやリズム&ブルースが好きだったというが、好きだからと言ってあんな表現豊かな歌を誰もが歌えるわけもない。
誰もが言うようにヤズーの新鮮な魅力は、ヴィンツ・クラークがエレクトロニクスで描き出す・簡素だけど温かみがありチャーミングな音空間。それと一見して相反するようなソウルフルなヴォーカルの組み合わせにある。このような2人の天性の能力を持った者が、偶然組み合わせとなる。そんな偶然が起きることはそうそう無い。
そんなヤズーが、アルバム2枚でなぜ解散したか?
その理由も前述通り、ツアー、ライヴ、インタビュー取材というよりその音楽を広く広げるPR活動に、一切拒否をしてしまうヴィンツにアリソンが業を煮やした結果の帰結。
当初は、アリソンがヴィンツの才能に魅了されて、永遠にヤズーを続けたい気持ちになっていたものを、ヴィンツは自ら壊してしまう。
そんなヴィンツ・クラークとヤズーというかけがいのないユニットのいきさつを想うと、ついYMOのことを想い出す。
アルファレコードと小池さんが「YMOで世界進出」と、嫌がる3人に無理矢理ワールドツアーを企画し、ケツを叩いて海外に放り出した結果と紙一重。ほんの少しの狂いが、その後に影響する。
結果的にYMOはあのツアーが起点となって、海外ミュージシャンとの結びつきと彼らへの影響刻印がされたし、坂本龍一ですら今ではあれは良かった、と認めている。
「なんで毎日同じ曲を繰り返し演奏せねばならないんだ」というノルマ。ノイローゼになるまで海外ドサ回りでぼろぼろになった3人の反動が、その後の謀反・YMO破壊工作活動という怒りとなり「BGM」「テクノデリック」2枚の表現に結実する。
もしヴィンツ・クラークが、そのサジ加減を変えていたら。。。とも思うが、全てはそのときそのときの「今」。その幾重もの積み重ねで、道は未知に向かって変わっていく。何が正しかったなど、それは後になったから言えるだけのことである。
ヤズーの音に、どれだけ高校当時の気持ちが救われたか分からない。結果なんかどうだっていいんだ。
■Yazoo 「Too Pieces」1982■