対話とモノローグ

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周期律の形成と武谷三段階論

2021-12-29 | 周期律
ホームページの更新履歴を見ると、2005年に「周期律の形成について」という記事を補論として投稿している。はじめに(1990年)・目次(2000年)・まえがき(2005年)・本論(1980年、印刷物)という構成である。

昨日の記事は、目次(2000年)・まえがき(2005年)である。今日は「はじめに(1990年)」を投稿する。これは1980年代の後半に「複素過程論」を構想していたころ、ほぼ10年前の「周期律の形成について」を振り返っているものである。

周期律の形成と武谷三段階論

 私は周期律が形成されてきた歴史をたどったことがある。それは周期律が歴史的制約のなかから誕生し、その制約をうちやぶりながら、現在の水準に接近してくる歴史過程と論理過程を同時に把握することをめざしたものである。メンデレーエフやラムゼー、モーズリやボーアなどの歴史的な論文の正確な「読解」もとに、ケドロフの『科学的発見のアナトミア』とスプロンセンの『周期系の歴史』に対抗させながら、私は周期律の形成過程を展開した。そのときに方法として使用したのは武谷三段階論である。

 武谷三段階論というのは自然を認識していく過程には質の異なった三つの段階、現象論的段階・実体論的段階・本質論的段階があるという科学方法論として提出されたものである。ニュートン力学が形成された歴史から三つの段階をたどれば、観測結果を蓄積したティコ・プラエの段階、そこから法則性を洞察したケプラーの段階、地上の法則と天上の法則をとらえたニュートンの段階の三つの段階があるということになる。

 武谷の「ニュートン力学の形成について」は、温古知新ということばで表わされている精神と同じように、現代約な課題(素粒子論の研究)を追及する過程でニュートン力学の形成史の反省に向かったものだ。最初に武谷にふれたときの感動はまさにこの姿勢にあった。
 武谷三段階論の定式を確認しておこう。
(引用はじめ)
 以上のことから自然認識が三つの段階をもっていることがわかる。すなわち第一段階として現象の記述、実験結果の記述が行なわれる。この段階は現象をもっと深く他の事実と媒介することによって説明するのではなく、ただ現象の知識を集める段階である。これは判断ということからすれば、ヘーゲルがその概念論で述べているように個別的判断に当たるものであって、すなわち Dasein の肯定的判断として、個別的な事実の記述の段階であり、an sich である。これを現象論的段階と名づける。ティコの段階。
 第二、に現象が起こるべき実体的な構造を知り、この構造の知識によって現象の記述が整理されて法則性を得ることである。ただしこの法則的な知識は一つの事象に他の事象が続いて起こることを記するのみであって、必然的に一つの事象に他の事象が続いて起こらねばならぬということにはならない。すなわちこれは post hoc という言葉で特徴づけられるもので、これは概念論の言葉で言えば、特殊的判断と言えるものである.特殊な構造は特殊な事情において特殊な現象をもつことを述べるものである。für sich の段階でその法則は実体との対応の形において実体の属性としての意味をもつものである。これを実体論的段階と名づける。ケプレルの段階であり、論理はスピノザ的である。
 第三の段階においては、認識はこの実体論的段階を媒介として本質に深まる。これはさきのニュートンの例に示したように、諸実体の相互作用の法則の認識であり、この相互作用の下における実体の必然的な運動から現象の法則が媒介し説明しだされる。すなわちこの段階においては propter hoc という言葉で特徴づけられる。an und für sich の段階であり、概念論でいえば普遍的判断であり概念の判断である.すなわち任意の構造の実体は任意の条件の下にいかなる現象を起こすかということを明らかにするものである。これを本質論的段階と名づける。
 実体論的段階から本質論的段階へ進むのは、このように実体的契機によって実体を含みながら、実体的なる法則の見方を否定して高まるのであって、本質論的段階において、その認識に固有なる論理的性格があらわれるのである。たとえばニュートン力学における微分方程式の如きである。これをこのように立体的に見ない時にカッシラーの様に実体的なものの単なる否定、そしてその反対物たる機能へと解消するという考えになるのである。実際は実体の論理がより本質的な論理へと高められるのである。
(引用おわり)
 へーゲル判断論とニュートン力学の形成史が定式を構成しているが、武谷三段階論とは認識の過程的・構造的な把握の形式なのである。

