京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

武信(たけのぶ)稲荷神社

2021年08月08日 07時53分00秒 | 日記
 又旅社からさらに三条通を西に進み、大宮通を南に下がったところに武信稲荷神社が鎮座されています。





神社の歴史は古く平安時代貞観元年(859)にまで遡ります。

藤原良相により創建され、当時境内の北側は藤原氏の学問所(観学院)があり、西側には療養施設(延命院)がありました。
その鎮守社として創建されたのが始まりと伝わります。





その後、藤原武信と言う人物がこちらを厚く信仰した事から「武信稲荷」と呼ばれるようになりました。





御神木のえのき(榎)です。
平重盛が安芸の厳島神社から移植したと伝わる榎の大木で樹齢は約850年で京都市の天然記念物になっています。

坂本龍馬とおりょうに因む逸話が残り、幕府に追われていた龍馬はこの木に「龍」の文字を彫り、おりょうに伝言として残しました。
この事が縁でふたりは無事に再会しています。





また、神社の南側にあった六角獄舎にはおりょうの父・楢崎将作が安政の大獄で捕らえられていて彼の安否を確認する為ふたりはこの木に登り探っていたと言われています。



こちらの龍の彫刻は折れた御神木のえのきの枝からチェンソーアートの第一人者・城所ケイジにより掘り起こされた龍です。







また、同じ土地には江戸時代の医学者・山脇東洋の初めての人体解剖が行われた碑も並んで建っています。



山脇東洋は幕府の医官でしたが長らく禁制だった人体解剖を行いその記録を公表しました。
日本近代医学の先駆者として評価されています。









又旅社

2021年08月07日 07時51分00秒 | 日記
 又旅社は八坂神社の境外末社のひとつで二条城の南側にある三条会商店街の中に鎮座されています。

貞観11年(869)に都に疫病が流行し、平安京の庭園であった神泉苑に当時の国の数66本の矛を立て、祇園社の御神輿を迎え、祇園御霊会が行われました。







又旅社はその神泉苑の南端に位置し、当時、祇園御霊会が行われる6月14日には斎場が設けられ、祇園社の御神輿三基を奉安してきた歴史があります。
(明治以降は7月24日に行われています。)








今も祇園祭の還幸祭(7月24日)には三基の御神輿が又旅社に奉安され、神饌をお供えする奉䬻祭が執り行われています。





鳥居横の円柱石碑には江戸時代安政年間の文字が刻まれています。







近くには三条台若中会所があります。

次に坂本龍馬とおりょうゆかりの武信稲荷神社へと向かいます。




魏飯夷堂(ぎはんえびすどう)のランチ

2021年08月06日 08時38分00秒 | 日記
 二条城を楽しみ時間は13時過ぎ、昼食を頂きます。

堀川通を南下するとやがて右側に三条会商店街の入口が見えて来ます。

いつもは長い行列が出来ているので、今まで入る機会がありませんでしたが、この日は13時過ぎだった事やコロナの影響からでしょうか?すんなりと入れました。





商店街が歩く事2、3分のところに「魏飯夷堂」があります。





元・老舗の味噌店だった建物をリノベーションし、表の看板を始め、内部の町屋の雰囲気をそのまま生かしています。



寺町三条に「一之船入」を出された魏禧之さんがオーナーを務めるお店です。

1996年に木屋町にある一之船入近くの元お茶屋を改装し、創作中華の店として出されました。
最初は「京都に中華は馴染まない。」と揶揄されましたが今では中華の名店として誰もが認めるお店です。
(何でも最初は反対してするのが京都人ですね。)



エビチリのセットに飲茶と杏仁豆腐を付けて1430円でお昼にはピッタリです。













エビチリは辛くはなく、子供さんでも頂ける味付けです。
大振りのエビが入っていて、ぷりぷりの食感が食欲をそそります。

ごはんも選べますが"お粥"にして頂きました。
(ごはんもお粥もおかわり自由です。)

飲茶の小籠包も肉汁たっぷりで美味しいです。

最後のデザートは杏仁豆腐。
やはり中華のシメは杏仁豆腐ですね。





二条城 大広間二の間特別入室

2021年08月06日 07時59分56秒 | 日記
 8月2日は二条城へ。






7月14日から8月23日まで国宝二の丸御殿「大広間二の間」の特別入室が行われていています。
特別入室の関連事業で"学芸員による障壁画解説"に申込みをしていました。

8月2日の回だけで346名もの応募があり、当初予定に無かった2回目が追加され、それに当選しました。

いつもは70名程が入れるレクチャールームですが感染症対策で30名に制限されての開催です。






(大広間の写真は原画の時です。)

