京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

幸神社(さいのかみのやしろ)

2021年08月19日 08時56分00秒 | 日記
 幸神社は豆餅で有名な"出町ふたば"さんの北側を東西に通る枡形商店街の西端近くにある古社です。





ご祭神は猿田彦大神で日本最古の縁結びの神社と言われています。

もとはこの辺りを本拠地にしていた出雲氏の氏神で"交通安全の神"として崇められて来ました。



お社の北東角には御幣を担いだ猿が北東の方角を向き鬼が入らないように睨みを利かせています。

桓武天皇が平安京に遷都された際、鬼門にあたる丑寅(北東)に鬼や邪気が都に入らないように何重もの鬼門除けの仕掛けを造っています。

京都御所の「猿が辻」、ここ「幸神社」、赤山禅院、坂本にある「日吉大社」は御所の東北方角の一直線上にあります。



境内の東北隅の「おせきさん」です。

拝むと縁結びのご利益があり、触れると祟りがあると言われています。

近くにある枡形商店街には鯖寿司ですっかり有名店になった"満寿形屋"さん、阿闍梨餅が買える穴場"まつや食料店"、豆腐や揚げの美味しい"いづもや"さんがあり食事にお土産によく利用する地元の商店街です。


シェラトン都ホテル大阪

2021年08月15日 08時55分00秒 | 日記
 8月6日はメルパルク京都カルチャールーム主催の「関西の洋館ノスタルジー」で大阪上本町にあるシェラトン都ホテル大阪を訪ねました。







建築家・村野東吾の最後の作品です。



村野東吾は主に昭和にモダニズム建築を中心に活躍した建築家で文化勲章の受章者でもあります。

シェラトン都ホテル大阪の外観の柱や地下への螺旋階段に通称「村野カーブ」と呼ばれる特徴的な曲線が見えます。

ホテルは昭和60年(1985)に上本町駅ターミナルの整備計画により駅に隣接する21階建ての高層ホテルとして開業しています。
設計は村野東吾でホテル竣工の前年に亡くなっています。

1983年に工事は着工されていることから前年には設計を終えていた事になり村野東吾の遺作となる建築物です。







宴会場です。
天井や照明器具は当時のままの姿をとどめています。
現在は改修中です。













4階にある茶室「有楽庵」です。
織田有楽斎の国宝茶室「如庵」をモデルにしたもので天井は照明の入った光天井が特徴的です。

晩年の村野は数寄屋建築にも積極的で京都にあるウェスティン都ホテル京都に「佳水園」も設計しています。









最上階にあるバーも当日のままだそうです。
カウンターにも綺麗な「村野カーブ」が採用されています。







スタンダードの部屋も見学させて頂きました。
室内は改修されていて当時のデザインは残っていないそうです。

テラスは当時のままで外観の美観と外部から見えない工夫が施されています。





大阪梅田排気塔





志摩観光ホテル









迎賓館(旧赤坂離宮改修)

村野東吾が設計した作品の一部です。


兵庫津 平清盛が拓いた日宋貿易の要港

2021年08月14日 08時31分00秒 | 日記
 8月9日は"まいまい京都"の表題のツアーに参加しました。
以前にNHKの大河「清盛」を見ていたので平清盛には関心がありました。
清盛が都を福原に移し、大輪田の泊を改修し日宋貿易で経済的基盤を確立した地です。



ガイドは政田マリさんです。







神戸市営地下鉄湾岸線の中央市場前駅に集合の後に向かったのが来迎寺(築島寺)です。

境内には「松島小児入海之碑と墓」があります。
駒札にもありるように松島小児が人柱となり犠牲となりました。
しかし事実は清盛の非情さを宣伝する為に源氏が捏造した話のようです。







