このところは、朝 夜とデペッシュ・モードの「ミュージック・フォー・ザ・マスィズ(MusicForTheMasses)」('87年)と「ウルトラ」('97年)を聞いている。
***
「ミュージック・フォー・ザ・マスィズ」において、デジタル機材の使い方に大きな変化は特に見られ無い。(むしろ変化を進化と感じられない。)このアルバムから、完全デジタルレコーディングに移行したくらいか。
このアルバムが発売された’87年と言えば、もはやテクノ=デジタル音楽において、機材・サウンドの進化も尽き、それに伴いNEW WAVEも終焉を迎えようとしていたから、もはやそういう観点から見るのはやめたほうがいいアルバムなののかもしれない。
そういう観点から言うと新たな発見は全く無い。そういうNEW WAVEの終焉の、時代のターニングポイントである背景の中の発売であることは、彼ら自身が一番知りながら出したアルバムとも言えるかもしれない。
一方、当時ノイローゼで病院通いだった私の方は「「昨日とは違う翌朝=昨日を越える新しい朝」はもう来ない」と、'80年初頭からひたすら新しい「明日」の音楽に邁進し、<昨日より新しい今日>を追いかけてきたが、そんな「今日」はもう二度と来ないことを知り・諦め、音楽に絶望していた。それが、自分の病状を余計に悪くさせていたから、'87年からは新しい音楽を追う行為を一切やめ出した年だった。
そのような個人的経緯から、このアルバムも一切聴いてこなかった。
デペッシュ・モードの大ファンでありながら、すっかり抜け落ちていた1枚だ。
***
初めて「ミュージック・フォー・ザ・マスィズ」を聴いたのが、ここ数年で、最初はLPレコード、そして、こないだCDも買った。
初めて聞いた印象-
最初、音にすかすか感を感じた。
メロディも安直な気がした。
前に退化している気がした。
せっかく前作「ブラック・セレブレイション」('86)で、もう終わろうとしている我らが創ってきた時代の音楽の最後を葬奏にて行ったアルバム。
夜の闇のような「あの世」との境界線の漆黒・暗黒のブラックサウンド、幻覚を起こすような、渦巻く霧の中に漂うような聴感を作り出したというのに・・と残念に思った。そういう意味で前作からの新たな伸びは無く、新たな発見は一切無いアルバムである。
しかし、そこはスルメのようなデペッシュ・モードのこと、聴き込むごとに、味が出てきて好きになっていった。
NEW WAVEの終焉期に発表されたこのアルバムには、新たな発見は無いものの、いつもの通りイイ曲が多く入っている。
なぜこんなしっかりと安定しているんだろうという位、このアルバムも「コケる」ことなど どこ吹く風、
いつもながら、哲学的思索的な世界がきちんと展開していく。
1曲目の「NeverLetMeDownAgain」が終わると、夕暮れの風の音がする・・・
そして、その風の音は2曲目の「TheThingsYouSaid」に繋がっていく。
この2曲の流れが好きだ。
3曲のボーナスも良い。
***
デペッシュ・モードが凄いのは、どんなものを作っても、芯があって浮き足だったところが無いところだ。
笑いとは無縁で、ニヒルで暗いのも、かたちんばが親近感を持つところだ。
暗いとはいえ、目をそむけたくなるような、救いようの無い暗さでは無い。
時に、観念的哲学的でさえある、そういった意味合いの暗さである。
なぜそんなものが、「POP」とか「メロディアス」とかと結びつくのか?