 考察を進めていくと自分でも思いがけない展開にぶつかるものである。科学史の方法として選んだ武谷三段階論を修正することになるとは最初はまったく考えもしなかった。いまから思えばトーマス・クーンの「通常科学」を進めるバラダイムのようなものとして私は武谷三段階論を考えていたのだと思う。ところが歴史の現実に限りなく接近しようとしたとき変則性に気づき、バラダイムの、つまり武谷三段階論の修正に向かったのだ。

 周期律の形成過程の把握には武谷三段階論の修正が必要とされ、それを修正することによってはじめて「周期律の形成について」は実現できたのである。

 化学に目を転じて方法と考えた武谷三段階論を見直したとき、踏襲するカテゴリーには物理学がしっかり刻印されていてとまどったものだ。武谷が依拠したヘーゲル判断論の系譜にニュートン力学形成史を位置づけし、その物理学史的例証として捉えなおすことによって武谷三段階論の発想の基底にある物理学を捨象することにした。そして、ヘーゲル判断論の化学史的例証として周期律の形成史を展開していく場を設定した。

 問題は実体にあったのである。武谷の「実体」は物、系、模型、構造、運動方程式などいろんな意味を持っている。いまはくわしく述べないが、かなり恣意的であると思う。こういう恣意的なことは武谷の武谷三段階論に固有のものとして置き去りにして、私は自分で修正した武谷三段階論の実体とは何かを考えた。私の立場から言えば「実体」とは「本質と偶有性」の問題である。

 実体を本質と偶有性と捉えることは、同時に武谷の意図を捨象することである。つまり、武谷三段階論の実践性、現実に個々の科学を推進させる科学方法論としての有効性に対する疑問を導くのである。

 武谷はニュートン力学の形成史から先にのべたような三つの段階を捉え、当時(1940年代前半)の素粒子論の研究段階を実体論的段階と把握して、新しい素粒子の導入という研究の方向性を考えたのだ。しかし、これは結論からいえば間違いではなかったが、正鵠を射ているというわけではなかったのである。その抽象性のゆえに妥当はするが、個々の研究を進めていく科学方法論としては武谷三段階論は器が大き過ぎるのである.それは百年くらいの時間のなかではじめて見えてくる構造であって、ヘーゲル判断論の抽象性と同じレベルで捉えてはじめて真価を発揮するものである。だから私のなかに武谷三段階論で生き残ったものは現代的な課題にオベレートする姿勢とニュートン力学形成史の論理構造だけである。

 実体論的段階とは、現象が起こるべき実体的な構造の知識がメルクマールになっている。これを私は捨象するから、実体論的段階とは本質論的段階から見れば偶然的なものを原理としている段階である。このような把握は、ケプラーの法則が誕生した太陽系の実体的な構造を捨象し、ケプラーの積分法則では天王星の複雑な運動を捉えられない点を強調することに対応している。ここで周期律の歴史から例をとってこの関係を説明してみよう。

 メンデレーエフは元素の性質の周期的な変化を原子量を基準に把握した。メンデレーエフの原子量のとらえかたは1871年の論文から引用すれば「どのような変化のもとでもそれ自身変化しないで維持されると自信をもって主張できるほど揺るぎない確実なもの」であった。この段階で元素の大部分は原子量の増加順に性質を周期的に変えていったが一部に例外があった。それらに対するメンデレーエフの姿勢は誠実さそのもので自分の発見した周期律に基づいて原子量の修正を行った。メンデレーエフの修正が妥当な場合が多かったが、度重なる再測定にもかかわらず依然として周期表の位置と原子量の大きさが逆転している元素対があった。それはテルルとヨウ素などの元素対である。