兵庫運河・新川運河

兵庫運河は日本最大の運河で海難事故が多い和田岬を迂回せずに須磨方面と兵庫港を結ぶ水路として掘削されました。







兵庫大仏が鎮座されている能福寺です。
天台宗の古刹として知られ、唐で最新の仏教を学び帰国した際に立ち寄ったお寺です。

兵庫大仏は高さ11mで日本三大仏のひとつです。
しかし、明治時代に建立された初代の大仏は戦時中に金属供出されてしまいました。

現在の大仏は平成3年(1991)に再建された大仏です。




境内には平清盛の廟所があります。




神戸事件で切腹した備前藩士滝善三郎の碑です。





次に訪れたのは真光寺です。







時宗の開祖一遍上人が亡くなられた寺院と伝わり境内には五輪石塔の廟所があります。
阪神淡路大震災の際に石塔が倒れ中から骨壺が見つかり信憑性が高まりました。









清盛塚です。

平清盛の墓と伝えられてきましたが、発掘調査の結果、墳墓ではない事が判明したそうです。
"福原"に愛着のあった清盛だけにロマンを感じます。







琵琶塚です。

清盛塚に寄り添うように建っている琵琶塚は琵琶の形をした古墳を琵琶の名手であった平経正に墓として伝えてきたものです。

ふたつの塚とも市電の道路拡幅工事により現在地に移されています。







最後は薬仙寺です。

開山が行基と言う時宗寺院に古刹です。




境内には後醍醐天皇の頭痛を癒したと言う霊泉があり寺名の由来ともなっています。







ご本尊の薬師如来坐像は毎年8月8日、9日の2日間開扉されます。

螺髪のひとつひとつが大きくエキゾチックな感じがするお薬師さんです。



十一面観音立像です。

清盛がここ大輪田の泊に固執した理由の一端がわかったような気がします。









金剛能楽堂 虫干し鑑賞会

2021年08月11日 07時08分00秒 | 日記
 早くも先月の事になってしまいましたが7月24日はJR東海「そうだ 京都、行こう。」の表題のイベントに参加しました。







先ずは護王神社の会館で金剛流能楽師の宇高竜成さんから"能"についてのレクチャーがありました。

「能」についての知識は全く無いので大いに勉強になりました。

能のは謡(うたい)、舞、囃子、能面・装束の全てが融合された総合舞台芸術です。
古代の芸能である猿楽の流れをくみ、600年余り前の南北朝時代に結崎座の世阿弥により大成されたと言われています。
(この辺りまでは日本史の授業で習った覚えがあります。)

能の流派は5流派ありますが唯一、京都を本拠に残ったのが金剛流です。


こちらがレクチャーして頂いた金剛流能楽師の宇高竜成さんです。







虫干しは7月中旬の土日の二日間行わる京都の夏の風物詩のひとつです。
曜日により展示内容がそっくり代わるそうで、能のファンの方々にとっては嬉しい恒例行事となっています。





中には能を愛した豊臣秀吉が所有した「小面(雪の小面)」などの名品も多く展示されています。

展示されている能面や装束を宇高さんがイヤホンレシーバーを通して解説して頂けるので僕のような"門外漢"でも興味を持って鑑賞する事が出来ました。







入門編の講演があれば鑑賞してみたいですね。



相国寺境内と承天閣美術館「若冲と近世絵画 後期」

2021年08月10日 18時46分58秒 | 日記
 8月2日は「魏飯夷堂」でランチを頂き市バスを乗り継ぎ相国寺へと来ました。









勅使門の前の放生池には様々な種類の蓮の花が咲いています。
(午後なので閉じている花が多いですが、、)

また、この放生池付近は応仁の乱の最大の激戦地で池には多くの死体が浮いていたそうです。
この平和な光景からは想像がつかないですね。





かって存在した仏殿の基壇や礎石が残っています。





1605年に再建された「法堂(はっとう)」です。



天井には狩野光信筆の"鳴き龍"が描かれています。

相国寺の伽藍内部の拝観は年2回の春と秋に行われていて今年の「秋の特別拝観」は9月18日から予定されています。



方丈、法堂は毎回公開されますが、開山堂と浴室は交互に公開されます。
春の公開は開山堂だったので秋の公開は浴室になると思われます。







相国寺の開基は室町幕府三代将軍義満で創建時には境内東南の地には高さ36丈(約109m)もの高さを誇る七重大塔がそびえていたと言われます。



東寺の五重塔が高さ約55mですから如何に大塔であったのかが想像できます。
(あべのハルカスが完成した時に下から見上げたような感動と驚きがあった事だと思います。)



残念ながら礎石などの痕跡は残っていないですが「塔之段」の地名が残って事から塔の推定地とされています。







承天閣美術館へのアプローチです。
いつも綺麗に掃き清められ、また、庭園も素晴らしいものがあります。











前期に訪れた展覧会の後期が今月1日から始まっています。

相国寺は境外塔頭に鹿苑寺金閣と慈照寺銀閣、真如寺があり、鹿苑寺と慈照寺には伊藤若冲の初期の作品が多数残されています。




鹿苑寺大書院障壁画(重文)です。

時の相国寺の住持大典禅師がまだ無名だった若冲を抜擢し描かせた障壁画です。



若冲初期の代表作「釈迦三尊像」です。

若冲渾身の作で相国寺に奉納され、今も相国寺の大事な法要の際には方丈にかけられます。(法要には複製が使われています。)







こちらも若冲の代表作「動植綵絵」30幅の一部です。(展示は無いです。)
先程の「釈迦三尊像」と共に相国寺に奉納された絵画です。

明治に入り相国寺の運営も苦しくなり、やむなくこの絵を皇室に献上し、頂いたお金で旧境内地を買戻したり堂宇の再建に役立てられました。
結果、若冲の絵画が相国寺を救済する事になります。

今まで皇室の宝物は文化財指定されていませんでしたが、今年の審議会でこの「動植綵絵」が国宝指定される事が決まりました。









同時代に活躍した円山応挙の作品も展示され中身の濃い展覧会となっています。



若冲が世に出るきっかけとなった彼のお墓は相国寺境内にひっそりとあり、今も相国寺を見守っているかのようです。