文字だけでいうと成り立ちそうにない理屈だ。
だが、それが成り立ってしまうのが、デペッシュモードが創り出した彼ら独自のサウンドなのだ。
<こういう優れた音楽がバンバン売れるイギリスという国は、やはりすごかった(過去形)。>
***
「ウルトラ」のライナーノーツには、「自閉しながら世界に拮抗しながら、世界で成功した唯一のロックバンド」 と表現したが、それは実に言い得て妙な言い方で、まさにその通り。
デペッシュ・モードは「ソングス・オブ・フェイス&デヴォーション(Songs of Faith and Devotion)」('93)で、イギリスのみならずアメリカでも成功してしまった。
が、その成功が、その後、彼らの自閉した世界の破綻・不安定感に繋がっていく。
それが、グループとしての崩壊の危機に至る・・・。
イギリスのバンドが、アメリカでの成功を期に自滅=壊れていく、という現象は、多く見られる在り方だ・・・・。
(同系列の在り方としては、ティアーズ・フォー・フォアーズなどがいる)
***
【'93から「ウルトラ」('97)へ】
崩壊からの建て直し・・・・。死が濃厚に刻印された・死の海から腐乱の臭気を引きずりながら甦ったアルバム「ウルトラ」('97)では、一応の復活を遂げながらも、私はその悲惨さの漂う音に、かつて好きだったナーバスなデペッシュ・モードとは違うグループを見てとってしまう。
デペッシュ・モードの音感にいつも漂い・有った、私の愛する「若さ」、そして若さゆえの「憂い」・・・・。
そして、シャイなかげり、青さ(青臭さでは無い)・・・・。
いつだって私が愛していた「悩める青年たち」の悩み・思索しながら進んでいく ある種の弱さ・甘さ・優しさが無い、と、少なくとも私には感じられて、寂しくなった。
何歳になっても、 ~「ミュージック・フォー・ザ・マスィズ」のアルバムジャケットの写真のような~ 暮れていく陽を見ながら、一瞬停止する時空の静かな夕闇に、いつまでもたゆたっていて欲しかったというのに・・・・・。
アルバム「ウルトラ」には、もう弱いナイーブな彼らの姿は無い。
明らかに別のグループに生まれ変わろうとし、動いている彼らの姿勢がよく見える。
それは彼らのその時点での新しい道なのかもしれないのだろう。
そして、その一歩は、同時に、今までいた自閉的な世界を捨てることを意味するのかもしれない。
しかし、
なぜ、人は弱さを失いながらでも、強くなっていかざるを得ないのだろうか?
なぜ、人は、生きていくために、自ら内包し保持してきた弱さや、貫いてきた純潔を、捨ててでも、強くなっていかねばならないのだろうか?
なぜ、人は、その強さと引き換えにして、甘さや優しさを捨てざるを得ないのだろうか?
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「ミュージック・フォー・ザ・マスィズ」において、デジタル機材の使い方に大きな変化は特に見られ無い。(むしろ変化を進化と感じられない。)このアルバムから、完全デジタルレコーディングに移行したくらいか。
このアルバムが発売された’87年と言えば、もはやテクノ=デジタル音楽において、機材・サウンドの進化も尽き、それに伴いNEW WAVEも終焉を迎えようとしていたから、もはやそういう観点から見るのはやめたほうがいいアルバムなののかもしれない。
そういう観点から言うと新たな発見は全く無い。そういうNEW WAVEの終焉の、時代のターニングポイントである背景の中の発売であることは、彼ら自身が一番知りながら出したアルバムとも言えるかもしれない。
一方、当時ノイローゼで病院通いだった私の方は「「昨日とは違う翌朝=昨日を越える新しい朝」はもう来ない」と、'80年初頭からひたすら新しい「明日」の音楽に邁進し、<昨日より新しい今日>を追いかけてきたが、そんな「今日」はもう二度と来ないことを知り・諦め、音楽に絶望していた。それが、自分の病状を余計に悪くさせていたから、'87年からは新しい音楽を追う行為を一切やめ出した年だった。
そのような個人的経緯から、このアルバムも一切聴いてこなかった。
デペッシュ・モードの大ファンでありながら、すっかり抜け落ちていた1枚だ。
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初めて「ミュージック・フォー・ザ・マスィズ」を聴いたのが、ここ数年で、最初はLPレコード、そして、こないだCDも買った。
初めて聞いた印象-
最初、音にすかすか感を感じた。
メロディも安直な気がした。
前に退化している気がした。
せっかく前作「ブラック・セレブレイション」('86)で、もう終わろうとしている我らが創ってきた時代の音楽の最後を葬奏にて行ったアルバム。
夜の闇のような「あの世」との境界線の漆黒・暗黒のブラックサウンド、幻覚を起こすような、渦巻く霧の中に漂うような聴感を作り出したというのに・・と残念に思った。そういう意味で前作からの新たな伸びは無く、新たな発見は一切無いアルバムである。
しかし、そこはスルメのようなデペッシュ・モードのこと、聴き込むごとに、味が出てきて好きになっていった。
NEW WAVEの終焉期に発表されたこのアルバムには、新たな発見は無いものの、いつもの通りイイ曲が多く入っている。
なぜこんなしっかりと安定しているんだろうという位、このアルバムも「コケる」ことなど どこ吹く風、
いつもながら、哲学的思索的な世界がきちんと展開していく。
1曲目の「NeverLetMeDownAgain」が終わると、夕暮れの風の音がする・・・
そして、その風の音は2曲目の「TheThingsYouSaid」に繋がっていく。
この2曲の流れが好きだ。
3曲のボーナスも良い。
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デペッシュ・モードが凄いのは、どんなものを作っても、芯があって浮き足だったところが無いところだ。
笑いとは無縁で、ニヒルで暗いのも、かたちんばが親近感を持つところだ。
暗いとはいえ、目をそむけたくなるような、救いようの無い暗さでは無い。
時に、観念的哲学的でさえある、そういった意味合いの暗さである。
なぜそんなものが、「POP」とか「メロディアス」とかと結びつくのか?
