対話とモノローグ

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周期律1913

2012-06-27 | 周期律

 周期律は量子論によって把握できるようになった。これが周期律の歴史の通説である。間違ってはいないが、核心はつかまれていないと思う。物理の量子論と化学の周期律を外的に関連させるだけの展開をみると、違っているのではないかと思う。

 1913年から1925年の化学と物理の歴史を見てみると、この過程は周期律の形成過程でもあり、量子論の形成過程でもあって、二つの過程は並行している。

 わたしは1913年に提起されたボーア原子論によって周期律の形成過程は新たな段階に突入したと考えてきた。それは武谷三段階論の用語を使えば、実体論的段階から本質論的段階への移行と表現できるものである。ケプラーの惑星の法則がニュートン力学の母胎だったのと同じように、メンデレーエフの周期表は、ボーア原子論の母胎だったのである。

   周期律の形成について

 これまでボーアの電子配置については、1922年のものを知っていた。これは、2つの量子数(主量子数と方位量子数)に基づいて原子の内部電子群を描いたものである。それは「あらゆる細部まで」説明できたわけではなかったが、ボーアをして「たとえ、希土類元素の存在が直接の化学的研究によって確立されていなかったとしても、元素周期系の第6周期内にこのような性格の元素族の現れることは理論的に予言しえた、と申しても過言ではないかと思います」と言わしめたものである。
 
 こんど『周期表ー成り立ちと思索ー』(エリック シェリー著、馬淵・冨田・古川・菅野訳、朝倉書店、2009年)を読んでいて、ボーアが1913年に提起した原子の電子配置の表を知った。混沌としているように見えた。しかしそれは本質論的段階の始まりにふさわしい混沌であるように思えた。

 ボーアは電子配置を通して周期表を理解しようとした。そして電子を配置するさいに、次のように考えた。周期表で1つの元素から次の元素に移るとき、元素の違いを生じさせる電子は原則として内殻ではなく最外殻に入る。また、周期表で同族に属する元素は同じ外殻電子構造をもつ。

 このような構築原理で電子を配置していくが、1913年の電子配置は、1つの量子数だけに基づかざるをえなかった。量子数1つでは、各殻の最大電子数を決定できず、量子論は空転し、化学と分光学のデータに依存せざるえなかった。いいかえれば、ボーアは周期表を導きの糸にして、電子を配置している。

 1913年の電子配置は次のようなものである。

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 エリック・シェリーの注釈を引用しておこう。

 ボーアがこれらの電子配置を生み出すにあたり、基本的に化学的考察に基づいて決めたことは、いくつかの元素の電子配置の決め方にはっきりと読み取ることができる。最外殻の電子の数は原子価に基づいて決められた。これらの電子は核に最も弱く結びついているので、たやすく他の原子と結合する。たとえば窒素の場合、ボーアは、窒素の原子価は3価なので最外殻の電子が3価になるように内殻電子の組み立てを変えた。このことは表7. 2によく現れている。ヘリウムから炭素までは内殻電子数は2個で、外殻電子数はいろいろの値をとるが、窒素になったとたんに内殻電子数が2倍の4個になる。窒素が3個の化学結合をつくるのに合わせて最外殻電子数を3個にしたことを理解しないと、なぜ内殻電子数を4個にしたかは奇妙にみえるだけである。

 実験的証拠に基づいてボーアは電子配置を変化させたが、なぜそのような配置の再配分が必要になったかについては、全然理論的理由づけを行わなかった。このような突然の配列の変化は、表7.2に示した24個の電子配置だけをとっても窒素やリンのところなど、何か所にもみられる。これら二つの元素の原子は原子価3をとる、一方、酸素と硫黄の原子価は2であるし、また、フッ素と塩素は1価であるので、ボーアの選んだ電子配置と一致している。量子論から原子モデルを厳密に導く代わりに、ボーアは分光学と化学的考察に加え直観にも頼っていたのである。


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