大広間は将軍や幕府の権威を最もよく示した部屋で一の間から三の間には巨大な松が描かれています。

障壁画は狩野派一門が総出で請け負った大事業で僕の考えでは"これだけの枚数の障壁画や襖絵を描くにはそれぞれの得意文化を生かした分業制がとられ、松が得意な絵師は"松"を、虎が得意な絵師は"虎"をと専門的に描いた"と考えていました。

その事を学芸員さんに質問すると違った答えでした。
"狩野派は時の棟梁の絵を絵師全員がそっくりに描ける事を目指した絵師集団だった"ようです。

また、"下絵は棟梁が描き、その後はそれぞれの絵師が棟梁の絵を忠実に描いていたのではないか"との見解でした。
(質問にも感染対策が取られ、質問用紙に記入する方法が取られていました。)

スライドを使い丁寧な解説で1時間が直ぐに感じる程の内容でした。







その後に御殿を見学。
僕が京都巡りを始めた頃は障壁画は全て原画でしたが、今はほとんどが模写と入れ替わっています。

いよいよ、二の間に入室です。
廊下から見るのと違って"将軍の為の大広間"を感じます。

常緑の巨大な松に孔雀の欄間、、、全てが徳川将軍家の永遠の繁栄を願う装置のように思えてきます。



二の間の原画を展示している収蔵庫にも入りました。
劣化がかなり進んでいる印象です。

修復に多額の費用が必要だと思われ最近、入城料が御殿の見学込みで1030円に値上げされたのもやむを得ない事だと思います。









二ノ丸庭園は国の名勝庭園に指定されています。
当初は大広間からの眺望を中心に作庭された"王者の庭"でしたが、後水尾天皇の行幸時に行幸御殿からの眺望を考え小堀遠州により手直しが行われました。

当初の"王者の庭園"を見て見たいものです。





築城時の年代がわかる天守閣は複数ありますが"御殿"が現存するのは唯一二条城だけで大変貴重な建築物群になっています。

二条城が世界文化遺産に登録されたのもこの「二の丸御殿」が当時のままに存在したからです。









二条城に残る建物はほとんどが重要文化財です。







清流園は昭和に作庭された新しい庭園で駒札にあるように庭石や植栽、建物の部材は江戸時代の豪商・角倉了以の屋敷跡から移設されたものです。



写真の「香雲亭」では"いそべ"さんにより"京の湯葉御膳"が事前予約制で提供されています。





北大手門です。
二条城の北側には京都所司代の屋敷があり、その通用門として使われたようです。

二条城の正門"東大手門"に引けを取らない立派な門です。

他に非公開エリアですが西門があり、戊辰戦争の敗色が濃厚になった将軍慶喜公はこの西門から退城したと言われています。

南門は江戸時代にはなかった門で大正天皇の御大典が二条城で行われた際に作られた門です。

また、24日からの一の間の特別入室に来てみたいですね。
今度は"将軍目線"で見れるのも楽しみです。










本山 頂妙寺(日蓮宗)

2021年08月02日 08時13分00秒 | 日記
 大蓮寺を後に仁王門通を西へと向かいます。
この通も寺町通と同様にお寺が密集した通りです。
こちらも豊臣秀吉による京都改造の一環でしょうか?







やがて北側に聞法山頂妙寺があります。
山門の北側に立派な仁王門があり前の通名が仁王門通と名付けられた由来となっています。





頂妙寺は日蓮宗の京都二十一箇本山として足利将軍家や近衞家などの公家衆、京都の町衆の庇護を受けて発展しましたが、天文15年(1536)に最大の仏教勢力である比叡山延暦寺による天文法華の乱(日蓮宗では天文の法難と呼んでいます。)により堂宇を焼失し、堺に移ることになります。




客殿



鐘楼堂






妙見堂

大本堂を中心に伽藍が並んでいますが通常拝観はされておらず寺務所にて御朱印の受付のみされています。





文化財では俵屋宗達筆の水墨画「牛図」2幅(重文)を所蔵されていますが普段は京都国立博物館に寄託されています。

平成27年(2015)には京博から戻られ「京の冬の旅」で公開されました。
それ以来、「牛図」は無論ですが伽藍の公開もありません。





大本堂の内部です。(ネットからです。)
日蓮宗らしい煌びやかさです。



仁王門に安置されていた毘沙門天です。
お寺では鎌倉時代の仏師・運慶と快慶の作と伝わっているようです。



寺務所で御朱印を授与して頂き仁王門通をさらに西へと向かいます。

頂妙寺を出るとすぐ左手には出汁が美味しいうどん店「うね乃」がありましたが昨年12月で惜しくも閉店されました。

出汁が美味しいのもうなずけます。
乾物専門店「うね乃」さんの直営店で毎月のように新作を出される名店でした。

後には飲食店が入るようで改装の真っ最中でした。