イギリス内に人気があり、パンクの三大バンドであったジャムというバンド。
そのユニットが、ポール・ウェラー自身にとって、お荷物・束縛になってしまった段階で、彼は自らバッサリ切り落として解散させた。
1983年新たに創設したスタイル・カウンシル。
「スピーク・ライク・ア・チャイルド」に始まった新しい・開かれた道。
当時、エア・チェックをして聴きながら、そのおおらかな音には、彼の喜びが音となって聴こえていた。
立て続けに発表された、初期のシングル・12インチは、今でも永遠のチューンを鳴らしている。
そして、同様に自ら創ってしまった、YMOという化け物に終止符を、1983年末の「散開」を持って切り落とした細野晴臣・高橋幸宏・坂本龍一の3人。
開けて1984年は、80年代が日々刻々と変化し続ける変容体としての「現在」が、一気に行き詰まりを見せた年だった。
かつて、ビートルズのファンが、もう4人がクチさえ聞きたくない仲となり解散に至った後。
妄想にうなされたように、病床で再結成を妄言として言葉にしたように。
じぶんも、東京の街の変化と、人並みの中に紛れながら、アフターYMOの描き出す、ぽかんとした白い空虚な空を見ていた。
何かが欠けてしまったのだ。
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1984年初めに、スタイル・カウンシルは、ポール・ウェラーが意図した通り・様々なスタイルを1枚のアルバムに結実させた。
それが「カフェ・ブリュ」。
当時、自分は高校三年生に突入していた。
1983年に、それまでのテクノ/ニューウェイヴ(機械音楽)への反動から萌芽した「ニュー・アコースティック・ムーヴメント」。
それらの音に、新鮮な空気を感じ・聴きつつも、たった1年後の1984年の「カフェ・ブリュ」への心境は異なっていた。
男子校の高校に入って以降、LPレコードを貸しレコード屋で借りた奴から、カセットテープに落としてくれ、という依頼の山の中だったが、この1984年には、自らLPレコードを買う奴が増えたように思った。
「カフェ・ブリュ」を持っている奴は多く存在した。
その一方では、カフェ・バーで流れたり、当時の女子大生が聴いていた洋楽の中の1枚が「カフェ・ブリュ」でもあった。
「ポール・ウェラーが意図したことは、こういうことでは無い!」
そういうウンチクを連中に吐いていた日々だった。
そんな場面を想い出す。
じぶんと言えば「カフェ・ブリュ」はカセットでしか聴かず、他のLPレコードにお小遣いを充当していた。
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個人的には初期のシングルの方が断然好きだが、この「カフェ・ブリュ」にも優れた楽曲は多い。
曲としては悲しい要素が含まれていた「A Paris」(12インチ)に入っていた「パリス・マッチ」。
それを、この「カフェ・ブリュ」では、ぬあんと、あの奇跡的とも思えるヴォーカルとの出会いをしたトレイシー・ソーンが歌っている。
全く別の曲に仕立てたセルフ・リメイク。この曲は、数十年聴き続けても、いまだ酔っている。
■Style Council 「The Paris Match (Vocal:Tracey Thorn)」1984■
その後、手に入れたCDだが、それも数年前、うちに遊びに来た兄が「欲しい」というので、あげてしまった。
今、手元には、そのコピー盤しかない。
別に、CDなんかどーでもいいのさ、と思っていた頃のこと。
夏の暑さが一息付いた、風吹く涼しい夜に、こんな夜想曲を贈る。