 周期律が発見された初期において、さらにエカ元素が予言通り発見されていく1880年代においても、これらの元素の原子量の大きさの変更が原子量の増加順というバラダイムにしたがって信じられていたことだろう。じっさい、メンデレーエフが周期律の補強者の一人としてブラウナーを挙げたのは、このことを示している。しかしテルルとヨウ素、コバルトとニッケル、さらに希ガスが発見されてカリウムとアルゴンなどは明らかに周期表の位置と原子量の大きさが逆転していた。ここに周期表の中に原子量の増加順からはずれる変則性が確実に存在することが分かったのである。実体論的段階ではこれらの変則性について何も説明することはできない。もっと深い事情があることは予感できるがそれ以上のことはわからないという状態である。

 もちろん変則性というのは、原子番号(原子核の正電荷数)ではなく、原子量を基準にして周期律を考えていたから起こっていたのである。それゆえ、基準を原子量から原子番号へと変換し、原子量を同位体の質量の平均として把握しなおせば原子量の大きさに逆転関係があっても不思議ではなくなる、つまり変則性は解消するのである。逆に、実体論的段階での展開は本質が発見されていないために、その内部に変則性をかかえこんでしまうのである。それは偶有性をも原理にくみこんでいる段階である。

 いまスケッチした周期律の歴史において、原子量は本質と偶有性の複合体としての実体であり、周期表の位置と原子量の大きさの逆転問題は実体論的段階の偶有性の問題であると考えるのである。

 しかし、もちろん大事なことは、本質論的段階から実体論的段階の限界性をみることにあるのではなく、本質論的段階が実体論的段階から「実体的なる法則の見方を否定して」生まれてくる過程をみることである。それは本質と偶有性を見つめることを意味している。方向づけていえば実体の偶有性の止揚を考えることである。

 ところで、さきのスケッチは、実体論的段階の特徴と『科学革命の構造』の用語(パラダイムと変則性)を組み合わせたものである。偶有性を変則性と対応させると、修正した武谷三段階論はクーンの科学革命の本質論と密接に関連してくる。

 クーンは『科学革命の構造』で次のように述べている。「変則性はバラダイムによって与えられた基盤にたいしてのみ現われてくる。そのバラダイムがより正確で、より徹底したものであればあるほど、変則性をより敏感に示すことになり、そしてそこからバラダイムの変更に導くのである」。私はバラダイムの変更を導いた変則性の端的な例として周期律の形成過程におけるテルルとヨウ素の元素対をあげておきたいと思う。

 実体の偶有性の止揚を考えることが大切だといったが、それはたとえば次にあげるラムゼーの位置に現在の私たちを置くことである。希ガスの発見者であるラムゼーは1897年の「ある未発見気体」のなかで、逆転問題・変則性を冷静に見つめる姿勢を示している。
(引用はじめ)
 しかし、人の心はこのような不規則を単に列挙することに満足するものではありません。何故にこのような不規則が存在するのか、その原因を理解しようと努力するものであります。これに関して私は二つの問題点を指摘したいと思います。われわれが"原子量″と呼んでいる″化合比″に変更を生じるようななんらかの状況が存在するのか? そして、われわれがそれを意のままに変更できると想定する理由がないものか? 原子量はひとたび定まればもはや変化することのない真の自然の定数であろうか? それともその値に変更をきたすような変化がなく、状況が不変のままでいるかぎりにおいてのみ一定なものであろうか?
(引用おわり)
 一つの問題はその問題にみあう答えが見つかれば終わるものである。もしも見つからなかったら、バシュラールのことばを借りていえば「思考にとっての休息はない」のである。提出されたその瞬間に終わってしまう問題もあれば、長期間、一年、十年、百年の単位で答えが見つからない問題もあるだろう。私が自分の問題にひとまず終止符を打てそうに思えたのは、もちろん答えを見つけたと思ったときである。

 周期律の形成過程を武谷三段階論を方法として展開するという問題意識はエンゲルスの『自然弁証法』のなかの一節がきっかけになったのである.そこでエンゲルスはエカ・アルミニウム(ガリウムのこと)の発見を海王星の発見と対比していたのだが、その対比に私はギャップを感じたのである。問題意織が急激に自分のなかで明確になっていくときの驚きと喜び。私はそのときの感動を自分に納得できるような形で仕上げたかったのである。

