冨永正治さんと言う方とFacebookを通じて知り合い、彼が主宰されている「知れば知るほど楽しくなる、京都の歴史と文化」の勉強会にお声を掛けて頂き、参加させて頂いています。
その後に、進々堂でランチをするのが何故か定着しています。(無論、美味しいからですが、、、)
この日はナポリタンを選択。モッツァレアチーズとの相性も抜群で美味しく頂きました。
クロワッサンやカツサンドも美味しいですよ!
勉強会の会場は四条烏丸近くにある"ウィングス京都"です。(JRAの場外馬券売場ではないですよ!?)
9時30分から約2時間、会員の方がテーマを設定し、発表されます。
この日のテーマは①「本能寺の変を考える」と②「二条城はこんなにすごい!」の講座でした。
①のテーマはまさに"永遠の謎"ですね!
ご存知の通り明智光秀は非常に真面目な方で主人の意向を誰よりも早く察して武功をたて、そして、織田信長に仕えてわずか4年で坂本を任される城持ち大名に出世します。
そして、生涯側室を持たず妻煕子を生涯愛し続けました。
そんな出世街道を秀吉と争いながら駆け上がっていた男が何故?ってと誰しもが思う事です。
私は「秩序崩壊阻止説」と勝手に言っていますが、先程も述べたように光秀の真面目な性格から考えて将軍を頂点とする室町幕府の崩壊させまた、天皇の存在さえ越えようとしていた信長の振舞いが許せなかった、、、のではと思っています。
(暴君討伐説に近いかも知れないですが)
それに本能寺の変の時、光秀55才。
年齢から来る思考や体力の衰え。
一種の精神耗弱状態に落ち入り、物事の善し悪しの判断が出来なかったのでは、、、と思っています。
しかし、史実を見れば本能寺の変の前日には愛宕山で必勝祈願をし、連歌の会を催し、あの有名な「ときは今 あめが下しる、、、」の上の句を詠んでいます。
これを見ると、当時は連歌も普通に詠める精神状態だったと思われるし、、、
しかし、人間の精神状態はわからないもので、一夜にして変わってしまう事もあるのです。
冨永さんも言われていましたが歴史に詳しい精神科医が論文なり小説を書かれたら面白いものが出来ると思います。
しかし、それらに関する文献が少な過ぎます。謀反を企てるのに仲間と会ったり密儀をした証拠や手紙のやり取りの証拠を残す筈がないのが普通です。ましてや光秀ほどの人物がそんな証拠を残す筈もありません。むしろ密儀などは無かったのが史実ではないでしょうか?
本能寺の変後に自分に味方してくれるよう知人に手紙を出していますが、ことごとく断られています。親交の深かった細川藤孝にまで断られているあり様です。
本能寺の変が如何に"突発的な"クーデターであったのかがわかる出来事だと思います。
いずれにせよ、新たな信頼出来る資料が発見されない限り、本能寺の変の真相は永遠に闇の中だと思います。