弥生文化博物館の見学を終え、すぐ北隣に広がる池上曽根遺跡を見学します。
"いずみの高殿"と名付けられた集落の中心となる大型掘立柱建物です。
縦11.2m、横30mに復元された建物は、集落の中心となる神聖な建物で高床式の床上は神の宿る聖なる部屋、床下の空間は人々が集う場所と想像されています。
"いずみの高殿"と名付けられた集落の中心となる大型掘立柱建物です。
縦11.2m、横30mに復元された建物は、集落の中心となる神聖な建物で高床式の床上は神の宿る聖なる部屋、床下の空間は人々が集う場所と想像されています。
弥生時代にこの様な巨大な建物があったとは今まで想像出来ませんでした。
1995年6月17日の朝日新聞の朝刊には"弥生最大級の建物跡、吉野ヶ里に匹敵、邪馬台国論争に一石"と報じています。
邪馬台国の論争では1989年の吉野ヶ里遺跡の発見で「魏志倭人伝」に記載されているクニではないかと九州説が有力になった感がありました。
しかし、6年後の1995年に発見された池上曽根遺跡の発見で近畿説を補完する大発見でした。
外側で建物を支える棟持柱(むなもちばしら)を持つ大型建物の発見は様々なメディアに取り上げられました。
"やよいの大井戸"と名付けられた大型の刳り抜き井戸です。
先程の大型掘立柱建物の南に位置し、直径が2.3mものクスノキを刳り貫いた大型の井戸です。
クスノキは今日でも使われる防腐剤の樟脳(しょうのう)の原料となる木で、この木を利用した井戸の水は飲料水としては適していません。
クスノキの匂いが移った水は神聖な水、清めの水として使われていたと考えられています。
集落の中心には掘立柱建物群があり、道具を製作する作業エリアと考えられています。
人々が暮らした竪穴住居です。
池上曽根遺跡で人々が暮らした約500年の間に竪穴住居の形が円形から方形に変化しているそうです。
集落の周囲を囲む"環濠"です。
環濠により集落の範囲を明確にする意味合いや従来を外敵から守る"総構"の意味合いもあったのでしょうか?
発見当時、"弥生時代に「都市」はあったのか?"どうかの論議がありましたが、この池上曽根遺跡を見ていると首長を中心に一定の「都市」機能があったように思えて来ます。
弥生時代の人々の知恵に驚くばかりです。