文字だけでいうと成り立ちそうにない理屈だ。
だが、それが成り立ってしまうのが、デペッシュモードが創り出した彼ら独自のサウンドなのだ。
<こういう優れた音楽がバンバン売れるイギリスという国は、やはりすごかった(過去形)。>
***
「ウルトラ」のライナーノーツには、「自閉しながら世界に拮抗しながら、世界で成功した唯一のロックバンド」 と表現したが、それは実に言い得て妙な言い方で、まさにその通り。
デペッシュ・モードは「ソングス・オブ・フェイス&デヴォーション(Songs of Faith and Devotion)」('93)で、イギリスのみならずアメリカでも成功してしまった。
が、その成功が、その後、彼らの自閉した世界の破綻・不安定感に繋がっていく。
それが、グループとしての崩壊の危機に至る・・・。
イギリスのバンドが、アメリカでの成功を期に自滅=壊れていく、という現象は、多く見られる在り方だ・・・・。
(同系列の在り方としては、ティアーズ・フォー・フォアーズなどがいる)
***
【'93から「ウルトラ」('97)へ】
崩壊からの建て直し・・・・。死が濃厚に刻印された・死の海から腐乱の臭気を引きずりながら甦ったアルバム「ウルトラ」('97)では、一応の復活を遂げながらも、私はその悲惨さの漂う音に、かつて好きだったナーバスなデペッシュ・モードとは違うグループを見てとってしまう。
デペッシュ・モードの音感にいつも漂い・有った、私の愛する「若さ」、そして若さゆえの「憂い」・・・・。
そして、シャイなかげり、青さ(青臭さでは無い)・・・・。
いつだって私が愛していた「悩める青年たち」の悩み・思索しながら進んでいく ある種の弱さ・甘さ・優しさが無い、と、少なくとも私には感じられて、寂しくなった。
何歳になっても、 ~「ミュージック・フォー・ザ・マスィズ」のアルバムジャケットの写真のような~ 暮れていく陽を見ながら、一瞬停止する時空の静かな夕闇に、いつまでもたゆたっていて欲しかったというのに・・・・・。
アルバム「ウルトラ」には、もう弱いナイーブな彼らの姿は無い。
明らかに別のグループに生まれ変わろうとし、動いている彼らの姿勢がよく見える。
それは彼らのその時点での新しい道なのかもしれないのだろう。
そして、その一歩は、同時に、今までいた自閉的な世界を捨てることを意味するのかもしれない。
しかし、
なぜ、人は弱さを失いながらでも、強くなっていかざるを得ないのだろうか?
なぜ、人は、生きていくために、自ら内包し保持してきた弱さや、貫いてきた純潔を、捨ててでも、強くなっていかねばならないのだろうか?
なぜ、人は、その強さと引き換えにして、甘さや優しさを捨てざるを得ないのだろうか?
デペッシュモードの魅力って
まさにかたちんばさんが仰るように
青年独特のナイーブさ…ですね。
その最たるアルバムが『ブロークン・フレーム』。
そして自分にとっての最後は
「ピープル・アー・ピープル」でした。
もはや「マスター・アンド・サーバント」も
自分にとってはハード過ぎて…。
しかしながら『ミュージック・フォー・マスィズ』の
「ストレンジ・ラブ」は久しぶりに
デペモらしいナイーブな曲でしたね。
『ヴァイオレーター』の
「エンジョイ・ザ・サイレンス」は
もうちょっと泣きがほしかったなぁ…。
充分好きだけど(笑)
これからも「たま社長」で行きましょうよ。
すごく「たま社長」っていう愛称がイイです。
「ア・ブロークン・フレーム」は、実は、僕も、Dモードで一番好きなレコードで、あの憂鬱さがたまりません。
たま社長がいわんとするニュアンスなんとなく、分かります。
僕自身も、これはDモードに限ったことでは無いですが、当時のアーチストは前しか見ていなかったので、次から次へと変化・進化するので、悩むことが多かったです。
「ア・ブロークン・フレーム」→「コンストラクション・・」→・・・と進化激しく、確かについていくのが大変だったと思います。
イイ愛称だと思いますが・・・。
僕も「ア・ブロークン・フレーム」が大大大好きです。
たま社長がいわんとすること、分かります。
当時のNewWaveアーチストは、変化・進化が激しかったので、ついていくのが、正直大変だったです。
「ア・ブロークン・フレーム」→「コンストラクション・・・」→・・・と悩みながら聴いていました。
今のように百戦錬磨のかたちんばなら平気ですが、当時は、僕自身もナイーブだったので。
ブログは、どうも、夜中の更新が上手くいかなくて、あきらめること多い。困ったもんだ。