今日は自分の誕生日。丑年の今年こそ、子どもがほしいなあ~・・。(丑年とか関係なくだけど・・)
ちなみに牛といえば、昔話で神さまが干支を決めるので、来た順にしてやろうと言われ、足の遅い牛は夜中に出発し、1番に神さまのもとに着いたという堅実派。
しかし、実際にはその牛の背中で休んでいたネズミが神さまの前で牛から飛び降り、子年が1番になったという・・。(笑)
しかも後日談として、猫にそのコトを伝えなかったネズミは、干支に選ばれなかった猫の恨みを買い、それ以来、猫から追い掛け回されるようになったというから、この話のネズミはえらいズル賢いイメージだよなあ・・。
まあ、堅実に、着実に進む年・・というコトを言いたかったのだが、昔から農耕用として人とのかかわりが深い牛は、霊験あらたかな神の使いとして神話や物語にも多く登場し、特に天神様として名高い菅原道真は、丑年の丑の日の生まれといわれ、牛にまつわる物語が有名だそう。
また、牛は古来より人生・教育の基本を象徴するともいわれ、「牛を見習えば何事も出来ない事は無し」と諭されてきたとか。
ガキの頃、食べてすぐ横になると、母からよく「牛になるで~!」と怒られたものだが・・。
聖書にもアブラハムが神にハト、羊、牛と3種の供え物をするが、ハトを裂かなかった為に神の御心にかなわず、荒い鳥が舞い降り、後にわが子イサクをささげなければならなくなるという話があるが、完成を象徴する供え物が牛なのだ。
しかし、新たな年を迎えるたびに思い出すのが
「門松は冥途の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
・・という一休さんの詠んだ狂歌だが、生きてる限り年はとるもの。1つ年をとる・・というコトは、1歩死へ近づくというコトに他ならない。
「生計」という言葉に対し「死計」という言葉がある。
いかに死を迎えるか。
死に様に生き様があらわれるという。
よく生きた者が、よい最期を迎えるコトが出来るのだろう。
・・自分がこの世に生を受けた日にこんな話もなんだが、本当にこの”生命”というものは、どれだけ尊いものかとあらためて思わされる。
家庭をもって4年になるが、まだ子どもはない。しかし、どれだけ望んでも、こればっかりは本当に天からの授かりものなのだ。
そうやって自分たち夫婦が子どもを望みながらも与えられない期間を通じて、悟らされた内容の1つがこの命の尊さだ。
自分がこの世に生まれてきたというコトは、なんという奇跡なのかと・・。
すごい確率、競争率を勝ち抜いてこの世に誕生した、いわば超エリートである。
その命を自ら絶つというのは、どれだけ愚かしく、罪なコトなのか。
この世に生を受けた、そのコト自体、その人がこの世に必要とされて生まれてきた・・というコトなのだ。
金八先生の一文字の手紙で「命」というのがあった。
「人」の中で「一」つ、自分を「叩」くものがある。
それが「命」だと・・。
その命の声を、無視しないでほしい。
そして、自分を産んでくれた両親に感謝したい。
本当に、ありがとうございます。
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