6月6日(土)いつも通り、13時から久米宏さんのラジオ番組「ラジオなんですけど」を聴き出すと、唐突にこの番組が6月末で終了する、と久米さんが言った。
キツネにつままれたように唖然となる。
その感じは、皮肉にも、2013年9月7日東京五輪が決まったニュースを見て、寝耳に水となった日にそっくりだった。
まるで夢のような感覚とでもいおうか。
絶望や落胆だけでなく、揺るがない決定が知らない間にウラで動いていた不気味さが共通していた。
「ラジオなんですけど」この番組の第一回目は、13年半前の2006年10月7日。
午後1時の時報の後、出てきた久米さんは、野外・晴天の下から少々上ずった声で話していた。
突き抜けるような秋の青空を伝える久米さん。自分も同じその空を見ながら聴いていた。
それをよく覚えている。
外からの中継を経て、テーマ曲が流れる。
この日から来週の最終回まで13年半変わらなかった番組冒頭のテーマ曲は、とてもさわやかで、未だに2006年10月7日の秋空の高さと青さを思い出させる。
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ウィークエンドの始まりである土曜の昼下がりを、どれだけハッピーに過ごすか?
それにこだわっていた者に対して、「ラジオなんですけど」は、21世紀に入ってからの新しい風を運んでくれた。
青少年の時期ももはや遠くなると、自らを進めるためのガソリンというのはそういったものだ。
この13年半、用事があった週はやむなく聴けなかったけれど、それ以外は何らかの形でこの番組を聴いてきた。
311を経た2012年以降は、毎週土曜早めの時間から外に出て、街を一人で歩きシャッターを切りつつ、イヤホンで聴いた。
(AMの永六輔さん・15時~の宮川賢さんの番組も好きで、それを含めると土曜8時半~17時までがTBSだった。)
当時はラジコが無いので、ごくごく普通の携帯ラジオで聴いていた。
電波が届かない地下鉄等に乗ることを避け、バスやJRを使いながら毎週土曜の放送を楽しんだ。
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久米さんは、良く言う人と悪く言う人に分かれる。
では自分は?一体どちらかわからない。
というのも、数十年付き合いながら、久米さんの言葉の背景に貫かれる何か?が一体何なのか?充分に理解できていないのだ。
しかし、たぶん、それでも好きなんだろう。
振り返ってみれば、久米さんが関わった番組の多くを楽しみに見聞きしてきたことに気付く。
「ラジオワイドTokyo」「料理天国」「おしゃれ」「ザ・ベストテン」「テレビスクランブル」「ニュースステーション」そして「ラジオなんですけど」。
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昔、鶴瓶さんがとある番組で、こんなことを言っていた。
「ニュースステーションで、久米宏が笑った後CMに行く際、切替のタイミング遅れで、怖い表情を見てしまった。
あの人の影の顔を見たと思ってしまい、もう見た(く)ない、と思った。」
あるいは、キッチュが「朝まで生テレビ」をパロディにした「朝まで舐めてれば」で、ホクロを付けて失笑する久米さんの真似をしていた姿も浮かぶ。
当然、そんな例を挙げるまでもなく、久米さん自身に何の思惑も無いはずもない。
ダーティーなイメージを背負う理由は十分理解できる。
しかし、だからと言って、周りに合わせて適当なところで話しをまとめる人への不信感を思うと、同調圧力を無視して話しをしていく姿は痛快だった。
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たとえば、一握りの利権者以外、誰も得もしない東京五輪。
某広告代理店が関わったしつこいプロパガンダ。
2020へ向けその勢いを強めていった「たぶらかし」
それに対する久米さんの語りクチは何とも絶妙だった。
世間が東京五輪万歳と言い、決まったからには応援、と戦時中同様に硬直化していく中、ラジオメディアは自由だった。
久米さんは、五輪以外も含めて、タブー化されていくことに動じず、「ラジオなんですけど」で率直な意見を述べ続けていた。
それはどれもきわめてまっとうな意見がほとんどであった。
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モノであれ何であれ「そこにある」という安心は、「そこにいつまでもあるものだ」という思い込みと変わる。
雨の日も曇りの日もあるのだが、毎週土曜があのさわやかなテーマ曲と共に明けるのが楽しみだった。そんな番組も終わってしまう。
久米さんは、番組終了について、元々1月に決まってたんだけど・・・つい言い忘れていた、と言った。
久米さんらしい切り出し方だな、と思った。
先日亡くなってしまった小島一慶さんに夢中になってから40年以上聴いてきたTBSラジオ。
それも、永六輔さん・宮川賢さん・そして久米宏さんの番組が無くなるとなると、かなり意味が薄くなってきた。
「ラジオなんですけど」が終わることは非常にショックでさみしいが、約14年続いた番組の最終回・6月27日のゲストが伊集院光さんということが、最後の救い、と思っている。