京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

進々堂 東洞院店のランチ

2020年08月18日 05時47分00秒 | 日記
 冨永正治さんと言う方とFacebookを通じて知り合い、彼が主宰されている「知れば知るほど楽しくなる、京都の歴史と文化」の勉強会にお声を掛けて頂き、参加させて頂いています。

その後に、進々堂でランチをするのが何故か定着しています。(無論、美味しいからですが、、、)
この日はナポリタンを選択。モッツァレアチーズとの相性も抜群で美味しく頂きました。







クロワッサンやカツサンドも美味しいですよ!

勉強会の会場は四条烏丸近くにある"ウィングス京都"です。(JRAの場外馬券売場ではないですよ!?)

9時30分から約2時間、会員の方がテーマを設定し、発表されます。

この日のテーマは①「本能寺の変を考える」と②「二条城はこんなにすごい!」の講座でした。

①のテーマはまさに"永遠の謎"ですね!
ご存知の通り明智光秀は非常に真面目な方で主人の意向を誰よりも早く察して武功をたて、そして、織田信長に仕えてわずか4年で坂本を任される城持ち大名に出世します。
そして、生涯側室を持たず妻煕子を生涯愛し続けました。

そんな出世街道を秀吉と争いながら駆け上がっていた男が何故?ってと誰しもが思う事です。

私は「秩序崩壊阻止説」と勝手に言っていますが、先程も述べたように光秀の真面目な性格から考えて将軍を頂点とする室町幕府の崩壊させまた、天皇の存在さえ越えようとしていた信長の振舞いが許せなかった、、、のではと思っています。
(暴君討伐説に近いかも知れないですが)

それに本能寺の変の時、光秀55才。
年齢から来る思考や体力の衰え。
一種の精神耗弱状態に落ち入り、物事の善し悪しの判断が出来なかったのでは、、、と思っています。

しかし、史実を見れば本能寺の変の前日には愛宕山で必勝祈願をし、連歌の会を催し、あの有名な「ときは今 あめが下しる、、、」の上の句を詠んでいます。
これを見ると、当時は連歌も普通に詠める精神状態だったと思われるし、、、

しかし、人間の精神状態はわからないもので、一夜にして変わってしまう事もあるのです。
冨永さんも言われていましたが歴史に詳しい精神科医が論文なり小説を書かれたら面白いものが出来ると思います。

しかし、それらに関する文献が少な過ぎます。謀反を企てるのに仲間と会ったり密儀をした証拠や手紙のやり取りの証拠を残す筈がないのが普通です。ましてや光秀ほどの人物がそんな証拠を残す筈もありません。むしろ密儀などは無かったのが史実ではないでしょうか?

本能寺の変後に自分に味方してくれるよう知人に手紙を出していますが、ことごとく断られています。親交の深かった細川藤孝にまで断られているあり様です。

本能寺の変が如何に"突発的な"クーデターであったのかがわかる出来事だと思います。
いずれにせよ、新たな信頼出来る資料が発見されない限り、本能寺の変の真相は永遠に闇の中だと思います。



京都御苑内の三神社 ②宗像神社

2020年08月17日 05時19分00秒 | 日記
 宗像神社は先日の厳島神社のすぐ北側に鎮座する御苑内の神社です。





駒札にあるように宗像三女神を主祭神に倉稲魂神と天岩戸開神の2柱を配祀していましす。

主祭神の三女神は世界文化遺産に登録された宗像神社と「同神」と書かれたりまた、「同神別社」と書かれる文書もあり、はっきりとしていないようです。





御苑の西南方向の裏鬼門にあるため、方除けで信仰されているようです。

ご由緒は延暦14年(795)に藤原冬嗣が桓武天皇の勅命で皇城鎮護の神として筑前宗像神を勧請し、自身の邸宅・東京第の西南隅に祀ったのが始まりと伝わります。
源師房の「土右記」に由緒について書かれているようです。

冬嗣の没後は、東の花山院と西の小一条第とに分かれています。

また、東京第では嘉祥3年に清和天皇がご誕生されて、天皇の即位の翌年貞観元年(859)には主祭神の宗像三神に従三位の位が授けられています。
天承元年(1131)に藤原師実から子家忠が花山院家を開いています。







境内社に繁盛稲荷社、少将井社、金比羅宮、花山稲荷社、昭和44年(1969)には観光業社の発案で京都観光神社が道案内の神として勧請創祀されています。

また、境内の桜は元は御所の"左近の桜"で、昭和11年に京都御所紫宸殿前の左近の桜を植え替えた際にこちらに移植されたものです。



奈良 元興寺

2020年08月15日 07時53分00秒 | 日記
 元興寺は興福寺の南側奈良町にある世界文化遺産(古都奈良の文化財)にも登録されている古刹です。

表紙にある東門(重文)は、中世末期に東大寺西南院から移されたものです。





高校生の頃から奈良巡りをしていましたが、恥ずかしながら元興寺は初訪問です。

元興寺の前身が明日香村にある飛鳥寺で日本初の仏教寺院です。





当時、日本と外交関係の深かった百済の国王は仏舎利を献じたのをはじめ、僧侶や寺工、瓦職人などの職人集団を派遣しました。

都が平城京に遷都された際に、飛鳥寺は現在地に移転しています。飛鳥時代の屋根瓦数千枚が現在の極楽堂・禅室の屋根に再利用されています。







"天平の甍"を感じる丸瓦です。



奈良時代の終わりに智光がでて三論で有名な学僧で、晩年には浄土教の研究に取組みます。
また、極楽坊のご本尊となる智光曼荼羅(重文)を残しています。
その智光が住んだ僧坊のひとつが極楽坊です。