 私はニュートン力学の形成史を伴奏にしながら周期律の形成史の旋律を奏でるつもりだったのだから、もっと早く周期表におけるウランーネプチニウムープルトニウム( Uranium - Neptunium - Plutonium )の並びに気づいてもよかったはずだ。しかし、じっさいには長い間このことに気づかずにいた。ウランは1789年に発見されていて、メンデレーエフは一番重い元素として自分の周期表の「限界」に位置づけていた元素であった。ネプチニウム、プルトニウムは最初の超ウラン元素として二十世紀になって人工的に合成されたものだ。これらの元素の名前はギリシア神話の神々に由来するが、これらの神々は太陽系の惑星にも姿を現わしているのだ。すなわち、天王星、海王星、冥王星( Uranus - Neptune - Pluto ) がそれである。

 この事実は地を這う考察に対する天からの贈物のように思えた。いったい、エンゲルスがエカ・アルミニウムの発見と海王星の発見を対比したことは何だったのだろう。武谷が海王星の発見をニュートン力学の形成史の本質論的段階を特徴づけるものと指摘したのは何だったのだろうか。そして、私が周期律の形成史の本質論的段階を特徴づける元素としてネプツニウムやプルトニウムを指摘するのは何なのだろう。不思議な気持になってしまう。ネプツニウムはマクミランの命名であり、プルトニウムはシーボーダの命名であるが、周期律の形成過程をニュートン力学の形成史を内在化して展開するという問題意識は、これら人類の認識史の韻を踏む命名をとらえて完全な形で表現できたように思えた。それはもちろんひとつのレトリックにすぎないのだが、そのレトリックのなかに周期律の形成過程の「論理」と「歴史」が正確に保存され、私の考察の出発にみあう答えだったのである。

 やっと求めていたものに出会えたという喜び。求めていたものが最初から目と鼻の先にあったという驚き。ケストラーの『ホロン革命』のなかに、芸術家や科学者は、時間の窓のむこうに、ときおりちらりと永遠を見る、それが中世のステンドグラスであるか、ニュートンの万有引カの公式であるかは、気質と趣味の問題であるという一節があったが、このような自分の思考がまったく自分から離れはるかかなたへ飛んでいくという心理をこのとき味わうことができた。それは素敵な体験であった。

 武谷が素粒子の研究段階を実体論的段階と位置づけたことはもちろん間違いではなかった。実体論的段階とは別の言葉でいえば研究が過渡期にあるということである。三つの段階でもっとも魅力のある段階とはやはり実体論的段階である。それは「メタファー」と「代数」がオーバーラップしていることの魅力である。科学者でいえばケプラーやメンデレーエフである。メンデレーエフが提出した周期律はパウリの排他律によって完全な姿を見出したわけだが、逆にいって空白と疑問符のあった1869年の周期表にはボーア原子論もパウリの排他律も潜在していたのだ。こんなふうに私はメンデレーエフを見ていた。

 スプロンセンの『周期系の歴史』は豊富な資料を踏まえた本である。しかし、形成過程を捉えようとする私の立場からみると、次のような見解は歴史過程や認識過程の歪曲のように思え、納得できなかった。
(引用はじめ)
 周期表が最終的な形に落ちついたのは、周期性の本質が原子構造から説明できるようになるより前のことであった、ということは注目すべき事実である。原子構成要素粒子の発見は分類体系を疑惑のなかに投げこんだりはせず、それまでの漠然とした判断を補強することになった。
(引用おわり)
 これは力点の置き所を間違えた見解で、ボーアの原子論にとって周期表は否定したり、疑惑をもったりするようなものではなく、逆に継承すべき認識であり原子論がそこから生まれてくるような母胎だったのである。つまり、ボーアは元素の周期性を説明できるように自分の原子論を構成したのである。それはニュートンにとってケプラーの法則が否定するものではなく継承すべきものだったのと同じである。ボーアの原子論さらにパウリの排他律はニュートンの微分方程式にあたり、メンデレーエフの周期表はケプラーの法則にあたっているのである。原子量の逆転問題や希土類元素の位置づけの問題は二十世紀までもちこされ、漠然とした判断だったにちがいないが、それはケプラーの積分法則では天王星の複雑な運動をとらえきれなかったのと同じレベルの問題で、ニュートンがケプラーの問題を継承し、その認識を修正し拡張し完全なものにしたのと同じように、モーズリやボーアやパウリがメンデレーエフの問題を継承し、その認識を修正し拡張し完全なものにしたのである。

