京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

清水寺 千日詣りと歴史ウォーク

2020年08月23日 06時41分00秒 | 日記
 8月15日はJR東海「そうだ 京都、行こう。」の表題のオリジナルイベントに参加しました。

講師は京都国立博物館で長年学芸員としてご活躍されてこられた下坂 守先生です。(現在は定年退職され、同館の名誉館員でいらっしゃいます。)

ご専門は日本中世史で長年、"清水寺参詣曼荼羅図"(清水寺本)"を調査・研究してこられました。



まずは、前回に記事にした「五龍閣」の二階で"清水寺参詣曼荼羅"を中心にした座学があり、お寺の歴史や由緒、勧進僧"願阿弥(がんあみ)"について学びました。

16世紀中頃に描かれたと考えられている"清水寺参詣曼荼羅図"には舞台が本堂と奥の院の二ヶ所あります。これは現在と変わりません。

しかし、注目は朝倉堂にも舞台が描かれている点です。

ここで清水寺の歴史を簡単な年表で振り返ります。

宝亀9年(778) 奈良小島山寺の僧延鎮(延鎮)が観音の夢告により音羽の滝にいたり、行叡(ぎょうえい)に出会う。

宝亀11年(780) 坂上田村麻呂が狩猟の途中に延鎮と出会い清水寺を創建する。
当時、田村麻呂の妻が懐妊中で滋養をつけさせようと鹿狩りをしていたと伝わります。

文明元年(1469) 応仁の乱で焼失。

文明11年(1479) 成就院の勧進僧願阿弥が伽藍再建の勧進を始める。

天文14年(1545) 願阿弥の後継者により伽藍の復興がなります。
復興には実に66年もの歳月を費やしています。
この頃に清水寺参詣曼荼羅図が描かれ、勧進の際にも使われたと思われます。

寛永6年(1629) 成就院からの出火により伽藍が焼失。

寛永10年(1633) 徳川幕府の援助で伽藍が再興。
僅か4年での再興は徳川の権力の象徴ですね。



上の図の左下には五条橋です。当時の鴨川の幅は広く今の河原町通付近までありました。

図の様に中洲があり、その中洲にある小屋には勧進僧が2名いて杓子でお金を集めている様子が描かれています。

北陸の戦国大名朝倉氏は清水寺との繋がりが深く、当時、本堂西側には舞台を備えた朝倉堂があったのがわかります。





こうして参詣曼荼羅を見ていると中世と現在に清水寺の建物の配置は全く同じですね。

違いは①子安の塔の位置、、、"清水寺参詣曼荼羅図"が描かれた時には仁王門の前にあったようです。(現在の派出所あたり)

②成就院の位置、、、勧進僧のお寺である成就院は清水寺の境内には入れてもらえなかったようです。
清水寺の僧は学問の出来るいわゆるエリートです。

座学が終わり、下坂先生のイヤホンレシーバーを使っての清水寺歴史ウォークがありました。





舞台の擬宝珠にも"寛永10年"が刻まれているのを初めて知りました。



清水寺について深く知るいい機会でした。

9月6日に"まいまい京都"でも下坂先生の同様な講座があります。
(8月22日現在、キャンセル待ちになっています。)