こちらの禅室(僧坊)も国宝建築物です。





ご覧の通り境内の数カ所には当時の礎石がそのままの状態で残っています。







お釈迦さまの仏足石です。
お釈迦さまの身長は一丈六尺(約4m80cm)とされている為、仏足石もこのように大きいです。



"法輪館"と呼ばれる元興寺総合収蔵庫には国宝の五重小塔をはじめ多くの寺宝が展示されています。





国宝五重小塔と重文・阿弥陀如来坐像です。









 
(内部は撮影禁止なので元興寺HPからの映像です。)

このように特定の宗派に固執する事なく地蔵信仰、聖徳太子信仰、弘法大師信仰、あるいは神仏習合の象徴である僧形八幡神像までお祀りされていて、元興寺がいかに一般庶民の信仰によって成り立っていたのかが垣間見えます。

初めての拝観でしたが、さすがに"南都七大寺"のひとつに数えられたかっての大寺院、、、得るものが非常に多い寺院でした。

















京都御苑内の三神社 ①厳島神社

2020年08月14日 08時20分00秒 | 日記
 京都御苑内には主だった神社が三つ鎮座されています。(他にもあるかも知れないですが、、、)

①先ずは厳島神社です。







駒札にあるように、ご祭神は市杵島姫命をはじめ宗像三女神で祇園女御を配祀します。
配祀神は本来、平清盛の母の霊であったと思われますが、後に著名なその姉(平清盛の伯母)の祇園女御に変えられたようです。

ご由緒は社伝によると安芸国厳島社を崇敬していた平清盛が摂津国兵庫津に築島を造成した際に、社殿を構えて厳島社を勧請した事にあるようです。

時期については不詳ながら現在地に遷座されたものです。後に九條家の邸宅に取り込まれ、九條家の鎮守社として崇敬されて来ました。





この神社を有名にしているのは平清盛が寄進したと言われる「唐破風鳥居」で重要美術品に指定されています。

北野天満宮境内社の伴氏社の「石造鳥居」、木嶋坐天照御魂神社(通称 蚕の社)の「三柱鳥居」と合わせて「京都三珍鳥居」とされています。

九條家の庭園にすっかり溶け込むようで境内に咲く百日紅の可憐な花が蒸し暑い京都の夏に一服の涼を与えてくれています。




 (奈良国立博物館)

2020年08月13日 05時44分00秒 | 日記
 8月4日、奈良国立博物館で行われている「よみがえる正倉院宝物 再現模造にみる天平の技」に行って来ました。



奈良の秋の恒例行事でもある「正倉院展」は聖武天皇、光明皇后ゆかりの宝物を始め、奈良時代を代表する品々が公開され、中には遥か西域や唐からもたらされた宝物も伝わっていて正倉院が"シルクロードの終着点"と言われる由縁です。

パンフレットの中央に掲載されている「模造 黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいのじゅうにりょうきょう)」



七宝で装飾した鏡の模造です。原宝物は正倉院に伝わる鏡のうち唯一銀製で、同時に全宝物中唯一の七宝製品と大変珍しく品です。背は大小計18枚の花弁を組み合わせて空想上の花である宝相華模様を表しています。花弁は銀の薄板に細かく砕いた色ガラスの粉末を盛って焼き付けています。着色材として、黄色部分は鉄、濃緑色や緑色の部分は銅を用いています。
(朝日新聞からの抜粋です。)

「模造 螺鈿玉帯箱(らでんぎょくたいばこ)」



奈良時代、高位の人物が身につけたと考えられる「紺玉帯(こんぎょくおび)」を収める箱の模造。
本体はヒノキの黒漆地。貝殻で花や鳥の模様を施す「螺鈿」など、奈良時代の伝統技法を重ねて用いた豪華な作りです。

原宝物の内側の綿は退色や破損が見られるが、模造製作では色とりどりの糸で文様を織り出した綿を使っています。
(朝日新聞からの抜粋です。)

この様な模造製作は明治時代から始まり、当初は模造製作は修理と一体の事業として行われて来ましたが、昭和47年(1972)からは、材料や技法、構造の忠実な再現に重点を置いた模造製作が行われて来ました。

現代の人間国宝の方々の熟練の技や最新の調査や研究成果を盛り込み優れた模造品が製作されてきました。

これらの事業は日本の伝統技法の継承や復活に大いに貢献していると感じます。

パンフレット左側に掲載の「螺鈿紫檀五弦琵琶(らでんしたんごげんびわ)」の模造製作には実に8年もの歳月を費やし製作されたものです。



現代の匠の技に感心すると共に再現に懸ける現代の匠たちの意気込みや執念までも感じる逸品です。

今回の出品目録です。








旧本館の"なら仏像館"にも寄り多くの素晴らしい仏像にもお会いして来ました。

設計は当時宮内省技師であった片山東熊(かたやま とうくま)によるものです
昭和44年(1969)には国の重要文化財に指定されています。