 周期律は周期律の形成過程を見ることによって豊かな観点を私たちに与えてくれるものと確信している。





 


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4 コメント

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こちらはまだ読んでいませんが、  (aoyama)
2021-12-29 14:26:07
こちらはまだ読んでいませんが、一つ前のブログをディスプレイ上では読めなかったので、プリントして読みました。

意見に100%は賛成でありませんが、面白いと思っています。

「数学・物理通信」に掲載できるかどうかを考えております。

私の意見を申し述べますと、周期律の発見は現象論的段階であり、その実体的概念は元素の原子量でしょう。そして本質は原子番号、すなわち、原子核内陽子の数です。

メンデレーエフは現象論的法則を原子t御いう実体的概念と共に発見したことになるでしょう。

メンデレーフ自身は周期律を先に気づいていて、それを理解するために原子量という概念を用いたのだた考えています。

そして周期律を成り立たせているのは原子量ではなくて、原子番号、すなわち、原子核内の陽子の数であった。

なぜなら、陽子の数が核外の電子の数を規定するからです。すなわち、原子の化学的性質を規定するからだと思います。

ですから、私自身はメンデレーフの周期律において、現象論と実体論はメンデレーフ自身が深く寄与し、本質論においてはモズレーの原子番号の意味の研究が本質的だという風に思いました。

その私の意見はともかくとして、あとがきはけっこう興味深い考察だと思った次第です。

それと長い文章をディスプレイ上ではなかなか読めません。結局プリントしてしか読めません。

これはブログに長い文章を書くなというkとではありませんが。
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修正します (aoyama)
2021-12-29 14:32:52
慌てて投稿したので、修正をします。

メンデレーエフは現象論的法則を原子量という実体的概念と共に発見したことになるでしょう。

メンデレーフ自身は周期律を先に気づいていて、それを理解するために原子量という概念を用いたのだと考えています。

これはブログに長い文章を書くなということではありませんが。
返信する
こちらもプリントして読んでみましたが、 (aoyama)
2021-12-29 15:16:25
こちらもプリントして読んでみましたが、前の方が興味は深いような気がします。

ほぼ同じ趣旨かとは存じますが。
返信する
お手数をおかけしました (kiichiro)
2022-01-04 17:39:28
スマホの画面では長文は無理ですが、PCの画面なら大丈夫だと思っていました。確かにプリントすれば読みやすく、私もときにはやっています。

もともとホームページにのせていた長文の記事がブログにのるのかを試してみたものでした。

先生に興味をもっていただき恐縮します。正月は以前の資料を引っ張り出してきて読んでいました。「化学の原点8」、「周期系の歴史」(上)の半分ほど、ケドロフはまだ読み直していません。また、ネットに梶雅範の論文(「メンデレーエフの周期律発見に至る過程に関する考察」)を見つけて読んでいるところです。

いまの関心は現象論から実体論への移行にあるように思えます。実体論から本質論へ移行は実体の偶有性の止揚であるのに対して、ここでは実体の導入を見ることになります。

メンデレーエフは原子の概念を避けていました(信じていたと思いますが)。現象論的段階の原子論はドルトンのもの(1803)で、実体論的段階では原子論は背後に隠れ、本質論的段階ではボーアの原子論(1913)になったという図式が浮かんでいます。

いずれカテゴリー「周期律」の記事で投稿していきます。
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