大河ドラマ「龍馬伝」の影響で、今、日本はちょっとした龍馬ブーム、幕末ブーム。
幕府が力を失った幕末動乱の時代、維新回天へと導いた龍馬の活躍とその時代背景は、今の混沌とした日本の状況と重なるのか、政界においても、志士や龍馬を自任する政治家や、”~維新”といった言葉をよく耳にする。
”奇兵隊”内閣・・なんて言ってた首相もいたっけ・・?
そうした幕末の混乱期には「勤皇」か「佐幕」か、あるいは「公武合体」か、対外政策においては「開国」か「攘夷」か?―といった様々な思想が横行した。
大政奉還は、幕府が朝廷に政権を返上するというもので、「勤皇」思想があって、はじめて可能であったし、この「勤皇」思想と、外国人を日本から追い払うという「攘夷」思想とが結びついたのが、いわゆる「尊皇攘夷」思想である。
この「勤皇」思想は国学や、水戸学と呼ばれる”黄門さま”でおなじみ、水戸光圀がはじめた『大日本史』の歴史編纂事業から発展、日本古来の伝統を追求する学問で、全国の藩校で教えられ、「愛民」、「敬天愛人」などの思想は、吉田松陰や西郷隆盛をはじめとする幕末の志士たちに多大な影響をもたらし、維新の原動力となった。(カテゴリー/歴史・民俗:「ビスケットの日」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/02abf7aca71c36adea2e14b017e5d16e)
―さて、吉田松陰といえば、松下村塾を開き、高杉晋作や久坂玄瑞らを指導した幕末の思想家として、知らぬ者がないほど有名であるが、その松陰の思想に少なからぬ影響を与え、”思想界の先覚者”と呼ばれる人物が、この広島県にいたのである!
それが、この宇都宮黙霖(うつのみやもくりん)である。
http://homepage1.nifty.com/hiro-sentoku/old/sekisen/sekisen_mokurin.htm
江戸末期の文政7(1824)年、安芸国賀茂郡広村長浜(広島県呉市)に生まれ、明治維新の勤皇僧として、吉田松陰、月照らと交わって倒幕に奔走し、数奇な運命のもとに活躍した人物。
やはり僧で、勉学中だった父・峻嶺の結婚が認められないまま、私生児として生まれ、籍にも入れられず、養子に出されるなど、不倫の子、日陰者として不遇な幼少期をすごし、手のつけられない悪童として育った黙霖は、15歳の時に、叔父にあたる専徳寺の常諦が『大学』の素読を授け、勉学の道を勧めた。
そこから心機一転、学問に志し、西条町の漢学者、野坂由節に師事、次いで蒲刈島弘願寺の円識(石泉和上の弟子・本願寺派勧学)について宗学を学び、さらに円識の奨めで、天下に師を求めて遊学し、芸州きっての儒学者といわれた広島の坂井虎山、木原桑宅、肥前平戸の光明寺拙厳勧学などを尋ねていったと伝えられている。
20歳の時、
漢詩「菊花を詠ず」を作り、師に指導を願ったトコロ、「もう教えることはない」と言われ、代表作の一つとなった。これは「菊花の詩」として、志士の間で愛好されたという。
このように若い頃から詩や和歌を好み、晩年は長浜へと帰り、石泉文庫にある『大蔵経』を読破して和訳し、約20年を費やして46万首(!)の和歌の形式に整えたほど。
その中の35万首が、現在も石泉文庫に遺されているそう。
22歳の時、旅の途中で病気のため、聴力を失うも、その後はすべて筆談を用いながら、九州、山陰、江戸など40余国をわたり、多くの漢学者、国学者と出会い、識見をひろめた。
この頃から国学研究によって勤皇論を唱え始め、その思想を確立、嘉永5(1853)年、江戸に上って老中・阿部伊勢之守正弘に論稿を送り、ひとり勤皇倒幕論を叫んで驚かせた。
そのため、安政元(1854)年、幕府や広島藩からの追及を受け、父親にも厳しい詮議が及ぶも、よく逃れて、また流浪の旅を続けた。
安政2年、萩に赴き、吉田松陰の『幽囚録』を読んで感動し、獄中の松陰に書を送って文通を繰り返し、松陰に大きな影響を与え、思想的な転換をさせたといわれており、それが”思想界の先覚者”といわれる所以である。
松陰が「時局観を先にし、攘夷の為に尊王論を統一し、人身を一に帰せしむべし」と考えたのに対し、黙霖は「国体論を第一にし、攘夷の有無に拘らず尊王を叫ぶべきである」と主張、松陰が幕府に対して、その誤りを諌める考えであったのに対し、黙霖は徹底的に倒幕を主張した。
黙霖との手紙のやりとりによる論争で叩きのめされた、当時29歳の松陰は、「茫然自失し、ああこれまた(自分の考えは)妄動なりしとて絶倒いたし候」「僕、ついに降参するなり」と述懐している。
安政の大獄の際に、頼三樹三郎、梅田雲浜などと一緒に捕らわれたが、僧形のために釈放されたとか、広島藩に捕えられ、棺に入って脱出し、山口に逃れて毛利家の歓待を受けたとも・・。
再び広島藩から幕府に渡され、大阪にいた時、ようやく明治維新を迎えた。
明治27(1894)年、日清戦争中に、時の総理大臣、伊藤博文が来広した際、ぜひ一度、お会いしたい・・と、わざわざ呉まで尋ねて来て、黙霖のコトを「先生」と呼び、周囲の人々を驚かせたというエピソードも残っている。
黙霖が影響を与えた松陰門下の晋作に小突かれながら育った伊藤にすれば、当然のコトであろうが・・。
明治30年、73歳で逝く。
耳が聞こえなくなった22歳の夏に得度して、本願寺の僧籍に入り、法名「覚了」となるが、後に「黙霖」の号を称するコトが多く、こちらが通称として世間では知られているそう。
―とはいえ、広島は呉の生んだ黙霖の名を知ったのは、恥ずかしながら、つい先日のコト・・。
こーゆー人もいたんだねぇ・・。
典拠となるサイトなどありましたら、教えて頂ければさいわいです。